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Kind of Jazz Night

さんふらわあ JAZZ NIGHT 初代プロデューサー
大橋 郁がお届けする『KIND OF JAZZ』。
うろたえず、媚びない。
そんなジャズにこだわる放浪派へ。
主流に背を向けたジャズセレクションをどうぞ。


撰者
大橋 郁
松井三思呂
吉田輝之
平田憲彦

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第43回

アップ・アップ・アンド・アウェイ(後編)
ソニー・クリス
撰者:吉田輝之


【Amazon のCD情報】

大晦日はここ数年間、最後の忘年会を兼ねて、三宮のとある古いバーで過ごすのが習いになっています。年が明けると、いつもルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界」とジョン・レノンの「イマジン」がかかり、お開きになります。それから皆で三宮の生田神社に初詣に行きます。午前零時に桜門が開き長蛇の列がゆっくりゆっくり進んでいきます。そして桜門に近づいてくると聞こえてくるのです。桜門の上の方からお囃子が。全員うら若き女性が桜門の天井にある通りで神戸太鼓を叩いているのです。それも肌もらわに。
そうです、私(及びバーのマスター他の面々)はこのお囃子を聴く(見る?)ために元旦午前零時にわざわざ長時間並んで生田さんに年始に出かけていくのです。この乙女(に決まっています)達のお囃子は元旦のほんの数時間だけなのですが、案外神戸の人にも知られていないのです。今年は一番端に、美人の外人さんがやはり肌もあらわに(←しつこい)太鼓を叩いており、私はしばらく見とれながら後ろ向きに歩いてこけそうになりました。
さて、「UP、UP、AND AWAY/SONNY CRISS」の後半です。



ソニークリスが故郷のテネシー州メンフィスからロスに移住したのは15歳の時、1942年だ。15歳という年齢は自分の意思で移住したのか家族とともに移住したのか推測するのは微妙な年齢だ。
当時、西海岸では日本との戦争で軍需産業が活況となりロッキード社などの工場や石油のパイプライン敷設のため多くの南部の黒人がロスに移住している。クリスまたはクリスの父親が職を求めてロスに移住した黒人の一人である可能性は高いと思う。しかし、クリス自身は10代でハワード・マギーの楽団で働き始めるのだから元々プロの音楽家になろうとしていたのだろう。

さて、当時の西海岸の黒人ジャズシーンである。西海岸では南部からからきた黒人大衆の支持を得てブルースはかなりはやっていた(その中心は天才Tボーン・ウォーカーだ)。しかしジャズではスタン・ケントン楽団を中心とする白人ジャズ全盛の時代で黒人ジャズは今一つ状態であった。 しかしパーカ達の西海岸巡業で黒人ジャズシーンは一変するのである。

パーカー達が西海外に巡業に来た1945年は太平洋戦争が終わった年である。
ガレスピーがアポロレコードで史上初のバップレコーディングしたのが1944年の2月(ソルト・ピーナッツ)、パーカーとガレスピーがタウンホールでコンサートを行いバップというアンダーグラウンドミュージックが顕在化したのが1945年の6月であり、その勢いでこの革命派は西海岸を急襲したと言ってよいだろう。
おそらくバップという音楽がNYのアフターアワーズのクラブで生まれているという事実は西海岸にも伝わっていたと思うし、ある程度バップイディオムも伝わっていただろう。しかしパーカーの西海岸の巡業は単に新しいスタイルを教えただけに止まらず、後のムーブメントに繋がるビッグインスピレーションを西海岸のジャズメンにもたらしたと感じる。

当時西海岸にいた若手のミュージシャン達の年齢はソニー・クリス18歳、ケニー・ドリュー17歳、アート・ファーマー17歳、エリック・ドルフイー17歳、ソニー・クラークにいたっては14歳である。彼らが直接パーカーとセッションを行ったかは記録にはない。しかし彼らがパーカーから大きな衝撃を受けたことは想像に難くない。

パーカーの巡業を前後して1940年代の半ばから50年代初頭の西海岸の黒人ジャズシーンというのは誠に面白い。
1945年にはNYでバップの洗礼を受けた地元出身のデクスター・ゴードンがパーカーのビリー・エクスタイン楽団の同級生ワーデル・グレイをロスに連れてきて双頭コンボを結成する。
1946年にはもうジャスはやめようと失意にあったチャールズ・ミンガスも地元ロスに戻り再活動を始める。
さらに年代は特定できないがオーネット・コールマンもテキサスからロスに来て奇妙な音を出すサックス吹きとしてR&Bバンドで活動を始めているのだ。
そしてノーマン・グランツがJATPを、ジーン・ノーマンが「ジャスト・ジャズ・コンサート」をロスで旗揚げして興行的にも西海岸のジャズシーンは大きく盛り上がっていく。
パーカーは1952年にも西海岸で巡業しているが、その時にクリスはチェット・ベイカー等とともに「イングルウッドジャム」を吹き込む。クリスは当時のロスで尤もパーカーに近かった若手と云っても間違いないだろう。

