大橋 郁がお届けする『KIND OF JAZZ』。
うろたえず、媚びない。
そんなジャズにこだわる放浪派へ。
主流に背を向けたジャズセレクションをどうぞ。
大橋 郁
松井三思呂
吉田輝之
平田憲彦
マッコイ・タイナー
撰者:大橋 郁
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当コラムの第57回で、オスカー・ピーターソンについて書いたときに触れたように、20世紀後半のジャズ・ピアノの世界で圧倒的な人気で他を圧倒したピーターソンは、1970年代に限っては、米ダウンビート誌の人気投票で一度しか首位になっていない。この時期においては、ほとんどの年においてマッコイ・タイナーが首位を連続独占していた。
マッコイ・タイナーは、65年末にコルトレーンのグループを脱退し、ブルーノート・レコードを経て、71年にマイルストーン・レコードに移籍していた。そして、サハラ(1972年)、ソング・フォー・マイ・レディー(1972年)、エコーズ・オブ・ア・フレンド(1972年)、ソング・オブ・ザ・ニューワールド(1973年)、サマ・ラユーカ(1974年)、トライデント(1975年)、フライ・ウィズ・ザ・ウィンド(1976年)などなど、意欲的で素晴らしいアルバムを続々と発表し、ジャズ・ピアノ界をマッコイ旋風が吹き荒れていたのである。
彼のピアノや音楽は、それまでのジャズとは一味違っていて、いわゆる軽快にスイングするジャズではなく、もっとドロっとした感じがした独特のものだった。その感覚を言葉で表現するのは極めて難しく、日本のジャズ界でも、一時「マッコイ・タイナー系の音楽」という云い方があったように記憶している。
また、この時期の日本のジャズ・ピアニストは皆、マッコイ風に弾くことを目指し、ある意味で個性がなくなり、誰を聞いてもマッコイを聞いているように感じたものだ。
いわば、この時代はジャズ界の誰もが、マッコイの魔法にかかっていたのではないだろうか?
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ところで、当コラム第30回で松井さんがファラオ・サンダースを取り上げ、スピリチュアル・ジャズについてかなり突っ込んだ見解を述べておられた。
「スピリチュアル・ジャズ」と呼ばれることばに関しては、ジャズの中のひとつのジャンルと云えるかどうかは微妙であり、言葉の定義も曖昧だ。しかし、一般的には「精神性・宗教性・神秘性・アフリカ回帰」などを強く意識して目指した結果、アウトプットされてきたものを総称してそのように呼ばれているのであろう。アフリカ系黒人のマザー・ランドであるアフリカの大地を想起させる、力強いビートが強調されていて、聴いているうちに、どんどん引き込まれていく。
このスピリチュアル・ジャズの作品は、「ジョン・コルトレーン/至上の愛(1965年)」が代表作として挙げられることが多いが、どちらかと云えばこれは後世になってからスピリチュアル・ジャズのルーツ的作品として位置付けられたのであって、当時からスピリチュアル・ジャズという言葉があった訳ではない。
一般的には、1980年代以降のファラオ・サンダースの「ライブ(1982年)」、「ジャーニー・トゥ・ザ・ワン(1980年)」などの比較的新しい作品が、ずばりスピリチュアル・ジャズの作品として語れる傾向がある。
1960年代の公民権運動や、1975年まで続いたベトナム戦争を経て、「合衆国市民」となっていった米国黒人が、次に目指したのが、上述した精神性やアフリカ人としてのスピリッツ、そしてアフリカ回帰だったのかも知れない。それが90年代になって、既存のジャズ・ジャーナリズムよりもむしろクラブ・シーンの中でDJなどによって再評価され始め、注目されてきた。つまり、スピリチュアル・ジャズという言葉は、後からつけられた呼び名であり、当時からスピリチュアル・ジャズというジャンルの作品として紹介されてきた訳ではない。
ジャズの起源は、黒人霊歌即ち「スピリチュアル」であり、そもそも高い精神性を有した音楽であった。その精神性には、差別性や排他性はない。アフリカ人でもアメリカ人でもない日本人が聞いても、人種を超えて高揚感や癒しの安らぎを得ることが出来る。
「マッコイ・タイナー系音楽」も、コルトレーンから受け継いだアフリカ回帰の精神性を宿した音楽であり、このスピリチュアル・ジャズに深く関わっている、或いはスピリチュアル・ジャズの本流に入る音楽と云えるのではないか、と思う。
