大橋 郁がお届けする『KIND OF JAZZ』。
うろたえず、媚びない。
そんなジャズにこだわる放浪派へ。
主流に背を向けたジャズセレクションをどうぞ。
大橋 郁
松井三思呂
吉田輝之
平田憲彦
アルバート・アイラ—
撰者:大橋 郁
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このアルバムは1964年2月24日にNYで録音された。同日の録音にフリージャズの名作「スピリッツ」がある。1964年と云えばアイラーは28歳。7月に傑作「スピリチュアルユニティ」を録音し、翌1965年には「スピリッツリジョイス」を録音するなど、フリージャズの旗手としてパワー全開の絶頂期にあった。
しかし、同時期の録音であるこのアルバムは、「聖者の行進」「誰も知らない私の悩み」「スイング・ロウ・スイート・スピリチュアル」などのトラディショナル・ナンバーが中心であり、またドボルザークの「ゴーイン・ホーム(家路)」やミュージカルナンバーの「オール・マン・リバー」など、アメリカ民謡やアメリカをベースとした曲の構成となっていて、アイラーのルーツが明確にされている。
第50回の当コラムで、松井さんが「アイラーの音楽は、軍楽隊や、ディキシーランド、ニューオーリンズのセカンドラインを連想させる」と指摘している。【リンク】
また、ドイツの評論家ヨアヒム・E・ベーレントは、「アイラーの音楽は、今世紀始めのマーチ、サーカス・ミュージック、フォークダンス、ワルツ、ポルカ、古いニューオリンズの葬列にきかれた哀悼歌を思わせる」といっている。
このようにアイラーの音楽はフリージャズというより、ルーツミュージックと呼んだ方が相応しいかもしれない。実は、アイラーはオハイオ州のクリーブランドの出身であり、少なくとも地理的にニューオリンズとは無縁である。しかし、アイラーは、ミュージシャンの父を持ち、幼いころからラジオに聞き入るなど、音楽的な環境に育った。そして、物心ついてからは、地元のブルースコンボでブルースやニューオリンズのトラディショナル・ナンバーを演奏していた。このような家庭環境に育ったアイラーには、時代や国境を越えた様様な音楽の要素が吸収されていったのであろう。
個人差はあるかもしれないが、このアルバムをゴスペルアルバムと捉える人は多いと思う。ここでのアイラーは、メロディーをストレートに吹いていて、咆哮しない。「聖者の行進」で、短いソロをとるくらいなのを除けば、ほとんどアドリブソロもとらない。しかし、聞き終わった後にはズッシリとした重量感が残る。
「ゴーイン・ホーム(家路)」は、チェコ人の作曲家ドボルザークが、ニューヨークの音楽学校の講師として赴任していた1893年に作曲した交響曲第9番「新世界より」の第二楽章として有名である。アメリカ滞在中に体験した黒人霊歌に触発されて書いたメロディーだと云われている。後に、フィッシャーという人によって歌詞が付けられ、黒人霊歌として扱われている。
また、「オール・マン・リバー」という唄は、もともと1927年のミュージカル「ショー・ボート」の劇中歌である。舞台も映画も大ヒットし、この曲は取り分け有名になった。
アフリカから、新大陸に連れて来られた黒人達は、果てしなく続く厳しい単純労働を強いられた。終わることのない絶望的な苦しみと暗闇の中、大河ミシシッピーが全てを呑み込み、いつもと変わらずとうとうと流れ続ける様を歌った曲だ。辛いことばかりの人生に疲れ果て、頑張ることにすら飽き飽きだが、死ぬのは怖い。そのちっぽけな存在である自分達を、全てを知りながら何も語らず黙々として、悠然と流れ続ける老大河ミシシッピーと対比させている。
因みに、日本で一番長い川は信濃川で350km程度だが、北米大陸を南北に貫くミシシッピ川は6000km以上もあるらしい。これだけ大きな川と比べられると、一人の人間の苦しみや悩みの小ささが際立てられるようである。
話はそれるが、私はこの歌と共に、気になって頭から離れない曲がある。「ザット・ラッキー・オールド・サン」という曲だ。1949年にヒットして以降、ルイ・アームストロングやレイ・チャールス、フランク・シナトラなど様々なミュージシャンによってカバーされ続けている。日本では、大西ユカリによる日本語のカバーが素晴らしい。
ルイ・アームストロング
オールタイム・グレイテスト・ヒッツ
Lousi Armstrong
All Time Greatest Hits
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この曲は貧しさの中、子育ての為に僅かな給金を得ようとあくせく働いて四苦八苦する自分自身と、いつも変わらず照り続ける太陽を対比させている。そして、ただただ、照り続けているだけの空のお天道様には、私の苦しみや溢れ出る涙はわからないだろう。私も、天のお天道様のように、何も考えずにただずっと照り続けているだけの身分になりたい、と歌い上げるのだ。
これらのふたつの曲は、非常に近い内容を歌っているように思う。共にこの世の苦しみを歌い上げ、この苦しみがいつ終わるのか、出口が見えない中でもだえ苦しむ人間の姿と、何があろうと変わることなく、永遠に同じ営みを続ける自然現象を対比させている。自然現象は、人間達の生活の苦しみとは全く関係なく、毎日毎日同じことを繰り返す。
しかし「オール・マン・リバー」では川を、人間のちっぽけな営みを遥かに超えた全能の存在であるかのような例え方をしているのに対して、「ザット・ラッキー・オールド・サン」の方は、「俺がこんなにしんどい思いをしているのに、お天道さんよ、あんたは楽そうでエエなあ。」と、少しユーモラスな感じがある。また「オール・マン・リバー」は、白人が遊んでいる間も、黒人は朝から晩まで舟をひいて、最後の審判の日まで休むひまもなく働かされ、もうへとへとで人生にうんざりだ、と云った悲惨なニュアンスなのに対して、「ザット・ラッキー・オールド・サン」では、光輝く希望の雲にのせて楽園につれてってくれよ、とせがんでおり、少し希望が見える感じである。どちらかというと、「オール・マン・リバー」の方がシリアスであり、絶望的な感じだ。
