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Kind of Jazz Night

さんふらわあ JAZZ NIGHT 初代プロデューサー
大橋 郁がお届けする『KIND OF JAZZ』。
うろたえず、媚びない。
そんなジャズにこだわる放浪派へ。
主流に背を向けたジャズセレクションをどうぞ。


撰者
大橋 郁
松井三思呂
吉田輝之
平田憲彦

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第32回

アット・ザ・ブルーノート、ザ・コンプリート・レコーディングズ
キース・ジャレット
撰者:平田憲彦


【Amazon のCD情報】

世の中には二種類のジャズ好きがいる。キース・ジャレットを聴いて感動する人と、そうでない人だ。それは止むを得ないだろう。あの声が嫌だという人は数しれず、あれさえなければ聴くのに、という感想をどれほど耳にしたことか。
それに逆らおうとは思わないが、それでも、弾きながら恍惚として声をあげてしまうキースに私は共感こそすれ、無理解への同情はしない。それは、同じジャズピアノであればバド・パウエル、あるいは、ブルースであればハープを吹きながら声が同調してしまうジェイムス・コットン、またはクラシックであれば奇人と言われ続けた天才、グレン・グールドと同じパッションを感じるからだ。

ピアノを弾きながら声をあげてしまう運命は、ピアノを人生の恋人にしてしまった人間にだけ起こりうる幸福だとさえ思う。
しかし、そのことだけでキースを聴かないというのは、人生における幸福のひとつを放棄するに等しいくらい、もったいないことだ。

私はキース・ジャレットを初めて聴いた時、その声に驚いたことは事実だが、美しく研ぎ澄まされた和音に引き込まれてしまった。さらに聴けば聴くほど、和音を超えて、単音にすらあふれ出る未知の美しさに心がとけていった。ひとつの鍵盤を弾いているだけなのに、なぜこれほどの美しい深さと切れ味があるのだろうかと。

キース・ジャレットはスタジオ録音よりもライブ録音に素晴らしい演奏が多く残されているのは周知の通りである。筆頭にあげられるのが『ケルンコンサート』であることは言うまでもない。日本ではブリジストンのテレビコマーシャルで使われた時に驚異的な反響を呼び、ジャズファン以外に多くの聴衆を釘付けにしたが、それもまた音楽の宿命のひとつだ。
テレビコマーシャルでレオン・ラッセルの『ソング・フォー・ユー』を聴いてアメリカンミュージックにはまった人が大勢いたことからもわかるように、あらゆるメディアが音楽とともにあり、そして、そこから新たな聴き手を引き起こすことは、マクルーハンも驚いたのではないかと思えるほどのメディアの音楽作用、音楽体験ともいっていいのだ。

日本では、キース・ジャレットはブリジストンから飛躍した。空を突き抜けるようなアドリブでキース・ジャレットはジャズの裾野を無限に広げたのである。

キースはマイルス・デイヴィスのバンドで大きな転機を迎え、その才能を開花させたが、キースがジャズに果たした役割として圧倒的に特筆すべきなのは、スタンダードばかりを演奏するユニット『キース・ジャレット・スタンダーズ』での活動だろう。

ゲイリー・ピーコック、ジャック・ディジョネットと組んだアコースティック楽器でのピアノトリオでスタンダード・ナンバーを演奏することをコンセプトに、立て続けにアルバムをリリースした。
はじめの作品はスタジオ録音だった。『Standards Vol.1』『Standards Vol.2』とシンプルに名付けたアルバムをリリースし、スタンダードを素材としながらも斬新で革新的な音世界を提示した。そこでは音楽の恍惚感を具現化するという離れ業をやってのけたのである。
そして、おそらく音楽の歴史に刻み込まれるであろう傑作『Standards Live』をリリース。日本では『星影のステラ』という名称でリリースされたそのアルバムは、メインストリームでもなければ異端でもなく、かといって新主流派などのカテゴリー主義などを跳ね除ける、圧倒的な空間に息をのむ素晴らしい音楽体験を我々にもたらせてくれた。
ピアノとベースとドラムという3つのアコースティック楽器が有機的に絡み合い、無限かとも思えるほどの音空間の変容と拡散、そしてなにより美しい旋律が次々とあふれ出るさまは、ジャズというジャンルを超えて、音楽そのものの生命力を感じさせる。

