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Kind of Jazz Night

さんふらわあ JAZZ NIGHT 初代プロデューサー
大橋 郁がお届けする『KIND OF JAZZ』。
うろたえず、媚びない。
そんなジャズにこだわる放浪派へ。
主流に背を向けたジャズセレクションをどうぞ。


撰者
大橋 郁
松井三思呂
吉田輝之
平田憲彦

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第87回

カタンガ
カーティス・アミー&デュプリー・ボルトン
撰者:吉田輝之


【Amazon のディスク情報】


こんにちは、もう5月かと驚いている吉田輝之です。年をとるにつれて、時間が経つのは早くなりますが、この時間が過ぎていくスピード感はただならぬものがあります。この現象のことを「ジャネの法則」ということをつい最近知りました。
その名の通り、19世紀のフランスの哲学者ポール・ジャネさんが発見した法則で、なぜ年をとると時間が早く感じるかというと、50歳の大人にとっての1年間は過去の人生の50分の1だが、5歳の子供にとっては5分の1である。つまり5歳の子供にとっての1年間と50歳の大人にとっての10年間は同じ量の時間であるというということだそうです。何か納得いくような、いかないような……。

さて今週の一枚は、またまた「KELLY DANCERS」を飛ばして、「KATANGA/CURTIS AMY&DUPREE BOLTON」です。



デュプリー・ボルトンというトランペッターは一体どれ程知られているのだろうか。
僕が持っている何冊かのトランペッターのガイド本には彼の名はない。が、それは仕方がないことだ。彼はリアルタイムではわずか2枚のレコードにしか演奏を残していないのだ。ハロルド・ランドの「THE FOX」(1959年)、そして「KATANGA」(1963年)だ。

「KATANGA」というタイトル、そしてジャケットを見るとアフリカ色の強い演奏のように想像されるかもしれないが、それは違う。
1963年にパシフィクジャズレーベルで吹き込まれたサックスのカーティス・エイミーをリーダーとする西海岸の黒人ハード・バップの傑作だ。只、表題曲を含む一部の曲はアフリカを意識しているのは間違いない。

このレコードの一曲目、わずか3分間余りの表題曲「カタンガ」を最初に聴いた時、その凄まじい高速でのボルトンの吹きっぷりに驚いた。
この謎に満ちたトランペッターに唯一インタヴューした評論家テッド・ジオイア氏(TED GIOIA)は彼の演奏を「恐ろしいほど切れる鉈を装着した火の玉(a fireball equipped with fearsome chops)」と評する。
そして、このレコードの最後に演奏された典型的なハード・バップ曲での演奏を聴けば、誰もがクリフォード・ブラウンを想起するだろう。
しかし、ボルトンはクリフォード・ブラウンに影響を受け自己のスタイルを確立していったフォロワー達、例えばリー・モーガンやフレディー・ハバード達とはその存在を根本的に異にする。

以前、僕はジョン・コルトレーンとブッカー・アーヴィンはその存在において「対(ツイ)」だと記した。
クリフォード・ブラウンとデュプリー・ボルトン、この二人もまぎれもなく「対(ツイ)」だ。しかしこの二人、圧倒的な「光と影」、「正と負」の存在関係にあった。上記のB面最後の曲のタイトル「THE SHADE OF BROWN」はあまりに暗示的だ。

デュプリー・ボルトンがわずか2枚のレコードにしか演奏を残さなかったのは、彼の64年の生涯のうち通算して約45年間を刑務所で過ごしたからだ。

麻薬もアルコールも好まなかったというクリーンで人柄も音楽も讃えられたクリフォード・ブラウンに対して、デュプリー・ボルトンは芯からの薬物中毒者にして犯罪者、そして社会不適応者だった。

