大橋 郁がお届けする『KIND OF JAZZ』。
うろたえず、媚びない。
そんなジャズにこだわる放浪派へ。
主流に背を向けたジャズセレクションをどうぞ。
大橋 郁
松井三思呂
吉田輝之
平田憲彦
山下洋輔トリオ
撰者:松井三思呂
【Amazon のディスク情報】
皆さん、100回記念企画の片岡学さんインタビュー、いかがでしたか?
ジャズとの出会いから現在まで、60年を超える時間のなかでの出来事を驚くべき記憶力に基づき、整理された言葉で語ってくれた片岡さんには、どうお礼を言えばよいのか。感謝の言葉が見つかりません。この場を借りて、改めてお礼を申し上げます。
また、インタビューを約2万字のテキストにまとめてくれた平田さんにも、心から感謝の意を表します。ありがとうございます。
※
12月の声を聞いて、今年もカウントダウンといったところ。振り返ってみると、今年は例年以上にいろいろなライヴに参戦した一年であった。
ジャズのライヴでは、放浪派4名で出掛けた片岡さんのカルテット(三宮のBar Martini)をはじめ、板橋文夫ソロ(神戸税関前のKIITO)、高槻ジャズストリート、高槻ジャズストからの奥本めぐみ&伊藤志宏(北野のRustic House)が印象深い。
また、ジャズ以外でも、恒例の春一番、新開地音楽祭はもちろんのこと、キューバ音楽(Dos Sones de Corazones)、河内音頭(河内家菊水丸)など、素晴らしいパフォーマンスに出会うことができた。
ところで、ミュージシャンにとっては、その演奏の場がニューヨークのカーネギーホールであろうが、三宮の路上であろうが、ライヴ演奏には多かれ少なかれ、いくばくかの緊張感が伴うものだ。
このコラムで紹介する作品は、演奏の場として、とてつもなく異常な空間で演奏されたものの記録であり、演奏者も聴衆も尋常ではない緊張感に包まれている。
今回の一枚は、山下洋輔トリオの記念すべき処女作『DANCING 古事記』。
『DANCING 古事記』(麿レコード OS1129/30L)
山下洋輔(p)、中村誠一(ss)、森山威男(ds)
(side A) テーマ、(side B)木喰(もくじき)
1969年7月 早稲田大学本部キャンパス4号館(現8号館)地下一階で録音
さて、今の大学生に「『バリスト』って、知ってる?」と質問すれば、「それを言うなら、『バリスタ』でしょ! カフェやバルでエスプレッソを淹れてくれる人のこと(笑)」と、馬鹿にされてしまうだろう。
まして、「ゲバルト」、「全共闘」、「中核派」、「革マル派」と言っても、反応は「・・・???」。
ここまでの状況ではなかったが、私の大学時代でも既に学生運動は求心力を失い、下火となっていて、立看板はチラホラ立ち並んでいたが、ヘルメット姿の学生を見かけることは稀となっていた。
これに対して、『DANCING 古事記』が録音された69年初夏の早稲田大学では、学園紛争が燃え盛っており、中核派分派の黒ヘル「反戦連合」が大学当局と革マル派の馴れ合いを批判、本部と第二学生会館をバリケード封鎖していた。
何故、山下洋輔トリオのデビュー作(山下洋輔個人としての処女録音は、私が78回コラムで採り上げた『銀巴里セッション』、当時は国立音大作曲科の2年生)が、このような状況の早稲田大学で録音されたのか?
