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第23回
Motor City Soul
Father Tom Vaughn



モーターシティ・ソウル
ファーザー・トム・ヴォーン
撰者:吉田輝之


Motor City Soul
Father Tom Vaughn
【Amazon のディスク情報】

RCAの3枚目のアルバムで、1967年の2月に地元デトロイトのベーカーズ・キーボート・ラウンジで吹き込まれたピアノトリオによるライブアルバム。リリカルさとソウルフルさが渾然一体となった独自のスタイルで、わかりやすく大衆的な面を持つ一方、実に高踏的でマジカルな演奏。

1. How About You
2. Girl Talk
3. The Nearness Of You
4. Motor City Soul
5. Tenderly
6. I Wish I Knew How It Would Feel To Be Free
7. So What
8. Shadow Of Your Smile
9. The Girl From Ipanema
10. The Party's Over



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こんにちは吉田輝之です。梅雨ですね。関西では5月26日に梅雨入りしましたが、1951年の統計開始以来、56年の5月22日に続く2番目の早さだそうです。梅雨明けも早いと言われていますが、このコラムを書いている7月5日現在ではまだ明ける様子はありません。通年であれば梅雨明けは7月の後半でしょうか。
僕の実家は神戸の山側にありますが、7歳の時、もう梅雨は明けたかとういう7月の下旬、海側の工場街で遊んでいたら突然の大雨のうえ雷となり、ビィエーンと泣きながら神戸の坂を駆け上がって帰ったことを時折思い出します。ちょうどその頃、1967年の7月に海の向こうの工場街で大きな暴動が起こりました。今週の一枚はその街で育ち、暴動の起きる前、ほんの数年間ジャズの表舞台で活躍した白人ピアニスト、Father Tom Vaughn(ファーザー・トム・ヴォーン)の「Motor City Soul」です。



デトロイトと聞いて、どのようなイメージがわくだろうか。一般的には自動車産業の街だろう。黒人音楽ファンはまずモータウン(MOTOWN)を思い出すだろう。モータウンはMORTOR TOWN(自動車の街)の略である。モータウン以前においても、デトロイトはジョン・リー・フッカーが拠点としたように古くはブルースの街であり、50年代に入るとフレディー・ハバート、ドナルド・バード、ミルト・ジャクソン、ケニー・バレル、ジョーンズ兄弟、トミー・フラナガン、ローランド・ハナ、ペッパー・アダムス他多くのジャズマンを輩出したジャズの街だった。

60年台になるとソウルの街になるわけだが、ジャッキー・ウイルソンやダイアナ・ロス、スモーキー・ロビンソンがデトロイト出身だ。また、アラバマ生まれのウイルソン・ピケットやエディ・フロイド、メンフィス生まれのアレサ・フランクリンといったサザンソウルシンガーとしてのイメージの強い南部生れの歌手も、実はデトロイトで育っている。逆にモータウンを代表するテンプテイションズのリードシンガー、デヴイッド・ラフィンとエディー・ケンドリックスは、意外なことにアラバマ出身者だ。グラディス・ナイトもジョージア出身のデトロイト育ちである。デトロイト生まれでなくてもデトロイトがらみの黒人歌手は実に多い。

デトロイトは元々、馬車や自転車製造が盛んだったが、1899年に自動車工業が興り、特に1903年にヘンリー・フォードの量産型自動車「T型フォード」が大ヒット、その後にゼネラルモーターズ、クライスラーが誕生してビッグ3と呼ばれ、自動車産業の一大拠点として発展した。市はモーターシティと呼ばれるようになり、全盛期には180万の人口を数えた。その半数が自動車産業に関わっていたという。そして前述したソウルシンガーを含め、南部の貧しい多くの黒人達が職を求めて移住して形成された都市だ。日本でいうと尼崎から神戸南部の阪神工業地帯や大森から蒲田・川崎へと続く京浜工業地帯と同じようなところと言えばいいだろうか。イギリスならバーミンガムやリバプールだ。 そのような街で生れる文化は、北部と南部、都市と田舎、白人と黒人、さらに富と貧しさ、実と虚、聖と俗という対立する要素がシャッフルされた上で、アーシーでありながら洗練された独特のものだ。NYやシカゴといった大都会で生まれた文化とは違う臭いがする。