以下、ジオイア氏が1989年、ボルトンが60歳の時に行われた彼唯一のインタヴューを参考にボルトンの人生をたどってみる。



デュプリー・ボルトンは1929年3月3日にオクラホマシティで貧しい農家に生まれた。彼が幼い頃、彼の父親は当時の多くの中南部の黒人と同様に、西海岸で勃興していた軍需産業に職を求めて一家でロサンジェルスに移動した。
ボルトンが最初に手にした楽器はバイオリンだったという。それは貧しいが慎ましかっただろう彼の母親が、将来デュプリーがハリウッド(つまり映画音楽やポップス)のスタジオでバイオリニストとして働くことを夢見て与えたものだった。
しかし彼が欲しいのは、当時の黒人の子供であれば誰もが望むトランペットであり、彼の父親はシアーズ・ローバックの通信販売で19ドル95セントのトランペットを買い与えた。

音楽の才に恵まれていた彼は、1944年、わずか14歳の時チャーリー・パーカーが抜けた直後のジェイ・マクシャンのバンドに誘われ、年をごまかし、家出同然に「音楽の世界」に入ることになる。
それは同時に「麻薬の世界」に入ることでもあった。メンバーから薬局で赤ん坊の痛み止め用の薬「アヘン」を(おそらく彼がまだ子供で怪しまれないため)買いに行かされたのが始まりだ。しかし、この少年が鎮痛剤といった軽度のもの(アヘン)から重度のもの(ヘロイン)に進むまで時間はかからなかった。

1946年、ボルトンは17歳の時にマリファナのディーリングで逮捕される。つまり、彼は「買う」方だけでなく「売る」方にもなっていたのだ。当時マリファナはアスピリンと同じ位手に入りやすいものだった。そして彼は、ジャズ史上名高いケンタッキーのレキシントン病院に収監されてしまう。
この「病院」にはソニー・ロリンズ、ジーン・アモンズ、キャノンボール・アダレー、チェット・ベーカー他、多くのジャズマンが「所持」あるいは「商売」で収監された。ドラッグは日本でもアメリカでも「商売(売る)」だけでなく「所持(買う)」だけで犯罪となる。そしてともに病院=刑務所に入ることになる。レキシントン病院は同時に刑務所でもあった。日米ともジャズマンのプロフィールで「入院」と記されていれば「麻薬による懲役」のことだが、「入院」と表現しても決して間違いではないのだ。

しかし、このレキシントン病院もしくは刑務所は、決して「厚生」施設でも「更生」施設でもなかった。インタヴューでボルトンはレキシントンについて以下のように述べている。

「“悪い病院(a bad hospital)”だったが、“良い刑務所(a good penitentiary)”だった」
「デュプリーとその仲間である“患者(patients)”は“科学的目的(scientific purposes)”のため栽培されていた大量のマリファナに“アクセス(access)”することができた」
「退院する頃には“麻薬常用者の技術的方法において高度な教育を受けることができた(he had gained an advanced education in the ways of techniques of drug addicts)」

このインタヴューを読むだけでは何を言っているのかわからない。しかしボルトンはわかる人間にだけわかるように発言しており、インタヴュアーもわかっているがわざとわかるようには書いていない。

実は、レキシントン病院は表向きは娯楽や労働を通じて麻薬のリハビリを行う施設だったが、裏では麻薬による人体実験を行う「研究所」でもあったのだ。
ボルトンが人体実験にされたかどうかはわからないが、とにかく彼は20歳を過ぎて退院(釈放)するまで、ここでの「教育」により、麻薬についてのある種の「専門家(プロ)」となっていたのだ。

レキシントンを出たボルトンは家族のいるロサンジェルスに戻った。

多くのジャズ・ミュージシャンは生活のためリズム&ブルースのバンドで演奏するが、ボルトンはリズム&ブルースを軽蔑していた。彼は、「俺はビー・バップするためにビー・バップ(を演奏)し続けた(I was beboppin’ to bebop)」と言うほどのビー・バップ原理主義者であった。
重度のジャンキーであったボルトンは、ビー・バップの演奏の稼ぎだけではとてもヘロイン代を賄えず、盗み、麻薬売買と「できることは何でもやった」という。

