大橋 郁がお届けする『KIND OF JAZZ』。
うろたえず、媚びない。
そんなジャズにこだわる放浪派へ。
主流に背を向けたジャズセレクションをどうぞ。
大橋 郁
松井三思呂
吉田輝之
平田憲彦
マイルス・デイヴィス
撰者:平田憲彦
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小説:ミュージング・オブ・マイルス
3月の終わりに僕らは別れた。そもそも春なんて来ないと思ってたからそれでいいんだけど、彼女は相変わらず魅了的だったし、僕は僕で、テニスコートでボール拾いばかりしていた。どうしても上手く取れないボールがあって、それは決まってトシ先輩の打ち損じだった。僕がボールをこぼすたびにトシ先輩は口をへの字に曲げるんだ。そしてすぐに小さくほほえむ。
だから僕らは先輩後輩を越えて友情があったって思うのは、勘ぐりすぎだ。でも、僕がトシ先輩を慕っていたのは事実。なぜなら、彼のガールフレンドが素晴らしかったから。ショートヘアで少しゆるい目、つまり世間で『たれ目』っていうアレだけど、能面みたいでかわいかった。顔の輪郭がホームベースみたいで、それを彼女は気にしていたけど、僕はそれが魅力的だった。だからといって、僕がトシ先輩の彼女を盗ろうなんて、そんなことは考えたこともなかった。だから、トシ先輩が遠征で留守の時に、練習が終わった僕に彼女が声を掛けてきたときは、それは驚いたよ、本当に。でも、正直にいえば、嬉しかったな。一緒に帰れるということもそうだけど、彼女はとても良い香りがしていたから。
大学生で香水ってのは、つけるものなのかな。僕には分からない。でも、彼女は素敵な空気だった。芦屋川を越えて僕らは別々の方向へ帰るんだけど、突然彼女は僕の手に軽く触れた。でも、それだけ。僕は心臓ってこんなに音がするもんなんだ、って初めて気がついたというくらいに、バクバクしたよ。それはきっと、トシ先輩を裏切ったかもしれない、という恐怖心と、彼女がぐっと近づいた感じがしたからだろう。
マイルスを教えてくれたのは彼女だった、というのはあまりにも出来すぎだな。トシ先輩がジャズ好きで、コルトレーンもエヴァンスも、トシ先輩が教えてくれた。僕はイーグルスとかビリー・ジョエルとか、そんなのしか聴いてこなかったから、ジャズははじめ取っつきにくかった。でも、マイルスはなんだか素直に聴けた。でも、選んでくれたアルバムが良かったからだと思う。最初に『アガルタ』とか、そんなのを聴いてたら、マイルスを好きになっていたかどうか分からない。もちろん今は好きだよ、マイルスはなんでも。
彼女もジャズはあまり詳しくなかった。でも、トシ先輩のアパートで一緒に聴く時は、熱心に聴いてた。そして珈琲を入れて、アルバムジャケットの話なんかをするんだ。そう、言い忘れてたけど、彼女は芸大の学生だった。なんでも、京都の難しい芸大に通っているってことだった。僕にはよく分からないけど。
なんで芸大の彼女がいるんですか、って聞いたら、おまえ失礼な事聞くなあ、って笑いながら、俺も芸大目指してたんだよ、って話で。まあ、美術音痴の僕には関係ないけど、2人はとっても素敵なカップルだった。僕には彼女はいなかったけど、2人といる時間が満たされていたから、かもしれない。
だから、トシ先輩が最初に推薦してくれたマイルス・デイヴィスのアルバムが、随分と地味なジャケットで驚いたんだ。
『Musings of Miles』っていうタイトル。なんと、ジャケット表面に文字がひとつも無いんだよ。『天国への階段』が入ってるレッド・ツェッペリンのアルバムもそうだったから、なんてマイルスってとんがってるんだ、と僕は思った。でも、ターンテーブルから流れてきた音はとんがり具合はまったくなくて、それはそれは上品な音だった。
トシ先輩の話では、『Musings of Miles』はマイルス唯一のワンホーンカルテットのアルバム、ってことだった。マイルスはワンホーンカルテットの録音はいくつか残してるけど、アルバムまるごと一枚がワンホーンカルテット、というのはこれだけらしい。つまりマイルスは、ホーンのアンサンブルでサウンドを作っていく傾向が強く、かなりのサウンド・ディレクション指向だったらしいから、ホーンが自分しかいないアルバムというのは、本来のマイルスの嗜好性からはちょっとずれているというお話だった。
今でこそ、僕もマイルスのそういうサウンド世界はそれなりに理解できるんだけど、当時はまだ18歳だよ、わかるわけない。ジャズのアルバムも5枚くらいしか聴いたことがなかったから。でも、そんな僕だからこそ、トシ先輩は『Musings of Miles』を聴かせてくれたのかもしれない。
