大橋 郁がお届けする『KIND OF JAZZ』。
うろたえず、媚びない。
そんなジャズにこだわる放浪派へ。
主流に背を向けたジャズセレクションをどうぞ。
大橋 郁
松井三思呂
吉田輝之
平田憲彦
ビリー・ホリデイ
撰者:平田憲彦
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小説家の村上春樹さんは、ビリーの歌声を『癒し』を越えた『赦し』である、と語っていて、もうさすが村上さんとしかいいようのないその言葉に感動するが、まさにその通り。私にとってビリーの歌は、『癒し』であり、そして『赦し』なのだ。
しかし、全ての人が同じというわけではないことは、もちろんよく分かっているし、その悲惨と言ってもいい過去の物語が原因で、ビリーの音楽を聴くときにモヤが掛かってしまうという人も、少なからずいる。
ビリー・ホリデイについては、語られすぎるほど語られてきている。ウェブで検索すると、読み切れないくらいのテキストが出現し、ウィキペディアにおいても、膨大な量のテキストで埋め尽くされている。もちろん、ビリーには自伝もあるので、その人生を文章という断片から知ることは比較的たやすい。
ビリーの音楽を語るとき、必ずその背後には、彼女の決して幸福とは呼びにくい幼少期から少女期の物語が潜んでしまう。
それでもなお、私は全ての人にビリーの音楽を聴いてほしいと思うのだ。
彼女の声を、歌を、サウンドを聞いてほしい。
ビリーの歌が、その人生に裏付けされたから良い歌になったのかどうか、私はわからない。どういう人生を歩んできたにしろ、どういう性格の人だったにしろ、私はビリーその人を直接知っているわけではない。ただ、彼女の歌はレコードから知っている。私が知っていることはそれだけだ。その私が知っている彼女の歌は、心から美しいと思うし、優しく哀しく慈しみのある歌なのだ。
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ビリー・ホリディの音楽は、彼女が活躍し始めた1930年代から現在に至るまで、ジャズボーカルの極致とも言われている。
オリジナルのメロディを元にして新しいメロディをつくり出しながら歌い、歌の本質的な意味をフレーズに昇華させる歌唱法。まさしく、オリジナルの歌の心を生かしながら、新しい命を与えるかのような歌。それがビリー・ホリデイである。
アルバムを1枚挙げるとするならば、やはり『コモドア盤(1939年から44年の録音)』ということになる。もちろん、他の時代も素晴らしいが、この『コモドア盤』は、とてもバランスの良いアルバムだ。ポップで、ブルージーで、スウィンギー。歌われている世界も多彩。『ラバカン』もあれば、映画カサブランカで知られる『時の過ぎゆくままに』、ビリーをブレイクさせた『奇妙な果実』も。
私はなかでも、『ファイン・アンド・メロウ』が大好きで、ビリーのオリジナル以降、多くカバーされてきた他のミュージシャン・バージョンもよく聴く。
この曲は、典型的な12小節形式のブルースだ。ビリーの歌ではありそうで、あまりない。ビリーのオリジナルである。
『コモドア盤』のライナーノーツによると、プロデューサーのゲイブラーが、当時ビリーが出演していた『Cafe Society』に録音前夜訪問し、ビリーが書きためていたブルースラインをもとにして打ち合わせしながら作り上げたという。12小節形式のブルースをやろうと言い出したのは、ビリーではなくゲイブラーであったそうだ。
12小節のブルースで何が良いかと言えば、もちろんミシシッピデルタからメンフィスを経由しシカゴに至る『ブルース・ロード』を喚起させてくれるフィーリングをビリーの歌で楽しめるからだが、それだけではなく、セッション出来るからである。
『ファイン・アンド・メロウ』を少し大きめの音で流しながら、ギターなりハーモニカなりでセッション出来る。ビリー・ホリディとセッション出来る幸せ。
私のように、たいして演奏は出来ないがブルースならなんとかなる、というアマチュアにとって、この『ファイン・アンド・メロウ』はとても有り難い一曲なのだ。
