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Kind of Jazz Night

さんふらわあ JAZZ NIGHT 初代プロデューサー
大橋 郁がお届けする『KIND OF JAZZ』。
うろたえず、媚びない。
そんなジャズにこだわる放浪派へ。
主流に背を向けたジャズセレクションをどうぞ。


撰者
大橋 郁
松井三思呂
吉田輝之
平田憲彦

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第100回

Kind of Jazz Night 連載100回記念
片岡 学 インタビュー

第1部



第1部 少年時代
●ジャズとの出会い
●佐世保、岩国、神戸、京都の修業時代

第2部 ジャズでメシを食う
●東京時代、いよいよプロへ
●コンボからオーケストラへ
●シャンパンミュージックとの出会い

第3部 東京から神戸へ
●ニューハード、東京ユニオン、スターダスターズ時代
●神戸への帰還
●神戸北野クラブを皮切りに、再びトランペットを

第4部 70歳を越えて
●70歳にして初めてラッパを習う
●ジャズは人との出会いそのものだった



インタビュー
2013年7月27日
神戸市再度山 鯰学舎にて

取材:大橋郁、松井三思呂、吉田輝之、平田憲彦
協力:片岡美奈子氏
企画:松井三思呂
編集:平田憲彦
発行:万象堂



2011年に始まった万象堂Kind of Jazz Night、その連載100回を記念して、トランペッター、片岡学さんの2万字スペシャルインタビューを掲載いたします。
1934年生まれ、戦後すぐの混乱の時代に高校生になった片岡さんは、すでにトランペットを手にして少年ながら夜の神戸三宮でジャズを吹き始めました。2013年12月には79歳になる現在でもステージに立つ片岡さんはまさに、日本がジャズという文化を吸収し、発展させていく過程をそのまま生きてきたと言っても良いくらいの同時代性があります。
片岡学さんの視点を通じて、日本が歩んできたジャズの歴史を私たちは垣間見ることが出来ます。
4回に分けて掲載いたします。その興味深い日本のジャズ黎明期から現在80歳を目前にしたベテラントランペッターの物語。
お楽しみください。



第1部 少年時代

●ジャズとの出会い

実家の片岡家は、元々馬の商売をしていたんです。競争馬などを何十頭と。戦争中の話ですけど。明石には川西の軍需工場がありました。でも、戦争が激しくなっていって土地は強制撤収。家族はおふくろの実家の山口県まで疎開しました。何千坪とあったんですが、取られてしまいましてね。裁判をしたんですけど、勝てるはずもなく、涙金で手を打たされまして。
だから、戦争もトランペットもなければ、僕はきっと継いで馬主になってました。幼い頃から、将来は馬主というような教育を受けてましたから。

高校に入る前、昭和24年(1949年)くらいかな、まだ中学生の時に、僕の同級生の兄貴が明石南高校でトランペットを吹いてたんです。今と違って西明石はすごく田舎で。毎日学校から家に帰っては、当時の流行り歌の『バッテンボー(※1)』を吹いてたんですけど、彼の家によく遊びに行ってたんです。その兄貴が言うには、片岡くん、来年高校に入るんだったらラッパを吹けよ、と。ブラスバンド部に入れ、とそう言うわけですね。で、お世話になろうかと。

(※1=映画『腰抜け二丁拳銃』の中でボブ・ホープが歌っていた『Buttons & Bow』のこと。日本人には“バッテンボー”と聞こえた)


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ノーマン・マクロード監督、ボブ・ホープ出演
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当時僕の家からは校区の関係で明石高校へは行けなかったんです。明石川から西は明石南高校、東は明石高校で、男女共学のハシリでしたね。女性は明石女学校、男性は明石中学、それが半分ずつ一緒になって明石南高校ができた。そういうこともあって、明南(明石南高校)しか行けなかったので明南へ入ったんです。音楽の先生は明石高校だけに一人いました。ブラスバンドの素晴らしい有永先生っていうんですが、学校が終わってから明石高校と明石南高校は合同練習をしてたんです。明南には音楽の先生がいなかったんですよ。

元々明石中学でトランペットを吹いてた生徒が明南に入ってきた。僕もトランペットを吹くようになったんだけど、当時はロクな楽器が無くてね。でも一年生は「これを吹け」と与えられたんですが、それが錨のマークが入った、陸軍か海軍のオサガリのラッパですね。それを吹いてたんですが、自分で練習してもなかなか思うように音も出ないし、誰も教えてくれないしねえ。まあ、自分で吹けということだったんでしょうね。