その後は、次々とライブアルバムをリリースし、ジャズの本質はライブであることをキースは身を持って提示してきたのである。
スタジオ録音でもジャズはライブ演奏である。もちろんオーバーダビングしているジャズアルバムもないではないが、それはレアで、ほとんどのジャズはライブだ。スタジオ録音であっても。

しかし、いくらライブといえども、聴衆のいるライブとそうでないライブは大違いである。バンドをやっている人ならあえて説明するまでもないだろうが、人前での演奏は、音楽そのものに与える影響がスタジオと破格に違ってくる。
キースはスタンダーズ・トリオでの演奏を通じて、ライブでこそ音楽の魂を引きずり出すことができると気がついたのではないだろうか。その魂とはつまり、演奏者に眠っている衝動を露呈させることで生まれ出る自分にしかない表現の核である。

聴衆の視線、声援、拍手、そして圧倒的期待感という圧力。それが、スタジオでは決して生まれ得ない表現を導き、輝かせ、演奏者の生々しい衝動を呼び覚ますのである。

ここに紹介するライブアルバム『At the Blue Note: The Complete Recordings』は、言いようによっては異形の産物だ。キース・ジャレット・スタンダーズというトリオで演奏された三日間に渡るライブ演奏の全記録。
ニューヨークのジャズクラブ、ブルーノートで1994年6月3日、4日、5日に繰り広げられた濃厚な三日連続ライブを、編集せずにそのままパッケージした作品なのだ。CDで6枚組。価格は1万円。異常である。単独の音楽アルバムとしては、リスナーの金銭感覚を無視した商品だ。しかし、これを商品ととらえるから異形に思えるだけだ。これは、表現作品なのである。ピカソやマティスの作品と何が違うというのだろう。
この作品は、三日間をまるまるパッケージしてこそ、そのすばらしさが表出する。どんな編集も寄せ付けない圧倒的パワーがここにはある。

キース・ジャレット・スタンダーズのライブアルバムは多く出ているが、ホール録音がほとんどである。ホールにはホールの味があり、それはそれで独特な音世界を具現化しているが、やはり小さなジャズクラブでの演奏は、観客との距離が近いこともあって演奏者に与える衝動はただ事ではない。それが本当によく出ているのだ。この作品は。
キース・ジャレット・スタンダーズのライブハウス作品は、私はこの作品以外知らない。

キースの独特な美しい和音はそのままに、ライブハウスで熟成されたパッションがピーコックとディジョネットの演奏に火を付け、熱く美しい演奏となって昇華しているさまは、感動を通り越して夢見心地である。
普段は封印しているかの如きビバップやブルースを惜しげもなく披露してソウルが溢れ出す躍動感は快感ですらあり、キース・ジャレットがブルース?という意外性も消し去られ、聴くほどに溢れ出るキースのソウルフィーリングも当然と思えてくるだろう。

疾走感あふれるスウィング、ドライブ感あふれるビート、うっとりするバラード、ケルンコンサートで味わった空を駆け抜けるアドリブ、ジャズならではの4ビートの快楽、古典音楽に根ざした西洋音楽の奥深い空間、絵画的とも言える鮮やかな音空間を、ピアノとベースとドラムというたった3つの楽器が織り成す饗宴。奇跡とも思える時間を心ゆくまで堪能できる。
一音一音に込める魂あふれる演奏に、キース・ジャレットのエッセンスのみならず、ピアノトリオの快感を思う存分に味わえるのだ。

この三日間のニューヨークライブを心から楽しむ方法としておすすめは、出来るだけ大きな音で、一気に全てを通して聴くことである。約7時間、ぶっ通しで聴くとこれまで体験したことのない音楽世界を堪能できる。それはある意味で人生である。演奏者と聴衆の三日間の人生を、自分の人生と重ね合わせることが出来るのである。

真剣に自己の存在に向き合った音楽を聴くことで、いつしか自分の人生とシンクロして、眠っている内なる魂が表出してくる瞬間と出会うことができる。
こんなジャズアルバムは滅多にない。

私がキースのアルバムで最も頻繁に聴くのは前述の『Standards Live』であるが、このブルーノートライブ完全版は、週末にリラックスしたいが音楽からの情熱も感じたい時、長い時間をかけて心ゆくまで音楽に浸りたい時に欠かせない作品である。


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