僕にとっての初めてのマイルス。それが『Musings of Miles』だった。すっかりはまってしまった僕は、それからマイルスのアルバムばかり続けて聴いた。そしてとうとう『Kind of Blue』に巡り会うことになるんだけど、それはもう少しあと。やっぱり『Musings of Miles』が好きだった。
アルバム一枚がまるごと、やさしく上品なトランペット。ブルースも入ってるけど、渋いと言うよりは緩いブルース。レッド・ガーランドのピアノは小粋というコトバがぴったりで、何度聴いても飽きることがなかった。
トシ先輩のテニスの腕が凄かったことが、かえって僕を彼女と近づけることになったというのは、本当に皮肉なことだった。僕は、気がついたら僕の部屋で彼女と2人でいることが増えてしまっていた。そして、そこには常に『Musings of Miles』が流れていたんだ。
1曲目に入ってる『Will You Still Be Mine?』って曲、もともとは歌らしいんだけど、『あり得ないことが起こっても、あなたは私のものでいてくれるの?』というそんな歌詞だってのを知ったのは、実は最近のこと。彼女は、その歌の意味を知っていたのかもしれない。
僕は、トシ先輩が遠征で関西を離れる度に、彼女と一緒だった。もちろん、授業が終わった夕方から翌朝まで。それは素晴らしい時間だった。僕にとっては、何もかもが初めての体験だったから、まったく舞い上がっていたと思う。だから、トシ先輩を裏切っているという罪悪感は、ほとんど感じなかった。マイルスが流れていても。
でも、マイルスは許してくれなかったんだと、今になって思う。トシ先輩が『Musings of Miles』を僕に聴かせた。僕はそれが何を意味していたのか、今もってよくわからない。でも、『Musings of Miles』が僕を大人にしたんだと今でも思ってる。彼女はどう言うか分からないけど。
ここまで書いてみた。
一気呵成、推敲せずアドリブのように書いたので、つじつまが合っていない部分もある。
やっぱり小説もどきを書くのは、それなりに面白い。けど、それなりに疲れる。
あえて説明するまでもないが、完全なフィクションであるので、邪推は禁物。主人公は私ではないし、あなたでもない。
※
なぜマイルスの『Musings of Miles』を紹介するのにこんな小細工を使ったのかと言えば、今回が第60回の記念だからだ。
それは冗談。
まず、マイルスの『Musings of Miles』は村上春樹さんの小説に出てくるということを最近知ったからだ。私も試してみようと思ったということである。
小説形式で音楽を紹介する利点は、音楽の世界観を登場人物の世界観とオーバーラップさせて意味を持たせることが出来る点にあるだろう。村上さんが多くの小説で音楽を登場させているその理由は、まさにそれである。ただし、その音楽のことを知らなければかえってわかりにくくなる、というリスクもある。しかし、そのリスクを『読み手にとっての謎解き』と解釈すれば、リスクも転倒して魅力となる。村上さんが小説に音楽を導入するのは、それが大きく影響している。
そして、なにより、普通のコラム形式で書くなら、マイルスは1枚を取り上げるのは至難の業であるからだ。
それは、マイルスは本当に歴史が長く、そして深い。どこを取り上げるかによって、まったく切り取る世界が変わってしまうからにほかならない。
私は、マイルスのビバップ時代も好きだし、ハードバップも、もちろんモードも、なによりファンクも、全部好きなのだ。アコースティックもエレクトリックも、マイルスは全てが最高で、とんでもなく素晴らしい。一枚に絞り込むなどそもそも無理な話である。
しかし、どうしても聴いてほしい。では、どれを聴いてもらうか。このコラムを読むのは、おそらくある程度ジャズを聴いてきた人たちだろう。であればこそ、あえて、唯一のワンホーンカルテットを選んだのである。このアルバムは、ほとんど話題に出ない。ヘタすると、まだ聴いたことがない、というジャズファンもいるかもしれない。
もしそうなら、それはとっても勿体ないことだ。
そして、初めてマイルスを聴く人にも、この『Musings of Miles』は本当にお勧めだ。トランペットを素晴らしく歌わせながら、スウィングとブルースとバラードをうまくミックスさせた、とても味わい深く気持ちの良いアルバム。なにより、くどいようだがマイルスのワンホーンカルテットというわかりやすさ。