同級生もブラバンの部員だったので、明石高校で練習が終わった帰りに、彼の家によってレコードを聞かせてもらった。その兄貴が明石高校生で僕らよりも2年上の先輩、ジャズが好きでね。ジャズと言っても、当時はオーケストラです。ハリー・ジェームスとかグレン・ミラーとか。そういうレコードをものすごくたくさん持ってたんです。それを聴かせてもらうのが楽しみでした。練習が終わったら彼の家に行ってレコードを聴かせてもらってたんです。

2年生の夏、先輩が三宮にあった米軍専門のクラブで吹いてたんですが、もう辞めるので代わりに僕に行ってくれないかと話をしてきたんです。ところがね、僕は何も吹けないわけですよ。行っても役に立たないだろうし、恥ずかしいし、吹けません、と返事をした。
そうしたらその先輩は曲を持ってきて、一番簡単な曲、コレとコレとコレ、そして最後に『グッドナイト・スウィート・ハート』という曲があるので、それは絶対に吹かなきゃ困る、と。そんな流れになってしまい、行くことになってしまった。その3曲か4曲の譜面をもらって、練習して、その店に行ったわけです。
その店で演奏していたバンドは、全員が学生さんなんです。関西学院の。で、みなさんものすごく上手くて。そこで2ヶ月くらいですかね、演奏したんです。そしたらとうとう親父に怒られて。なにをやってんだ、と。

高校三年生になったときの夏休みに、今度は三宮のキャバレー『新世紀』のオーケストラで3番トランペットを探してるから来てほしいと声がかかったわけです。面白そうだし行ってみようかなと思ったんだけど、頭が坊主でね。当時の高校生はみんな坊主だったんです。店からは「坊主は雇えない、もう少し髪を伸ばしてくれ」って言われて。5分くらいの長さになったときに行くようになってね。それが堀田ミノルオーケストラといって、関西ではかなり有名なオーケストラだったらしい。ところが、僕はなにも吹けないからねえ。当時のプロは意地悪くてね、ちょっとミスすると蹴られる。なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだって思ってイヤだったなあ。

それでも2ヶ月くらいは行ってたんですが、大学の試験もあるし、辞めましてね。バンドボーイ兼任ですからね。そこで一緒にやってたドラムが、「片岡、おまえどうするんだ、これから」と聞いてくる。「大学に行こうと思ってる」と言ったら、「佐世保に仕事があるんだけど、一緒に行かないか」と誘ってきた。米軍キャンプですね。
「給料はいくらくれるんですか」って聞いたら2万円だって言う。今の感覚では20倍はあるかな、40万か50万くらいの価値ですね。しかも先払いで1万円くれるという。それがきっかけで佐世保に行ったんです。

いよいよ行くというときに、内緒でおふくろだけに「行ってくる」と話したんです。そしたら、おふくろが「お父さんから餞別があるよ」と言われて渡されたものがあったんですね。それは、一度も袖を通してないドスキンの黒のスーツでした。親父は知ってたんですね。おふくろが話をしたんでしょうけど。

その後、東京に行ってしばらく経って、そこそこ稼げるようになってからは、ずっと親に送金してました。9年間くらいかな。元気でやってるよという手紙みたいなものです。でも、ある時に「2万円もらってる」と話したとき、「何か悪いことをやってるんじゃないだろうな」と言われましたね、確か。兵庫県の財務部長をしてた叔父がいましてね、もしもミュージシャンとしてやっていけなくなったら、どこの銀行でも紹介してやる、って言われましたけど(笑)


●佐世保、岩国、神戸、京都の修業時代

佐世保は東京からすごいミュージシャンがたくさん演奏に来てました。僕は、仕事の休憩時間に抜け出して彼らの演奏やリハーサルを聴きに行ったりしました。僕が本格的なジャズを聴いたのは、それが初めてだったんですね。トランペットを吹いてた山口さんという方が「坊や、マイルス・デイヴィスを聴け」と紹介してくれた。すぐにレコード屋に行ってマイルスのレコードを買ったんです。
だけど、何をどうやって吹いてるのかぜんぜんわからない。山口さんが譜面も書いてくれたんだけどね。これはブルースだから、これを聴けばいい、と。ただねえ、わからないんですね、やっぱり。自分で吹いてみても、これはブルースになってるのかな、と。それは『イスラエル(Israel)』という曲でした。


『Israel』を収録
Birth of Cool
Miles Davis
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結局、佐世保に行って半年でホームシックにかかっちゃって、神戸に帰ってきたんです。神戸の新世紀のはす向かいに『モロッコ』というナイトクラブがあって。お客さんの9割は外国人。そこのバンドに入ったんです。それが、スウィング&デキシーみたいなバンドで小編成でした。そこにまだ関大の学生だった小曽根実さんもいたんです。