今回取り上げたトム・ヴォーンは1936年ケンタッキー州のベントンで生まれ、10歳のときに家族とともにデトロイト郊外に移住し、デトロイトで育った白人のピアニストだ。残したレコードは4枚のみで、ジャズの世界においては一般的に殆ど無名といっていい。僕も8年前、あるジャズ喫茶で彼のことを初めて知った。

今回彼についていろいろ調べたが、わからないことが多い。ヴォーン(VAUGHN)という姓はイージーリスニングのビリー・ヴォーンや白人ブルース・ギタリストのスティーヴ・レイ・ヴォーン、ナポレオン・ソロのロバート・ヴォーンを思い出すが、アイルランド系のカトリックの名前だ。ケンタッキー出身から推測するに、産業革命期か1840年代のジャガ芋の大飢饉の時にアパラチア山脈に移住してきたアイルランド人の子孫なのだろう。(因みに、彼らがマウンテンミュージック他、アメリカのルーツミュージックを創っていく)。

同世代のジャズマンでいうと、アルバート・アイラー、ドン・チェリー、そしてモータウンの伝説的ベーシストのジェームズ・ジェマーソンは1936年生れだ。ピアニストでいえばラムゼイ・ルイスとボビー・ティモンズの一歳下、マッコイ・タイナーのニ歳上だ。モダンジャズ第3世代であり、かなり「濃い」世代の一員といえる。

トム・ヴォーンは5歳の時からピアノを習い、最初はクラッシックピアニストを目指したらしい。しかし12歳の時に彼の先生のもとを訪れたアート・テイタムの演奏を聴き、ジャズにのめり込む。近くに住んでいたエルヴィン・ジョーンズ他ジョーンズ兄弟と仲がよくなり、10歳の半ばでエルヴィンの他、ケニー・バレル、ポール・チェンバースといったデトロイト派のジャズマンとジャムっていたという。

トム・ヴォーンが極めてユニークなのは、名前に前に「ファーザー」がつくことからわかるように、ジャズ・ピアニストであると同時に実は「神父さん」なのである。クラブでピアノを演奏する傍ら、神学校(エール大学等)で学び1964年に米国聖公会(Episcopal Church)の聖職者となっている。
神父が「ジャズ・ピアニスト」であることをその教会が許すのかという疑問がわく。しかし、聖公会がキリスト教で「最もリベラルな教派」であり、「アフリカ、アジアにも進出しているが、信仰と制度が英国風に画一的ではなく、それぞれの国や民族固有の言語や文化を通じて表現される“多様性の中の一致”を特質とする(日本聖公会HPより)」と聞けば、この教派では神父さんがジャズを演奏していても問題がなかったのだろう。また、トム・ヴォーンもそういう教派だからこそ、聖公会の神父となったのだろう。しかし、音楽家でもあり聖職者でもあったことは、彼自身にとっては大きな問題であったらしく、そのことは後で述べたい。

神父となった同年、ジャズ・ピアニストとして大きなチャンスが彼に巡ってくる。ジーン・クルーパーのデトロイトでのグループで演奏していた時にニューポートジャズ祭の主催者である大プロモーター、ジョージ・ウエインに見いだされるのだ。ジョージ・ウエインは彼をニューヨークに連れて行き、有名なジャズクラブ、ヴレッジゲートで旧友のエルヴィンにベースにアート・デイヴィスを付けライブアルバムを吹き込み大手のRCAから発売する。そしてニューポートジャズ祭でマイルスのオープニングアクトを務めさせ大きな話題を呼ぶ。