ボルトンが最も影響を受けたのはファッツ・ナヴァロだ。彼はNYで逮捕される前に憧れのナヴァロに会いに行ったという。その名の通り丸々と太っていたナヴァロは麻薬によって痩せ細り、結核で1950年7月にわずか26歳の若さで死ぬ。ボルトンはナヴァロの音楽性だけでなく負の遺産を引き継いでいた。

1951年、ボルトンは(おそらく小切手の)偽造罪で逮捕される。カリフォルニアワインの葡萄産地で有名なソレダッドの刑務所に入りそこで1956年までの4年間収監された。
彼はここで酷い人種差別を受けたようだ。しかし、過酷な環境の中でここでの音楽による更生プログラムで一日に12時間から14時間もの時間トランペットの練習に没頭する。もともと天附の才能のあった彼は驚異的なテクニックをここでマスターすることとなる。



アメリカには音楽楽理を学べる「学校」は三種類ある。

まず「通常の音楽学校」。マイルスが通ったクラシックのジュリアード音楽院、ジャズではボストンのバークレー音楽院の他、シカゴのデュ・サブル高校(ジョニー・グリフィン、クリフォード・ジョーダン、ジョン・ギルモア)、デトロイトのカス・テク高校(バリー・ハリス、ドナルド・バード、ペッパー・アダムス、ローランド・ハナ)、インディアナではインディアナ大学(フレディ・ハバード、スライド・ハンプトン、ジャック・ウィルソン)などが有名だ。

次に「軍隊の楽隊」。コルトレーンが海軍で、ブッカー・アーヴィンが陸軍で音楽隊にいたことは以前この欄で記した。

そして「刑務所」である。米国の刑務所では「厚生」または「更生」のため、かなり高度な音楽教育を行っているという。先のレキシントン病院(刑務所)について、ボルトンは麻薬のことしか述べていないが、レキシントンもリハビリの一環として音楽教育を行っていることで有名だ。なんせ、超一流のジャズ・ミュージシャンが次々に入院(?)してきて格好の教材となってくれるのだから。

ボルトンは刑務所という“学校”で「ドサ廻りの演奏家(a jorneyman player)」から「恐るべきトランペッター(a formidable trumpeter)」に変貌を遂げたのだ。



ボルトンについて語るためにクリフォード・ブラウンについても言及しなければならない。

ブラウンは1930年10月30日にアメリカで2番目に面積の小さいデラウェア州ウィルミントンのやはり貧しい家に生まれた。ブラウンは13歳の時に、父親の持っていたトランペットを吹き始めた。ボルトンが1歳年上であり、この同世代の二人は、ほぼ同じ時期にトランペットを学びだしたといえる。ブラウンは(おそらく奨学金をもらって)1948年デラウエア州立大学「数学」専攻大学に入学し、翌年メリーランド州立大「音楽課」に転校している。ブラウンは数学においてもずば抜けた才能があったが、最終的には音楽の道を選んだという。

ブラウンは学生時代にデラウェアの北側に位置するフィラデルフィアに通いつめ、かの地のミュージシャンとセッションを重ねることで長足の進歩を遂げていく。しかし、1950年に3台の自動車事故に巻き込まれ、再びトランペットを吹くことは不可能という程の大けがを負う。しかし、入院しているブラウンをディジー・ガレスピーが見舞いに来て励まされたことで勇気づけられたブラウンは再起不能と言われた絶望的な大けがを克服し奇跡的に蘇るのである。
そしてフィラデルフィアでブラウンの演奏を聴き驚愕したチャーリー・パーカーはブラウンをアート・ブレイキーに紹介する。

さて、ここまで読んで疲れた方は、クリフォード・ブラウンが参加した不滅のLIVEアルバム、BLUENOTEのBLP1521及び1522の「A NAIGHT AT BIRDLAND WITH THE ART BLAKEY QUINTET Vol. 1&Vol2」を聴いて感動して下さい。

