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Kind of Jazz Night

さんふらわあ JAZZ NIGHT 初代プロデューサー
大橋 郁がお届けする『KIND OF JAZZ』。
うろたえず、媚びない。
そんなジャズにこだわる放浪派へ。
主流に背を向けたジャズセレクションをどうぞ。


撰者
大橋 郁
松井三思呂
吉田輝之
平田憲彦

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第37回

ニーナ・シモン・アンド・ピアノ
ニーナ・シモン
撰者:大橋 郁


【Amazon のCD情報】

今回は、久々のボーカルもの。
ピアノを弾きながら歌うのを得意とするニーナ・シモンのアルバム。曲によっては多重録音によるオルガンや打楽器が若干入るが、ほぼ全編ニーナのピアノ弾き語り。1969年、ニーナ36歳の時の録音である。

「NINA SIMONE」のアルファベットで描かれた、センスのいいピアノの絵のジャケットに惹かれて、内容を殆ど知らずに買ってみた。 一度聴いたら忘れられないローテナーの歌声は、太くて柔らかい。そして何かしらの力強い意志を感じさせる。まるで激しい嵐の夜にも、荒波をものともせず、ズシリと重たい錨を下ろした大船のように、聞くものの心臓をわしづかみにして、包み込んでしまう。一度聞けば誰でも、ニーナワールドの深い淵の底に呼び込まれていく。
このアルバムは、他の楽器による余計な装飾のない弾き語りだけに、ニーナのピアノが前面に出ていて、それが一層強くニーナらしさを感じさせる。この人の弾くピアノは最初の一音から黒い。第一声がまた黒い。
後で知ったが邦題は「ソウルの世界」だ。ネーミングのセンスは別として、確かにこんなにソウルフルなボーカルはそうざらにないだろう。

ニーナは、1933年に黒人差別の色濃い南部のノースキャロライナ州に貧しい教会の牧師の子として生まれた。幼い頃からピアノの非凡な才能を示し、クラシックピアノの本格的な教育を受けた。
12歳の時に初めて教会でリサイタルの機会に恵まれたが、両親が一番前の席を白人に譲るために後ろの席に譲らされたのが許せず、両親を前列に戻すまで演奏を拒否した、という事件があり、この最初の人種差別体験が後に公民権運動に傾倒していくきっかけになった。事の真偽はわからないが、あり得る話であり、南部に生きる黒人にとっては遅かれ早かれ、通り過ぎる道であっただろう。

ニーナは頭もよく、ハイスクールでは卒業生総代を務めたという。音楽の才能に恵まれクラシックのピアニストを目指して、高名なフィラデルフィアのカーティス音楽院に進もうとするが、叶わなかった。後に彼女は、人種差別が不合格の理由であったことを知る。(結局彼女はNYのジュリアード音楽院に進む。)
これらの体験が影響して、彼女は60年代に公民権運動に傾倒していったことは想像に難くない。

デビューアルバムである1956年の「Littlle Girl Blue」は大ヒットとなったが、レコード会社(ベツレヘムレコード)に全ての権利を売り渡してしまっていたので、印税を受け取ることはなかった。
このアルバム中の「I Loves You, Porgy」は、ニーナの代表作として名高い。しかしこれは、デビューしたてのサパークラブでジャジーな曲を弾いていた頃のニーナであり、1960年代前半からは次第に妥協を許さない作風が色濃くなっていく。

そして1963年9月15日、アラバマ州バーミングハムの16丁目バプティスト教会で日曜礼拝中にKKK(白人至上主義者)の仕掛けたダイナマイトにより、4人の黒人少女が爆死するという事件が起こった。これは、公民権運動の中でも重大転機と言われた「ワシントン大行進」から3週間もたっていない時期に起きた。キング牧師に率いられた黒人による非暴力運動の展開を、白人側が暴力で阻止しようとした事件であり、この事件はニーナにとって決定的な転機となった。

ニーナの影響は幅広い。
1981年頃「私はタフな女」というTVドラマがあって、主演の研ナオコさんが『別離の黄昏(わかれのたそがれ)』という主題歌を歌っていた。ピアノソロのイントロで始まる静かな曲は、(ドラマの中での話だが)死別した夫への思いを込めて歌われている。今にして思えばこれは、ニーナ・シモンのこのアルバムの一曲目の「恋に飽きることはない」へのオマージュが込められている気がしてならない。それくらいにイントロのゴスペルタッチのピアノが重なって聞こえるし、ニーナと共通した世界を感じる。