ところで、日本にはこのような気持ちを託した歌が、あまり思い浮かばない。
例えば日本には唱歌「村の鍛冶屋」があり、この歌では働き者の田舎親父の鍛冶屋を例にとって労働を讃えている。また「船頭さん」では、村の渡しの船頭さんの働きぶりへの感謝の気持ちを歌にしている。一方で、外国はどうか。労働を讃える歌はあまりないのではないだろうか。シューマンの「楽しき農夫」は、農作業を終えて我が家へ帰る喜びを歌ったものではあるが、労働讃歌ではない。
日本では、神代の昔から労働は喜びであり、生き甲斐であると考える傾向がある。古事記によれば、高天原の神々は、機(はた)を織るなどの労働を楽しんでいたし、人は稲を作ることによって、つまり農業をやることによって神様に仕えているのだと考えられていた。労働は清く尊いもの、働くことは美徳であるとするのが日本人の労働観なのだ。
一方で、欧米人にとって「働くことは責苦」であり、常にそれから解放されたい、と願っている。これには、旧約聖書の「創世記」の思想が根底にある。神は、最初の人間であるアダムとイヴを楽園エデンに住まわせた。ここでは、全ての果実を自由に取って食べることを許され、働かずともよかった。但し、エデンには例外として「知恵の木(禁断の果実)」があり、この木の実だけは決して食べてはならないと、神はアダムとイヴに命じた。
ところが、或る日イヴは邪悪な蛇に言葉巧みにそそのかされ、アダムと共に知恵の木の実を食べてしまった。神は怒り、アダムとイヴをエデンから追放した。そして、罰として女には「出産」の苦労を与え、男には「労働」の苦労を与えた。神は男に対して「お前は生涯食べ物を得ようと苦しむ。土に返る時まで、顔に汗してパンを得る。」と言った。
これが、人間が生まれながらにして背負っている原罪であり、アダムとイブの子孫である全ての人間は、この「原罪」を受け継いでいる。つまり我々人間は生まれながらに罪人であり、罰として労働の責苦を受難している。という考え方だ。
とすれば、欧米人にとって労働とは、苦役として課せられたものであり、仕方なくこなしているものだ。言い換えれば「なるべくやりたくないもの」であり、そこに喜びはない。苦痛の対価はお金である。これは、キリスト教徒やイスラム教徒等の一神教を信ずる人達が共有する人間観、労働観なのだ。これがベースになってるから、自分は出来るだけ少ない時間働いて、他人が長時間働いて作った物を手に入れようとする事は、何も悪いこととは考えないのである。日本人の労働観とは対照的である。
「オールマン・リバー」と「ザット・ラッキー・オールド・サン」という曲がアメリカに生まれ、そして日本には同種の歌がない背景にはこんなことが関係しているのかもしれない。
※
ジョージ・アダムス
ナイチンゲール
George Adams
Nightingale
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アルバート・アイラー以外にも、ジャズ・ミュージシャンによる「オール・マン・リバー」のカバーは多い。中でもジョージ・アダムスによる1988年の録音「ナイチンゲール」収録の「オール・マン・リバー」は秀逸である。そしてサミー・デイヴィス・ジュニアによる熱唱は、心を打つ。
冒頭の歌詞は、一般には「私たちは皆(Here We all)ミシシッピで働く」であるが、主語は歌う人によって「ダーキーズ(darkies:黒人の蔑称)」だったり、「カラード・フォークス(Colored folks:有色人種)」だったりした。
サミー・デイヴィス・ジュニアは、これを(毎回ではないが)オスカー・ハマースタインのオリジナルの歌詞である「ニガー達(Niggers)」として歌った。「ニガーたちはみなミシシッピ川で働く」と。“ニガー”とは、白人が黒人に対して侮蔑の意味合いを込めて用いるスラングであり、あまり好意的に使われることはない。このように当時タブー視されていたスラングを使うことからも オスカー・ハマースタインもサミー・デイヴィス・ジュニアも、相当リベラルな人物であることが伺える。
サミー・デイヴィス・ジュニア
アット・タウン・ホール
Sammy Davis, Jr.
At Town Hall
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話があちこちにそれてしまったが、冒頭にも述べた通り、このアルバムでは全ての曲がアイラーのルーツに根差した、或いはゆかりのある選曲となっている。フリージャズで咆哮するアイラーが“動”とすれば、このアルバムは“静”の面からアイラーを見たものといえるだろう。その中で「聖者の行進」ではほんの少し、動の面を見せる程度で、30分程度のアルバム全編を通して、ほぼブロウなしである。バックのリズム隊は、出来のいい演奏とは言えず、アイラーの音程は少々不安定気味だ。「オール・マン・リバー」「誰も知らない私の悩み」では、情けないくらいのか細さである。リズム隊が違うとは云え、とてもあのパワフルな「スピリッツ」と同日録音とは思えない。(録音状態も全く違う。テープの保存状況の違いもあるのだろうか。)
いずれにせよ、それらも含めてこのアルバムでは、この当時のアイラーの心境や、目指しているものの再確認がされたに違いないと思う。アイラーの音楽は、決して無から始まったのではなく、確かなルーツがあったのである、と。
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