しかし50年代に入ると白人ジャズ、いわゆるウエストコーストジャズに押されていく。
先ほどあげた若手はクリス以外はパーカーを追うようにNYに移ってしまう。さらに、西海岸の黒人ジャズシーンの中心にいたワーデル・グレイが55年にロスで撲殺され、盟友デクスター・ゴードンも消息を絶ってしまう。
54年に東部からマックス・ローチとクリフォード・ブラウンという二大天才児がロスで歴史的なクインテットを結成するが56年の6月25日激しい雨の日、交通事故によってブラウンはリッチー・パウエル、運転していたその妻ナンシーとともに亡くなってしまい、西海岸の黒人ジャズシーンは沈みきってしまう。

ソニー・クリスにしても殆ど仕事がない状態になる。ここでもう一度同じ疑問がわいてしまう。何故、彼はNYに行かなかったのか。ケニー・ドリュー、アート・ファーマー、ソニー・クラーク等、昔の仲間はNYのハードバップシーンのトップにいる。不思議ではないか。
想像の域を出ないがクリスは「パーカーにはついていけない」「パーカーと一緒にいるとつぶれてしまう」と思ったのではないだろうか。
1945年西海岸にきたパーカーは帰りの飛行機代をヘロインに使ってしまいNYに帰れなくなってしまう。そこで飛行機代を稼ぐために行ったのがダイアルセッションである。ハワード・マギー他地元のプレイヤー達とのレコーディングだが、何と言っても有名なのが「ラバーマン・セッション」だ。ロスの地元の麻薬の売人である「エムリー・ムース・ザ・ムーチェ・バード」(仮名というか通称名だろうな)という男が逮捕されパーカは当地でへロインが手に入らなくなってしまう。そのため代わりに酒をがむ飲みをして意識朦朧としたまま演奏をしたのが「ラバー・マン」である。天才と狂気と破滅が混在した演奏だ。演奏後ホテルに帰ったパーカーは、ホテルを全裸で練り歩きさらに小便をして逮捕され、はてはカマリロ州立病院に入院してしまう。
こんなパーカーと同居していたマイルス、あんたはホンマにえらい。
しかし、普通の人だったら通常とてもこんな人とは付き合えるものではない。
南部出身でおそろしくナイーブだったというクリスはパーカーを音楽家として、おそらく神にも等しいくらいに尊敬していただろうが、とても近くにはいれないと思ったのではないだろうか。

この苦難の時代にクリスは56年に3枚のリーダーアルバムも吹き込んでいる。レーベルは何故かニューオリンズR&Bで有名はインぺリアルからである。
「JAZZ USA」「GO MAN!」「PLAYS COLE PORTER」である。
前回書いたとおり、僕が最初に聞いたクリスのレコードが「ゴー・マン!」であるが、スタンダート中心の短い演奏だがクリスの直球一本やりのジャズ魂が詰まっている。他の2枚も素晴らしい。伴奏のソニー・クラークやケニー・ドリュー等は昔の仲間であり、50年第後半の西海岸における黒人ハード・バップシーンを伝える数少ない傑作だ。
しかしこの後、仕事がなくなったのか、アメリカでの過酷な生活に疲れたのか(神経症とも鬱病とも言われるが)クリスはパリを中心にヨーロッパに移住してしまう。僕は直接的は先にヨーロッパに渡った西海岸の兄貴分デクスター・ゴードンの「引き」だと推測しているが今回調べてみて確証は得られなかった。
しかし、やはりヨーロッパの水が合わなかったのか、60年代半ば再びクリスはアメリカ西海岸に戻ってくる。そして65年にプレステッジと契約し7枚のレコードを残している。

今回取り上げた「Up、Up And Away」はプレステッジ3枚目のアルバムだ(1967年)。どのレコードを選ぶかかなり迷ったが結局一番よく聞いたこのレコードとなった。

ジャケットはセピア色ががった陽光あふれる中、反裸の黒人の少年が天に向かって歓喜の表情を浮かべている。手に持つのはシャツかタオルか判明しない。実は私、このレコードを自分で買うまで、少年ではなく黒人の女性と思っていたのだ。ジャケットの「SONNY CRISS/UP、UP AND AWAY」の字体も実にラブリー。

表題曲は勿論、フィフス・ディメンションのヒット(邦題「ビートでジャンプ」)曲だ。複雑なコード進行の曲を書くジミー・ウエッブの作品。フィスス・ディメンションの発表が67年でカバーするのがものすごい早い。
シダ・ウオルトンのピアノとタル・ファーロの一糸乱れぬユニゾンによるイントロからクリスがテーマからソロに続きピアノソロの後、再びそれこと一気加勢に吹き切ってしまう。まさに「上へ、上へ、そして遠くに」。
聞いていて「どうだ、これがクリスだ」と叫びたくなるような快演だ。
ちなみに、オリジナルのフィフス盤で絶妙なアコースティクギターの伴奏をしているのは以前平田さんが紹介された「アル・ケーシー」だ。 同様にボビー・ヘブのカバー曲「SUNNY」も最高だ。