まずは、次の動画を是非ご覧いただきたい。
【YouTubeの動画】
この動画は、現在テレビで大活躍中の田原総一朗が、東京12チャンネル(現テレビ東京)のディレクター時代に制作を手掛けたシリーズ『ドキュメンタリー青春』の中の「バリケードの中のジャズ〜ゲバ学生対猛烈ピアニスト」という番組を編集したものだ。
そして、この時の演奏が麿赤児と立松和平の手により、71年に自主制作盤『DANCING 古事記』としてレコード化。麿プロダクション名義で3,000枚プレスされた。
麿赤児は唐十郎の劇団「状況劇場」設立時のメンバーで、当時「状況劇場」を退団して、自分の主宰する「大駱駝艦」を旗揚げする直前であった。
また、立松和平は当時『今も時だ』という短編小説(この早稲田ライヴを題材として、主人公は山下洋輔がモデル。題名はパーカーの「Now's the Time」から。)が初めて「新潮」に掲載され、「新潮新人賞」の候補になり、プロ小説家のスタートを切ったところだった。
当然のことながら、私が所有する『DANCING 古事記』は超レアなアナログ盤ではなく、95年に「貞練結社」という出版社がアナログ起しで、リイシューしたCDボックスである。ボックスと言ったのは、CDに加えて、立松和平、麿赤児、山下洋輔、三者連名の「草子篇」と名付けられた240ページものブックレットが付属しているからだ。このブックレットが読み物として、非常に面白い。
上の動画を見ると、医者の診断を受けるシーンがあるように、この頃の山下洋輔は肋膜炎の療養を終え、演奏活動を再開したところで、中村誠一、森山威男とトリオを結成して間もない頃であった。
また、動画のなかには、奥さんの内職シーンや、電話で流行歌の仕事の依頼をされるが、奥さんがそれを断るシーンなどがある。これらは全て、田原総一朗の演出、いわゆるヤラセだ。
田原総一朗の読みでは、黒ヘル「反戦連合」が自分達の勢力圏外である大隈講堂から、門外不出のスタインウェイを持ちだして、ライヴを始めると、対立するセクトがゲバルトをかけてくるということだった。しかし、その読みは外れ、対立セクトのゲバルトはなく、トリオの演奏は無事に終了した。
立松和平の短編小説『今も時だ』では、ライヴ演奏の真っただ中、黒ヘルと黄ヘルの衝突があって、森山威男はゲバ棒で袋叩きにされ、山下洋輔は血ヘドを吐いて倒れ込むと描かれている。これは全くの創作だ。
このあたりの裏話を、山下洋輔が『真相「今も時だ」』(初出:「早稲田文学」1971年6月号)で暴露している。
山下洋輔という人は物書きとしても才能に溢れた人で、著作も数多い。ブックレット「草子篇」のなかには、立松の『今も時だ』とともに、山下の『真相「今も時だ」』が収録されており、大変興味深い内容なので、ここでその一部を紹介したい。
「当時はやはり一応の覚悟はして行ったのだが、演奏は平穏無事に終わり、まさに『今も時だ』の最後の場面を期待していた田原氏を口惜しがらせた。聴衆の服装はヘルメットにゲバ棒だが、演奏の画面で30分間をうめても少しも面白くない、と判断した田原氏は、仕方なく、この場面をクライマックスにしたぼくのお涙頂戴劇を作ることにしたらしい。女房に内職させたり、八百長電話をかけて来て断わらせたり、医者にこれ以上演奏すると死ぬぞ、といわせたり、ぼくを多摩川土手に連れてって夕日に向かって走らせたり、寝ころがってセンベイを食わせたり、無理やり連れて来た学生達と飲み屋で議論させたり、ぼくは言われるままにした。
(中略)
これがぼくにとっての「真相」の一部である。おそらく、あの場に居た全ての人にとってそれぞれの「真相」があるのだろうが、ぼく自身はどうしても「テレビ」なしにあの出来事を語ることが出来ないのである。」
<山下洋輔著『真相「今も時だ」』から引用>
さて、CDに収録された演奏の中身である。
田原ドキュメンタリーの動画のなかにもあるように、CDは黒ヘル「反戦連合」のリーダー彦由常宏の「アジテーション」で幕を開ける。聴こえにくい箇所もあるが、「学生運動」、「大学の解体」という言葉が何度も出てくる。最後には、アジテーション調の強い口調から、「いやらしさがあるんですけど、できればカンパをお願いしたいと思います」という優しい口調になるところが微笑ましい。