次は岩国に仕事があると声がかかった。岩国は米軍キャンプの規模が大きく、米国のプロのミュージシャンがたくさん来てるから絶対行くべきだって言われて、行ったんです。翌年の4月です。朝鮮動乱のまっただ中ですごく活気もあって、兵隊さんがお客さんなんですけど、ドーナツ盤を山のように持ってきてね。でも聴く装置がない。ところが、兵隊さんが置いていってくれたんです、レコードもプレイヤーも。自分は朝鮮に行くけど、帰ってこれないかもしれない、そうなったらおまえにやる、と言ってね。それからはもう、しゃかりきになって聴きましたね。

その頃はチェット・ベイカーが流行りで、よく聴いてました。チェット・ベイカーを聴くまでは自分が何をやればいいかよくわかってなかったんです。チェット・ベイカーはガレスピーみたいなのじゃなく、僕でも吹けるような気がしましてね。必死になってコピーしたり練習したりしながら、毎日10時間は吹いてました。給料は2万5千円か3万円かもらってたと思うんですが、使う時間がない。タバコも珈琲も兵隊がみんなごちそうしてくれる。お金は使わずにすんでしまってましたね。

その当時、NHKのお昼に放送してた音楽番組がありましてね。毎日、12時のニュースが終わった後の30分、いろんなバンドが出る番組でした。たまたま聴いたトランペットがすごかった。日本人じゃないなあ、これは、と思ってたら、「トランペット、福原彰」とアナウンスでね。その演奏を聴いてから、もう東京に行きたくて行きたくて、この人に絶対に会いたい、って思ったんです。でも、東京には知り合いもない。一人でいっても仕方がないし。 ちょうどその頃の僕は神戸に戻ってきてて、京都の四条河原町にある『ベラミ』っていうジャズ喫茶に縁がありましてね。増田五郎という僕の弟がバンドリーダーをやってるバンドが出入りしていて、サックスが辞めるから代わりにトランペットで入ってくれないかと声がかかった。その頃は西明石に住んでたので、京都はさすがに遠い。行きは昼間だからいいんだけど、帰りは夜なので各駅停車しかないから3時間くらいかかる。遅番になると帰れないので、旅館代として500円くれるんです。300円あったら旅館に泊まれる時代です。ただ、朝になったらまた電車に乗って西明石まで帰らなきゃいけない。

その京都『ベラミ』では、3つか4つのバンドが演奏してました。前田憲男さんとか猪俣猛さんとか北野タダオさん、宮川泰さんなど、当時のそうそうたるメンバーでした。みんな19歳、20歳でしたね。決して大きな店じゃなかったので、満員でしたね。その頃知り合った人たちは僕が東京に行ってからもすごく大事にしてくれました。前田さんからも「今度頼むね」なんて言われて随分と録音させてもらいました。

当時の仲間は、それからどんなに腕が上がって上手くなっても友達は友達です。ほんとに不思議なものですね。前田さんは去年の5月か6月かな、うちに遊びに来てくれました。

まだ19歳でしたが、早く東京に行きたいって思ってましたね。早く行かないと20歳を過ぎちゃう、と。そうしたら、同志社のバンド『クールスクール』というベニー・グッドマンスタイルのバンドがありました。そこに僕が入る余地は無かったんですが、そのバンドが東京に行くという。そこでクラリネットを吹いているのが僕の友達で、鈴木重男っていうんですが、「なんとかラッパは入れないかな」って彼に言ってたんです。連れて行けよ、って毎日会う度に話をしましてね。バンドリーダーにも会いましてね、頼み込んだんです。何でもやるから、と。そしたらとうとう根負けして「片岡さん、行こうか」って言ってくれて、トランペットは本来は不要だったバンドなんですが、入れてくれました。
そして行くことになったんですね、東京へ。

第2部へ続きます

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片岡 学(かたおか・まなぶ)
ジャズトランペッター
昭和9年(1934年)12月 兵庫県明石市生まれ
高校生時代から神戸三宮のジャズクラブでトランペットを吹く。卒業と同時に佐世保、岩国の米軍基地や神戸、京都のジャズクラブで演奏する修業時代を経て東京へ進出。スモールコンボのジャズから、ニューハードや東京ユニオンといった著名なオーケストラにも在籍し、ジャズクラブやテレビ、ラジオなど様々なステージで活躍。昭和47年(1972年)から神戸に移住。北野クラブやテレビなど多くのステージを経て、80歳を目前にした現在でもなお現役。マイペースで神戸を中心に音楽活動を続ける。
神戸の再度山にある日本料亭『鯰学舎』、併設するジャズ喫茶『Cafe はなれ家』のオーナーでもある。

鯰学舎
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