この後、ブラウンはマックス・ローチと双頭クインテットを組み、わずか2年程だったが、ジャズ史に燦然と輝く軌跡を残した。
しかし、1956年6月26日、フィラデルフィアからシカゴにリッチー・パウエルの妻ナンシーが運転する車が交通事故を起こし死亡する。二度目の奇跡は起こらなかったのだ。

一方、デュプリー・ボルトンだが、クリフォード・ブラウンが死亡した1956年にようやく釈放されたものの、小切手を偽造して再び逮捕され、今度は映画にもなったターミナル島の刑務所に1959年まで収監されてしまう。しかしここでもトランペットの技術向上に没頭し、さらに腕を磨いたという。

1959年、ボルトンは釈放されロスのシャバに戻ってくるが、当時西海岸の黒人ジャズシーンが沈みきっていたことは、以前ソニー・クリスの回に書いた通りだ。
そんな状況下のロサンジェルスで、二人のジャズマンが次のレコーディングのためトランペッターを探していた。ハロルド・ランドとエルモア・ホープである。
ハロルド・ランド、一般的にはブラウン&ローチ・クインテットのメンバーとして知られる「バイ・プレイヤー」との認識だろうが、西海岸きってのテナーサックス・プレイヤーである。と、書いたものの、僕がハロルド・ランドの凄さに気付いたのは最近だ。その速くしかも恐ろしく安定した高いテクニックに加え、硬質で重量感のある音色の超一級の実力者であり、後にカリフォルニア大学の教授になる程のインテリジェンスのある人物だった。
そしてエルモア・ホープ、この不遇の天才児はニューヨークでは一般受けせず、この頃、西海岸に移ってきていた。エルモア・ホープは重く暗いタッチの異色のピアニストだがその作曲能力でもミュージシャンから高い評価を得ていた。
ランドとホープは、沈滞したシーンを打開すべく燃えており、このレコーディングのためにホープが作曲した「気が狂うほど難解な楽曲(maddeningly difficult composition)」を演奏できるトランペッターを探していたのだ。

二人はワッツ地区(ロスで最も危ない地域)のクラブで刑務所から出てきたばかりのボルトンの「稲妻のように早いアドリブ(lightning fast improvisation)」演奏を聴き、レコーディングに誘うこととなる。そこで録音された「THE FOX」(Hi-Fiレーベル)はランドの代表作にしてウエスト・コースト・ハードバップきっての傑作となる。
このレコードの他のメンバ—はドラムがフランク・バトラー、ベースがハービー・ルイスだ。

前述の通りホープの曲も難解だが、ランド自身が作曲した1曲目のタイトルナンバー「THE FOX」が凄い。超高速でギザギザした旋律のテーマからソロが演奏されていく。ボルトンによると1分当たりの拍は400以上、つまり今風に言えばbpm400以上という、信じられないような細分化したビートをフランク・バトラーが叩きだし、全員がすごいスピードで突き進んでいく。
ここでのボルトンの演奏についてジオイア氏は、以下のように的確に表現している。
「ボルトンは大砲から打ち出された人間のようにスターティング・ゲイトから飛び出し、そして決して後ろを振り返らない。(Bolton leaps out of the starting gate like a man shot out of a cannon, and never looks back)」
ボルトンだけでなくランド、ホープ、バトラー、ルイス全員がこの曲だけでなく全曲、異様な緊張感にあふれた演奏をしている。

前述したようにボルトンのスタイルはクリフォード・ブラウンに似ている。違いはボルトンの方がブラウンより少し線が細いが、ブラウン以上に迅(はや)く、そして鋭い。

このレコードは発売される前からテープを聴いたウエスト・コーストのジャズ・ミュージシャンの間で、それまで誰も知らなかったボルトンは大変な話題になったという。しかしボルトンは忽然と姿を消してしまう。
このレコードは後にコンテンポラリー・レーベルから再発されるが、そのライナーノーツでレナード・フェザーはボルトンについて、こう記している。
「誰も彼がどこから来たか知りません。そして、彼が今どこにいるかも。(Nobody knows where he came from or where he is today) 」