彦由常宏は立松和平、麿赤児とは早稲田の同窓で、彼らと山下洋輔が交り合うきっかけとなった人物。剣道の達人で、後にテレビ界で活躍し、プロデューサーとして活躍する傍ら、自分の制作会社を立ち上げ、テレビ朝日のワイドショーのキャスターも務めた。
また、大隈講堂からスタインウェイを担ぎ出した黒ヘルのメンバーのなかには、高橋三千綱や中上健次、北方謙三が含まれていたらしい。そして、ライヴを告知するする立看板には、相倉久人と平岡正明の文字。実に「濃い〜」人々が山下洋輔トリオを取り巻いていた訳だ。
彦由の「アジテーション」に引き続き、異常な緊張感をふっ切るように、トリオは演奏をスタートさせる。
曲名は「テーマ」。早稲田の学生運動のセクト争いなど眼中には無いように、山下は最初から全速力、パワー全開。それに絡んでいく森山のドラミングは、言葉を持って表現しようがない凄まじさ。
山下と森山のインタープレイの後、中村が勇躍と参戦。3者一体となった音の洪水が押し寄せてくる。黒ヘルの学生達も緊張感のなか、放心したように聴き入っている。
続いて「木喰(もくじき)」。この曲のテーマは、中村誠一が山尾三省の詩にインスパイアされて書いたもので、ソプラノ・サックスが奏でる非常に美しいフレーズが印象的だ。
私の山下洋輔トリオ初体験は山下〜坂田明〜小山彰太(第3期)であったために、これまで中村誠一は影が薄い存在であったが、今回じっくり聴いてみてぶっ飛んだ。フリージャズはサックスプレイヤーにとって、腕前がストレートに表れる演奏形態であるが、ここでの中村はタンギングの技量、分厚い音色と鳴り、湧き上がってくるフレーズの積み重ねなど、どれをとっても一級品のプレイで、聴衆を圧倒する。
加えて、ひじ打ち、げんこつを織り交ぜながら、超高速の爆音ピアノで応酬する山下。疾風怒涛、「どこまで行くんや!」と叫びたくなるドラムの森山。
もうこれ以上、彼らの演奏を言葉で綴ってみても意味がないので、ともかく17分間に及ぶ狂乱の宴「木喰」を聴いてみて欲しい。
このライヴ当時、山下洋輔27歳、中村誠一22歳、森山威男24歳。トリオの結成から日が浅く、山下の病気療養による活動中断期間があったにも関わらず、後年ヨーロッパのジャズ・フェスティバルを席巻し、聴衆から絶賛を浴びるスタイルはここで既に完成している。
自分達の演奏スタイルについては、山下が『風雲ジャズ帖(ノート)』(今で言えばブログ)のなかで、次のように記している。
『何故、俺はドシャメシャに演奏をするか』
「一年半以上前に、ドラムの森山威男とサックスの中村誠一という二人の共演者を得て中断していた演奏を始めようとした時に、おれ達が決めたのは、思いっきり勝手にドシャメシャにやろう、という事だった。おれがその時何よりも欲しかったのは『パワー』であり、一人一人が最高の『パワー』を出せる方法はやはりドシャメシャ以外にはなかったのである。当然、従来の、演奏者全員に共通のテンポとか和音(進行)は無意味になる。それらを維持しようとする努力が『パワー』を半減させるのである。そういう『きまり』をなくしたらデタラメにならないかという人があるかもしれない。デタラメという事については後でゆっくり考えてみてもよいが、今ここで言えるのは、人間のやる事に本当のデタラメなんかあり得ない、という事だけだ。」
<山下洋輔著『風雲ジャズ帖 I』(初出:「ライトミュージック」1970年12月号)から引用>
上の文章でも判るように、トリオが演奏において最も重要視していたものは「パワー」であった。
その証拠に、山下は演奏会場のピアノの弦を切り、ハンマーやペダルを壊すことも数多く、公共のコンサートホールでは演奏を禁じられたところもあったようだ。
また、森山は森山で、スティックを飛ばしたり、折ったりするのは毎回のこと。三回に一回はバスドラムやスネアの皮を破ったり、ペダルを踏み折ったり、シンバルを叩き割るなど、ドラムセットを破壊していたらしい。
そんなこともあって、私は彼らの演奏が「プロレス」と似ているように感じる。卓越した筋肉(技量)に裏打ちされた華麗な技(フレーズ)の応酬、ドシャメシャな場外乱闘、超絶なパワーを出し尽くした時に訪れる予定調和なエンディング。このようなところに、私は「プロレス」との共通点を見出している訳だが、コラムの読者の皆さんはいかがでしょうか?