今回紹介している「モーター・シティ・ソウル(Motor City Soul)」はRCAの3枚目のアルバムで、1967年の2月に地元デトロイトのベーカーズ・キーボート・ラウンジで吹き込まれたピアノトリオによるライブアルバムだ。 僕は「お前の知る最もリリカルなジャズ・ピアニストを3人あげろ」と聞かれれば、その一人にトム・ヴォーンをあげる。また「お前の知る最もソウルフルでファンキーなジャズ・ピアニストを3人あげろ」と聞かれても、やはりその一人にトム・ヴォーンをあげる。つまり彼はビル・エバンスとボビー・ティモンズの両方の要素をもったピアニストなのだ。いや、ここでこの2人の名前をだすと、時にビル・エバンス・スタイル、時にボビー・ティモンズ・スタイルをと、器用に色々なスタイルで弾くオリジナリティのないピアニストと誤解されるかもしれない。しかし、彼はリリカルさとソウルフルさが渾然一体となった独自のスタイルをもったピアニストなのだ。そして、わかりやすくて極めて大衆的な面を持つ一方、実に高踏的でマジカルな演奏もする。なによりもピアノを鳴らしきる力が凄い。

このLPでは一曲目の「ハウ・アバウト・ユー」から迫力のあるアップテンポの演奏を聴かすと思えば、2曲目のピーターソンの演奏でも有名な「ガール・トーク」では一転してリラックスしたリリカルな演奏をしている。次のホーギー・カーマイケル作のバラード「ニアネス・オブ・ユー」も実にいい。書き忘れたが、バックを務めるドン・ジョーダン(b)、デック・リオダン(ds)も無名ながら好サポートをしている。
4曲目が彼のオリジナルで表題曲の「モーター・シティ・ソウル」であるが、静かでそして不思議な感覚の疾走感にあふれた演奏だ。リオダンのブラシも素晴らしい。次の名作「テンダリー」も良く、続いて、大橋さんのコラムで紹介されたビリー・テイラーの「フィール・トゥ・ビー・フリー」が演奏される。わずか1分54秒の演奏ながら力強く実にソウルフルな演奏だ。
続けてマイルスの「ソー・ホワット」を演奏している。日本盤のライナーで佐藤秀樹さんは「ユーモアの味付けをした」「ユニーク」という表現をしているが、実際に受ける印象はかなり違う。極めて緊張感溢れ、奔放かつマジカルな演奏だ。マイルスの曲のカバーとして白眉といってよい。佐藤さんはバド・パウエルの研究家として知られ尊敬すべき素晴らしいジャズ評論家だが、アルバート・アイラーと同じ世代という彼の「新しい感覚」の部分は理解しにくかったのではないか。あと「いそしぎ」「イパネマの娘」を軽やかに弾き、最後にふさわしく「ザ・パーティ・イズ・オーヴァー」で終わる。

このレコードが吹き込まれてから半年後、1968年8月に暴動がデトロイトで起こる。43人が死亡し7,000人以上の逮捕者が出た当時のアメリカ最大の人種暴動である。このデトロイト暴動は大きな爪痕をデトロイトという街に残す。日本車の攻勢などでアメリカの自動車産業の衰退が明らかになるのは1980年代だが、暴動が起こった1968年以降デトロイトの街は衰退していく。
危険な街ということで、主だった自動車関連工場がデトロイト近郊に移り、住民も郊外に移り住むドーナツ化現象が起き、180万人いた人口が現在100万人を切ってしまっている。また暴動で焼かれ崩れた街並みは修復されることなく放置され、荒廃し全米最大の犯罪都市となってしまう。映画のロボコップの舞台となった街のモデルはデトロイトという。
言うまでもないことだが、デトロイトが荒廃した根本的な原因は暴動を起こした黒人達にあるのではない。暴動の原因となった差別と貧困を生み、さらに廃墟となったこの街を放置したアメリカそのものに問題があるのだ。

そして、トム・ヴォーンはデトロイト暴動と期を同じくしてジャズ・ピアニストとしての活動を実質やめてしまう。クラブやコンサート会場での表立った演奏を殆ど停止してしまうのだ。その理由は、聖職者として活動するには地元の教会活動を第一として、長期間のツアーはできないためという。アメリカにおいてはジャズであれ、ロックであれ、カントリーであれ、プロとしてやっていくためには必ず全国を廻り演奏していく。限られた地域で演奏しているのは殆どがアマチュアなのだ。