前回、彼の演奏を評して「軽い」「うるさい」「下品」といわれることに対して徹底的に反撃したが、他にクリスの演奏は「明るい」とも逆に「ブルージー」とも評されることもある。「明るい」というよりも「乾いている」というべきかもしれない。
しかし僕がいつも彼の演奏から感じるのは「メランコリック」ということだ。それはこのLPの「WILLOW WEEP FOR ME」「THIS IS FOR BENNY」「PARIS BLUES」からも強く感じる。(しかしこのBENNYというの誰を指しているのだろうか。西海岸の先輩ベニー・カーターのことだろうか?)

そしてパーカーの「SCRAPPLE FROM THE APPLE」である。ジャズマンらしい言葉遊びの意味のないことに意味があるこの曲の複雑なテーマをタル・ファーローと寸分違えず演奏しその後のソロの見事さ。タル・ファーローのソロも素晴らしい。
このクリスのソロを聴くと「何と、整然とうまいんだ」と思ってしまう。しかしパーカーのオリジナルを聴くと「何と、不整然と凄いんだ」と思ってしまう。

パーカーはもちろんうまい。特に40年代後半にかけての演奏は超絶技巧といってよい。しかし、それよりもうまく吹いてやろうなんてこれぽっちもパーカーが思っていないのが何よりも凄い。
それに比べて、例として出して悪いが、フィル・ウッズという人、70年代の演奏を聴くと信じられないぐらいうまいが、どこか「うまく吹いてやろう」「どうだ俺はうまいだろう」という微かな邪心を感じる時がある。
翻ってクリスの場合「うまく吹こうなんて考えること自体、神(パーカー)を冒涜する行為である」と考えていたのではないだろうか。(フィル・ウッズのファンの皆様申し訳ない。これは私の独断と偏見に満ちた印象論です)

このレコードはクリスの死後、80年にビクターから日本盤がリリースされているが、ライナーノーツは何と村上春樹氏である。まだ作家としてデビューして間もなく、ジャズ喫茶もしていたのではないだろうか。しかし、このライナーノーツは数ある日本盤のライナーノーツの中でも白眉と言えるものなのである。

題して「チャーリー・パーカーは死んで何を残したか」
最初はチャーリー・パーカーが亡くなった通夜の席での跡目相続の話を落語仕立てにしており、若い後家さんを下心ありげに眺めている長兄フィル・ウッズ、それを見ていきり立つ次兄ジャッキー・マクリーンに二人を宥める叔父のソニー・ステッィト、チャーリーの父っつあんが新橋の芸者に生ませた隠し子キャノンボール・アダレー、四男のソニー・クリスと五男のチャールズ・マクファーソンが末っ子で○○遅れのルー・ドナルドソンをあやしながら「汚ねえ、汚ねえ、父っつあん、なんで死んじゃったんだい」と嘆くシーンからパーカー派を論じた後、ソニー・クリスと本盤を論じた見事にして痛快、爆笑のライナー・ノーツである。
ただ、この文章は30年以上前のものであることには注意すべきだ。

「○○遅れのルー・ドナルドソン」には大笑いしてしまったが、当時ファンキーソウルジャズで大騒ぎする存在ぐらいにしかルー・ドナルドソンは見られていなかったし、またパーカー派の実際の生まれ年をみれば、ソニー・クリスが1927年、キャノンボール・アダレーが1928年、フイル・ウッズとジャッキー・マクリーンがが1931年である。クリスがフイル・ウッズやマクリーンよりも年上で早く直接パーカーの影響を受けた本来は長兄とでもいう存在なのだ。当時まだソニー・クリスの40年から50年代の活動が不明であり、村上氏はこのような兄弟順にしたのだろう。(ほら、このことからもソニー・クリスが誤解されていることがわかるでしょう)。

ちなみに、このライナーノーツは村上氏のどの著作にも掲載されていない。おそらく「○○遅れのルー・ドナルドソン」のためではないかな。
また、僕の持っていいる90年代に出されたCDでは村上氏のライナーノーツだが、現在発売されているCDでは村上氏のライナー・ノーツは付属されていないので実に残念だ。
(もし興味を持たれ阪神間でお住まいの方は、三宮のジャズ・バー「さりげなく」に来ればいつでも読むことが出来ます)

村上氏はこのライナー・ノーツでクリスのことを総括してこのように述べている。
「不思議なことに(本来は不思議であってはならないのだけれど)ソニー・クリスは吹くごとに、年をとるごとにうまくなっていくミュージシャンであった。」
「決して一流の才能をもってその演奏活動を始めたわけではないけれど、遂には一流の域に達した人であった」。
僕はこの文章に一文を付け加えたい。
「そしてたとえ偉大でなくてもソニー・クリスは実にいかしたアルト吹きだった」と。


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