ところで、話が横道にそれるが、私自身にも『DANCING 古事記』にまつわる「ゲバルト」な体験がある。
それは大学3年生の時、バイトをしていた大阪日本橋の中古レコード屋で起こった出来事。その中古盤屋はもともとマスターが大手楽器店でジャズレコードの仕入れを担当していたこともあり、ジャズ中心の品揃え。私の仕事と言えば、エサ箱の整理や倉庫からの商品補充などが主なものだったが、マスターが食事などで留守の時は当然に店番を任されていた。
そんな私が独りで店番をやっている時、その男は現れた。
その男は長髪でメガネをかけ、モスグリーンのミリタリージャケットにジーパン姿で、紙袋から1枚のレコードを出しながら、レジカウンターの私に近寄り、「これ買い取ってもらえませんか?」
私は「それでは拝見します」と言ったものの、ブツを見てビックリ! 噂には聞いていたが、現物を見たことがなかった『DANCING 古事記』が目の前に現れたからだ。
当時の私は、ブルーノートのキング盤やプレスティッジのモスグリーン・ラベルなど幅広く流通しているものなら、値付けに自信はあった。しかし、超レア盤のため、現在ネットオークションで4〜5万円で取引されているようなアルバムだ。その時は定価の2千円にどれだけプレミアを付けるか、買取価格の相場感は全く無かった。
私「すみません、マスターがもうすぐ帰って来ると思うので、少し待っていただけませんか。」
男「時間がないので、すぐに頼む。」
私「それでは少し預からせていただいて、その間に買い取りのお値段を決めておきますので、お時間のある時に店に寄っていただければ。あるいは、お客様が販売価格を決めて、売れた時にウチの店が手数料だけいただく委託販売という方法もありますが。」
男「いや、すぐに現金にしたい。」
相手の男がイライラしてきたことが判ったので、これは値段を言ってやらないと収まらないと思い、1万5千円ぐらいの売価を想定して、
私「盤もジャケットも良品ですので、4千円で引き取らせていただきます。」
男の顔が怒りの表情に変わり、メガネの奥の目の色も変わった。
男「バカヤロウ! このレコードは中核派の同志・・・・・、・・・・・したものだ。しかも、・・・・・。
自己批判しろ!」(・・・・・部分は、怒声でよく聞き取れなかった。)
男はそう叫ぶと、きびすを返して、店を出ていった。残された私はしばし放心状態。
少し落ち着くと、4千円は安過ぎたかという後悔にさいなまれたが、マスターが帰ってきて、事の顛末を話したところ、「4千円か、そんなもんちゃうかなぁ」という言葉に救われた次第。
約半年の間、この中古盤店でバイトしたが、後にも先にもここまで「ゲバルト」な体験はなかった。今となっては、良い思い出である。
ここまで書いてきたように、『DANCING 古事記』は山下洋輔トリオの処女作であるということに加えて、インディーズの中のインディーズとも言うべき「麿レコード」が残した唯一のアルバムである。
このことから、『DANCING 古事記』はこの時代に咲き誇ったアンダーグラウンドなアートや、サブカルチャーの象徴の一つとして、大きな価値を持つアルバムではないだろうか。
言い換えれば、この時代のアングラでサブカルな空気感が強く感じられるアルバムだ。
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