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さて、70年代のマッコイ・タイナーは、素晴らしい作品を怒涛のように発表し続けているが、今回取り上げた「ソング・フォー・マイ・レディー」は1972年の作品。マッコイは、コルトレーンのグループを1960年代末に脱退した後、ブルーノート・レコードを経由して、マイルストーン・レーベルに移籍し、最初に「サハラ」(1972年)というアルバムを発表している。このアルバムこそは、強烈なアフリカン・リズムで、その後怒涛のように続くマッコイ旋風の序章ともいえる意欲的な大作であった。寒々とした廃墟でマッコイが座って琴を弾いているジャケトも話題になった。
そして、「サハラ」に続いて同年「ソング・フォー・マイ・レディー」が録音される。
基本的に、前作同様にアフロ色が強く、延長線上にある作品と云える。
今あらためて思い起こすと、50年代、60年代のピアニストというのは、マッコイを除けば、多くはマイルス・バンドから出てきている。そして、そのキーボディスト達によって作られていく70年代のジャズが、電化/フュージョン化して軽くなっていく風潮の中で、マッコイ・タイナー系音楽は重く、ストレートでエネルギッシュなものだった。生真面目であり、ハードであり、パワフルでもあった。ハンマーを振り落すかのようにガンガンくるマッコイの強靭な左手に乗せて、右手のアドリブが疾走するように敷き詰められていく。どちらかと云えば全体としては、「ストイックな音楽」といった印象が強い。
A-2「夜は千の眼を持つ」は、元は1940年代の映画音楽であり今ではスタンダード曲となっているが、ここでのマッコイの演奏からは、強烈なリズムがこれでもか、というくらいに強調されていて、当時のニューヨークのジャズ・シーンのムンムンとした熱さを感じる。こうした精神の高揚というかエネルギーは、もちろんルーツとしてのアフリカから来ているものに違いない。
この曲と次のB-1「ソング・フォー・マイ・レディー」での、サックスのソニー・フォーチュンのソロが素晴らしい。因みに、サックスのソニー・フォーチュンとパーカッションのムトゥーメは、この後、マイルス・デイヴィスのグループに移籍し、1975年の名作「アガルタ」の録音に参加することになる。また、A-1の「ネイティブ・ソング」と、B-3「エッセンス」では、フリューゲルホーンのチャールズ・トリバーが重要な役割を果たしていて、全体のトーンを作り上げている。ハッキリ言って吹きまくりである。
チャールズ・トリバーは、この当時ミュージック・インクというグループを率いて、ストラタ・イースト・レコードで実験的な録音に意欲を燃やしていた。
B-2「ア・サイレント・ティア」での、マッコイによる無伴奏ピアノ・ソロ以外は、ほとんどの曲が急速調の展開で、参加メンバー全員が渾身の力を込めて産み落とした「音の塊」ともいうべき情念の音楽である。
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ジャケット写真については一切説明がないが、録音がニューヨークで行われていることから推測して、セントラル・パークの中に幾つかある湖の内の、あるひとつの岸辺で撮影されたのではないだろうか。一緒に写っているのはこれも推測だが、細君のアイシャ(Aisha)であろう。
マッコイは同じフィラデルフィア出身のアイシャと、1959年に結婚している。「ソング・フォー・マイ・レディー」という自作曲をアルバム・タイトルに冠し、自分と妻が自らモデルとなって、ジャケッット写真に収まる、というのは普通ならかなり照れることであり、躊躇することであろう。もしかしたら、妻への溢れる想いを何かカタチに残しておきたいという動機がこの時期のマッコイにあったのかも知れない。
ジャズ・アルバムのジャケットといえば、大抵はミュージシャンの写真が主流である中、極めて異例で、気恥ずかしいくらいにロマンチックな写真を使用した美しいジャケットも、マッコイ・タイナーという人の実直さや、自身の音楽に対する揺るぎない自信を表しているように思う。
「ソング・フォー・マイ・レディー」は、70年代のマッコイの一連の傑作群の中では決して目立つ存在ではないが、強烈に熱い作品であり、絶対のお薦めである。
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