1968年にトム・ヴォーンはデトロイト近郊からカリフォルニアの教会に移り、時折、地元でジャズコンサートやクラブ、テレビに時折出演するくらいで、レコードはコンコードで1976年に1枚出したきりになってしまう。
しかし、RCAという当時のメジャーレーベルからレコードを出し、バックにはジョージ・ウエインという超大物がサポートするという恵まれた状態で、何故ジャズ・ピアニストをやめてしまったのか。確かに教会活動をするためツアーにはいけないからという理由はわかるが、「その奥にさらなる何か本当の理由があるのではないか」と長年僕は感じてきた。そして、本当の理由は、彼が当時の「ジャズシーンに馴染めなくなった、またはついていけなくなった」ためではないかとの予測に至った。

当時、1966年にフリージャズのアルバート・アイラーがRCAと並ぶ名門ABCのジャズ部門であるインパルスと契約、1967年7月にはコルトレーンが死亡、1968年にはマイルスがエイトビートとエレクトロニクスを導入した「MILES IN THE SKY」を発表と、ジャズにとって激動と混迷の時代だ。トム・ヴォーン自体は新しい感覚も持っているのだが基本的に「明るく」「楽しく」「喜びにあふれた」ジャズを演奏する人であり、当時の先鋭的なジャズシーンとは大きなずれを感じていたのではないだろうか。

しかし、それは間違っていたようだ。今回彼のことを調べていて、1991年のロサンジェルスタイムスの彼へのインタビューの一部を読み意表を突かれた。「何故、ツアーをする音楽家として富と名声を得ることよりも聖職者でいることを選んだのですか」という質問に対して彼はこう答えている。

「音楽以上に、最も霊的に深いレベルで私を突き動かし感動させるものはありません。(しかし)音楽は完璧に私を満足させたことは今まで一度もないのです。音楽は、純粋な贈り物として私に届けられたものなのです。おそらく、音楽はあまりにも容易に私のところに来てしまったのでしょう。
(一方)私が聖職者であるためには激しく働き学び続けなければなりません。私は心の求めることに応じなければと感じました。トム・ヴォーン(という男は)音楽的な名声は欲しくないのです。そのことに関して大きな葛藤は一度も感じたことがありません。」
(Nothing can move me at the deepest spiritual level like music can, (but) music was never completely satisfying. Music was something that came to me as a pure gift. Maybe it came too easily. The clergy came to me through hard work and learning. I felt called to the inquiries of the mind. Tom Vaughn didn't want musical notoriety. I've never made much of a fuss over it myself )

訳を読んでもらえばわかるように、僕は英語が得意ではない。最初英文を読んだとき、何を言いたいのか全くわからなかった。特に「music was never completely satisfying」というセンテンスは最初「私のピアノは未熟で、今まで一度も満足できる演奏ができたことはない」という意味かと最初は思った。しかしその後の発言を読むとそうではない。「私はほんの子供の頃から、なんの努力や辛い練習をしなくても、ピアノを自由自在に弾きこなせた。それは神からの与えられたもので自分から得たものではない。だからピアノを演奏しても本当の意味で満足が得られたことがない」と言っているのだ。それに対して「聖職者であることはなんと辛い仕事と苦労して学ばなければならないことか。しかしそれは自分の心の欲求によりしていることで、与えられたことではなく自分が努力して得たものなのだ」と。さらに「私は音楽的な名声は欲しくない」と言っているが、「notoriety」とう言葉は名声でも「あくどい事をして得たもの」というニュアンスがあるらしい。だから「私はプロとしての音楽家ではなく、神父としての道を選ぶことが私の心の求めるものだ」と。

たぶんそのようなことが言いたいのだ。それがわかった時、「あんたはアホか……」と思うと同時に感動してしまった。もし仮に彼がプロの音楽家を選んだとしても、実際に富と名声を得られたかどうかはわからない。しかし、彼が二つの入り口の前に立った時に、富と名声をそれも努力なしに得られる可能性の大きい入り口ではなく、貧しく無名でしかも労の多いことが決まっている入り口に迷わず入っていったことが重要なのだ。聖書に記されているではないか「狭き門より入れ」と。

1967年までのわずか数年間、デトロイトという街の最後の黄金時代とともにジャズの表舞台を駆け抜けていったピアニストがいたことを覚えていてほしい。

(追記)今回、トム・ヴォーン神父が、今年の3月4日に亡くなられたことを知りました。遅ればせながらご冥福をお祈りします。エーメン。





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