また、ジョン・レノンよれば、ビートルズの「ミッシェル」で「 I love you, I love you, I love you」と、3回続けて唱えている部分は、ニーナ・シモンの「アイ・プット・アス・ペル・オンユー」の<ドゥドゥドゥドゥ・ドゥ・アイ・ラヴュ・アイ・ウォンチュ>の部分にインスピレーションを受けたと云っている。
浅川マキは、「ジンハウス・ブルース」を歌っているが、これは、ニーナ・シモンによるブルースの大御所ベッシー・スミスの「ジンハウス・ブルース」のカバー(アルバム「Forbidden Fruits」収録)を、翻案したものだと考えられるし、浅川マキの歌う「トラブル・イン・マインド」は、ニーナのアレンジをそっくりそのまま使用していている。(アルバム「Nina at Newport」収録)
ビリーテイラーの「I Wish I Knew How It Would Feel to Be Free」をカバーし、自作の「To Be Young, Gited , and Black」はアレサ・フランクリンやダニー・ハザウェイにカバーされた。

ニーナはクラシック音楽の造詣も深いことから、彼女のピアノスタイルにはよくクラシックの要素が入っている、と指摘される。彼女はクラシックの教育も受けているから、その要素がでてくることは不思議なことではなく、あくまでニーナの中にあるものが自然に出てきたのだろうが、ここでのニーナのピアノからは、私はむしろアーシーでファンキー、即ち生まれ育った南部の環境やゴスペルをベースとした黒人音楽そのものを圧倒的に強く感じる。もっといえば、黒人の遠いルーツであるアフリカ的なものを感じる。クラシカルなタッチや、クラシックのコンセプトというのはあくまで奏法のことであり、彼女自身はこだわりもなく、自由で素直にニーナ自身の中にあるものを歌っているだけなのではないだろうか。

ミュージシャンである以上、レコード会社やショービジネス界と無縁ではいられないが、コンサートを直前に何度もキャンセルしたというエピソードもあり、周りからみれば高慢、あるいは難儀な人とみられることもあっただろう。しかしこれは、生き方が純粋であり、繊細過ぎる為に彼女自身がいつも軋轢に傷つき苦しんでいた結果なのだろうと思う。南部の貧しくも厳格な牧師の家に生まれ、気高い精神を持ち、自分の魂に対して誠実な人であったのだろう。彼女は恐らく芸能人というカテゴリーの外にいた。妥協の出来ない人であった。

ニーナは、人種差別やレコード会社の搾取、そういったものに嫌気がさし、1974年には米国を離れる。その後、バルバドス、リベリア、スイス、パリ、オランダなどに移り住んだ後、南フランスに永住した。
乳癌による闘病生活の末、2003年4月南仏のCarry-le-Rouetの自宅で70年の生涯を終えた彼女の遺灰は遺言に従っていくつかのアフリカの国々に撒かれた。

ニーナは南部で生まれ、黒人差別の中で育ち、黒人であることを強烈に意識し、生きてきた。
自分が白人支配の国に生きる黒人であり、しかも男の支配する社会に生きる女であるということを一層強烈に認識していた。しかし、彼女はその中で黒人の置かれてきた位置とアイデンティティを再認識しようとしていた。そしてニーナは、黒人たちが人種差別によって傷つけられたことだけではなく、逆に黒人としての誇りも歌った。自分の曲と他人の曲の独自解釈の両方で。

彼女の声は、黒人の痛みを代弁していただけではない。黒人の夢や希望も代弁していた。それは、彼女の中に持っていたものであり、自作曲を歌っても、他人の曲を歌っても、彼女の中から滲み出てきていた。
だから、英語の歌詞を理解できない私のような日本人の心までをもこんなに揺さぶるのではないだろうか。
このアルバムは1969年という公民権運動を一通り過ぎた時期に、36歳というニーナのスタイルが固定された後に作られたアルバムである。
そんな強い意志の力を感じるニーナのピアノとボーカルを聞いてみてほしい。


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