1955年録音ということからも、マイルスがドラッグ癖から立ち直り、心身共に健康となった状態がサウンドに良く現れているので、聴いていて爽快感がある。圧倒的なハードバップ作品であり、歴史的な大傑作でもある『Walkin'』を吹き込んだ直後。そして、コルトレーンが加入する第一期黄金クインテットの直前。演奏者としてとても安定し、力がみなぎっている時代だ。しかし、そんなパワフルなマイルスにあって緩やかなワンホーンカルテットを堂々と、リラックスして吹き込んでいる揺るぎなさ。そういった音楽のエッセンスが堪能できる極上の一枚。
後に、『Kind of Blue』でジャズの地平を拡大し、『Nefertiti』でアコースティックジャズの頂点を極め、『Bitches Brew』ブラックミュージックそのものの成長を大きく後押ししたマイルスの革新性、思索的なサウンドは、この『Musings of Miles』でまったく聴くことが出来ない。そのかわりに、素直でメロディアス、スウィングしている美しいトランペットサウンドがアルバム全体を通じてやさしく手招きしている。
革新的ではないし、インパクトも普通である。ヘタするとBGMになってしまうかもしれないくらい、優しいアルバムだ。しかし、聴けば聴くほど味わいは深く、アタマを刺激しない代わりに心を緩めてくれる良さがある。
すべての音楽ファンに、いや、全ての人々に聴いてほしいマイルスのアルバムとして、私はまずこれを挙げたい。
マイルスのことばかり書いたが、オーセンティックなジャズアルバムとしても本当に名盤だと思う。まず選曲のバランスが素晴らしい。メロディの美しい歌モノ、ジャズ・スタンダード、マイルスのオリジナルがうまく配分され、曲調もアップテンポのスウィング、ミディアム基調のブルース、詩的なバラードまで幅広い。まさに正統的ジャズアルバムといっていい。
メンバーも素晴らしい。良く転がり良く歌うレッド・ガーランドのピアノは、ピアノという楽器の良さを最大限感じさせてくれる演奏で、メロディ、リズム、アクセントが天才的なバランスでサウンドに昇華している。バッキングとソロのコントラストは、あらゆる演奏者のヒントとなる隠し味に満ちている。
そして、出しゃばらず乱れず、しかし見事なグルーヴを生み出すオスカー・ペッティフォードのベース。サウンドのボトムを支えるとはこういうことかという見本のようなベースプレイ。
そして極めつけともいえるブラシワークとスティックさばきが絶妙にスウィングするフィリー・ジョー・ジョーンズのドラム。このドラムプレイこそ、ジャズそのものではないかと思うくらい、リズムがしっかりと意志をもちつつ、フロントのプレイヤーを支えている。
それら名人芸とも言えるリズムセクションをバックに、時にはメロウに、時には抑えたパッションで、存分にのびのびと歌い上げるトランペット。テクニックが完璧すぎないところもマイルスの魅力だ。正確でありつつ揺らぎもある、実に人間味あふれるラッパ。
そしてそれら素晴らしいサウンドを寡黙に、饒舌に、バランスの良い濃度で具現化したエンジニア、ルディ・ヴァンゲルダー。とてつもない組み合わせなのだ。
初めてジャズを聴く人や、アコースティックジャズが好きで初めてマイルスを聴く、という人に、お勧めしたいアルバムの筆頭。それがこの『Musings of Miles』なのである。
マイルスのサウンドが、バンドアンサンブルを重視していることは、もちろんジャズ好きなら誰でも知っていることだと思うが、だからこそこのアルバムは奇妙な存在感に満ちている。自伝でも思い入れたっぷりに語られているが、なぜあえてワンホーンカルテットというフォーマットで録音したのかには、触れられていない。
それにしても、自伝を読めば読むほどにマイルスの世界は深く、示唆に富んでいる。そして、オンナのネタがあふれている。そんなこともあって、モノは試し、小説風に『Musings of Miles』を取り上げてみようか、と柄にもないことを思い立ったわけである。
小説の中で、大学生になったばかりの主人公が初めて聴くアルバムとして『Musings of Miles』を設定する。先輩から学ぶということ、女性に夢中になるということ、背徳に手を染めるということ、そんなマイルス自身のストーリーを主人公に暗喩として重ね合わせることで、このアルバムは、マイルスのアルバムという世界観に加えて、ジャズをあまり聴いたことがない人でも親しめるアルバムであるという世界観も付加できる。
ということで、私のヘタクソな「小説もどき」がうまくいったかどうかは分からないが、マイルスの『Musings of Miles』が素晴らしいアルバムであるということは、間違いないことである。
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