しかし、ここまで読んでこられた方はボルトンがどこに行ったが容易にわかるだろう。彼はこの演奏の直後、再逮捕され全米中の凶悪犯が集められることで悪名高いサン・クェンティの刑務所に入れられたのだ。ここは刑務所内でありながら囚人がナイフで殺し合いをする最悪の環境だったという。ボルトンは生き残るため、喧嘩が起きれば「反対方向に逃げていった」と話しているが、この刑務所に送られたというのは彼自身かなりの重犯罪人だったということなのだろう。

1962年、仮(?)釈放されたボルトンはカーティス・エイミー等とともに冒頭に述べた「KATANGA」のレコーディングに参加することになった。メンバーはピアノがジャック・ウイルソン、ギターがレイ・クロフォード、ドラムがダグ・サイズ、ベースがヴィック・ガスキンと新旧入り混じった編成だ。

冒頭に述べたタイトル曲「カタンガ」はボルトン自身が作曲した曲だ。カタンガはコンゴにある州だが、1960年にベルギー領コンゴがコンゴ民主共和国としてベルギーから独立した後、ベルギーがカタンガにある地下資源をねらいカタンガ州の分離独立を裏で図ったため内乱となった。いわゆるコンゴ動乱である。
ボルトンはインタヴューでこの曲を作った趣旨など一切話してはいない。この曲のテーマは「独立したアフリカ国家への旧植民地や米ソの介入に対する怒りの表明」といった単純なものではないと推察しているが、誤解を与える可能性があるので僕の考えは述べない。

ここでのボルトンの演奏についてインタヴューから再び引用する。
「彼の音はデカくて、率直で、そして時に聴く者が何も考えられなくなる程とてつもなく生々しい、・・・ボルトンは叫んでいる“俺の演奏を聴け”彼が唇をトランペットにつけると、誰もが聴くしかない。(His sound is big and honest and sometimes so raw it rips a listener's head off. . . Bolton is shouting 'Hear me!' every time he puts the horn to his lips. And one has no choice but to listen." )」

只、この曲はコルトレーンのインプレッションズと同じコード進行らしいが印象はまるで違い、極めて特異な印象をあたえる。

3曲目の「NATIVE LAND」はその題名通り、アフリカ的なテーマを持つエイミーの曲だ。驚くのは、ボルトンのこの曲でのソロは明らかにスタイルが新しくなっていることだ。「THE FOX」での演奏はまだ50年代ハード・バップスタイルだが、この曲で演奏は、70年代のウディ・ショーや日野皓正を想起させるモダンさがある。

音楽評論家の原田和典氏によるとパシフィック・ジャズのオーナーであるリチャード・ボックは当時ニューヨークで飛ぶ鳥を落とす勢いだったリー・モーガンやフレディー・ハバードに対抗するため、デュプリー・ボルトンの売出しを図ったようだ。このレコードの実質的リーダーはエイミーだが、ボルトンとの双頭グループ名義にしたのもそのためだろう。しかし、ボルトンはそのような意図にすんなり乗るような男ではなかった。原田氏は「いつもけんか腰で、レコーディング中に他のミュージシャンと殴りあいを始めるボルトンに、ボックの熱意は一気に冷めた。」と記している。

このレコーディングの後、ボルトンはルー・ロウルズのバックやジェラルド・ウイルソンのビッグバンドに加わったらしいが、またまた小切手の偽造罪で逮捕されてしまう。このため、ボルトンは「どんないトランペッターとして凄くてもあいつはダメだ」と表のジャズ社会から抹殺され、はじきだされてしまったのだろう。ボルトンはその後も家宅侵入罪、拳銃の不法所持等で何度も刑務所に行くこととなる。
その後、彼は完全に忘れられた存在となり、1993年6月5日、カリフォルニア北部の病院で糖尿病と動脈硬化における心拍停止のため64歳で他界した。彼が残したのは貧者の娯楽装置といわれるテレビだけでトランペットは所持していなかったという。