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この曲のタイトルに『ファイン・アンド・メロウ』という言葉を持ってきた理由は、その歌詞をみればよくわかる。
歌を聴くなら、やはり意味がわかっていたほうがより良いので、以下に訳してみた。
歌の中盤から出てくる『Love』をどうとらえるかで意味が変わってくると思うが、私は『ビリーが男を愛する気持ちと、愛し合う行為そのもの』であると解釈した。つまり『Love=Sex』である。
『Fine and Mellow=素晴らしくてとろけそう』というのは、これもセックスのことだ。ここで歌われているのは、ビリーにとっては『男=セックス』なのであり、きっと男にとってもそうであると、ビリーは認識していると思われる。
なので、最後のリックの『蛇口をひねって水を出したり止めたり』とは、都合の良いときにだけ自分を抱く男、という意味であると考えられる。逆を言えば、『私が抱いてほしいときに抱いてくれない』という意味になる。
そして、まさに原歌詞(Love is just like the faucet)通りの『セックスなんて水道の蛇口みたいなもの』という事なのだろう。ビリーにとっては。
比喩として『蛇口(という形状と、そこから出てくる水)』を使っていることで、強烈なエロティシズムを表現している。ロバート・ジョンソンの『俺のレモンを搾ってくれよ』という比喩と良い勝負だ。
この歌の解釈で一般的なのは、男に蔑まれている女、というシチュエーションだ。しかし私は、そんな紋切り型の意味ではないように感じるのだ。
ここで歌われているのは、セックスの哀しみであり、そこに縛られている自分自身への諦念であるように思う。
まさに、村上さんの言葉に表れているとおり、ビリーはセックスに依存している自分への『赦し』として、この歌を歌ったのだ。
さて、以下に『Fine and Mellow』を訳してみたので、お手元に音源があれば、聴きながら意味を思い浮かべていただければと思う。
歌の解釈はさまざまなので、好きな歌があれば一度自分で訳してみることをおすすめしたい。歌への見方が変わるはずである。
この歌にも出てきている『Love』 という言葉など、その典型だ。ゴスペルの歌に出てくる『Love』 と、ソウルで出てくる『Love』 、ブルースで出てくる『Love』 、すべて意味が違う。歌のコンセプトが何かによっても、その意味は変わってくる。
単純に『愛』と訳すと、なんのことかサッパリ分からなくなることが多い。
※
Fine and Mellow
素晴らしくてとろけそう
作詞作曲:ビリー・ホリデイ
録音:1939年4月20日(コモドアレコード)
日本語訳:平田憲彦
彼は私を愛してないのよ
いつもイヤなことばかりして
愛されてないのよ、私は
いつもひどい扱いで
これまでで最低の男だわ
彼のスラックスはパリッとしてて
黄色のストライプが鮮やかなの
彼のスラックスはきまってて
黄色いストライプがいかしてる
そんな男だけど、彼が私を抱いてくれるときは
とってもすてきなのよ。とろけそうになるの。
私はあなたに夢中。
それがかえって、あなたをお酒と博打に向かわせてるのね
家にも帰ってこないで、一晩中うろついてるのね
あなたは私の気持ちから
お酒と博打に逃げてるわ
だから家にも帰ってこないのよ
私の気持ちが、あなたをそんなふうにさせてるのね
良くないことよ。わかってるくせに
私にやさしくしてくれたら
毎日家にいるわ
わたしをかわいがってくれたら
ずっと家にいて、あなたを待ってる
でもあなたはそうじゃない
私と別れたがってる
愛し合うことって、まるで水道の蛇口ね
ひねって水を出したかと思えば、絞ると止まっちゃう
私は、あなたにとって水道の蛇口なのよ
好きなときに出して、好きなときに止めて、勝手気まま
あなたが蛇口を開けても
気がついたら閉ってて、
もうあなたはいなくなってるの
※
2013年6月4日 初出
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