クリフォード・ブラウンとデュプリー・ボルトン、この二人はおそらく会ったことはなかっただろう。ブラウンが世に出て亡くなる1950年から56年までボルトンは刑務所に入っていたのだ。インタヴューで、ジオイア氏は度々この二人の演奏スタイルの類似を述べているが、ボルトン自身はブラウンについて何も語っていない。しかし僕はこの二人はそのスタイルの類似性も含めて、奇妙なほど宿命的な繋がりを感じる。

1つ年の違うこの二人は同時期にトランペットを始め、1950年に一方は自動車事故で、一方は麻薬で逮捕され“病院”に行くこととなるが、そこを跳躍台として共にそれから6年間でトランペッターとしての技量の頂点を極めた。しかしその間、一方は表舞台を駆け抜けていったが、一方は舞台に上がることもできなかった。そして一方は今もジャズの世界で眩く輝き続けているのに対して、一方はジャズ史上最もミステリアスな存在として時に語られるだけで全く知られていない。

この二人の運命を分けたのが「麻薬」であることは言うまでもない。
キー・パーソンはチャーリー・パーカーだ。ブラウンが麻薬に染まらず、アルコールも好まなかったというのはパーカーを反面教師としたせいだという。一方ボルトンはインタヴューでは16歳の時のニューヨークのパーカーのアパートでコカインを吸ったと話している。

しかしパーカーを引合いに出すのは表層的な理由づけをしているにすぎない。
僕は思うのだ。本質的には同じ時代に同じ資質も持つ天才児が二人生まれたこと自体が問題なのだ。同時代に二人の天才は不要だ。
障害はあったが一人は暖かい光の世界を歩き、もう一人は極寒の闇の世界を歩いた。しかし引き換えに一人はわずか26歳で死に、一人は64歳まで生き延びたのだと。



以前、西海岸の黒人ジャズマンの演奏をYOUTUBEでチェックしている時にボルトンの映像を見つけ驚愕してしまった。「FRNKLY JAZZ」というテレビ番組に、KATANGAを録音した直後と思われるエイミーのグループが出演した時の映像だ。監修がリチャード・ボックでありレコード宣伝のための番組だったのだろう。演奏は「カタンガ」の他に、何とレコード未収録の「ローラ(LAURA)」をボルトンがほぼ一人ソロを取り演奏している。
「ローラ」はジョニー・マーサとデヴィッド・ラスキンによる映画「ローラ殺人事件(1944年)」の主題歌だが、パーカーが「WITH STRINGS」で取り上げスタンダード化し、様々な歌手、演奏家が取り上げたが、決定的な名演は、「WITH STRINGS」でのクリフォード・ブラウンの演奏である。
僕はボルトンのローラを聴き、茫然かつ陶然となった。「未発表曲だ」という前提条件をつけて100人のジャズファンにブラインドテストをしたら100人ともクリフォード・ブラウンだと答えるだろう。

ボルトンはブラウンの「WITH STRINGS」を聴いていたと思う。しかし、断じてマネをして吹いているのではない。誰もクリフォード・ブラウンのマネはできない。このように吹けるのはクリフォード・ブラウンとデュプリー・ボルトンだけだ。
この映像を見て、僕はこのナイフで削いだようなこの男の相貌に丸く不恰好な程鼻の大きな男の顔が覆いかぶさり、さらには相似形を持つが逆ベクトルに存在した二つの魂が重なったとさえ思った。

冒頭のジャネの法則に従えば、クリフォード・ブラウンがトランベットを手にした13歳から亡くなる26歳までの13年間とデュプリー・ボルトンがカタンガを録音した34歳から亡くなる64歳までの30年間は彼等の人生のほぼ2分の1にあたり同じ速さで時間が流れたことになる。しかし、そんなことはない。絶対に有りえない。


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