書海放浪記
書物迷宮
平田憲彦
新訳の『老人と海』
僕は2006年10月11日に、次の様なテキストを書いている。
〜『老人と海』と『The Old Man and The Sea』 〜
早いもので、もう8年経ったというわけだ。
この中で僕は、日本語訳の中で気になった箇所の原文を探ることをきっかけに、改めて『老人と海』という小説作品の素晴らしさを再認識した。また、日本語訳というものの味わいやテクニック、方法論なども含め、小説作品の外国語文章を日本語にすることがいかに大変なことなのかを実感することになった。
僕も仕事で英語の訳をするが、外国からのビジネスメールを訳すことが中心だ。そういう仕事の訳はあくまでも『正確であること』が最優先される。ところが小説作品は、正確であるというだけの訳ではいけない。作品の背景や作者のねらいなど、『意味以外の要素』を取り入れて日本語にしなければならない。
原文にはない単語をあえて入れることもあるし、原文にはあるが訳さない単語も出てくる。なにより、英語の英語的表現をそのまま日本語に置き換えることは出来ない。そのまま置き換えると奇妙な日本語になるからだ。
そしてさらに重要なことは、『正しく訳す』部分はそうしなければならない、ということだ。それはビジネスで訳すときの『正しさ』と変わらない。略したり意訳したりしてはならない部分、というのが小説作品などにも存在する。
※
先日、その『老人と海』の新訳が出た。
久しぶりの新訳だと思う。小川高義さんという訳者の仕事だ。
いろんな訳が共存することは、とても素晴らしいことだと思う。とりわけ、好きな作品であればなおさらだ。
当然のことながら、小説はオリジナルの原文で読むのが一番良い。『老人と海』はそれほど長いわけではないので、落ちついて向き合えば、そして時折辞書を引く手間を厭わなければ、楽しみながら原文を読める英語の小説だ。だから、やはり原文で読んでほしい。
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上記の2006年10月に僕がコラムに書いたこととして、『老人と海』の有名な冒頭のテキストがある。
ヘミングウェイのオリジナル文章は、スピード感だけではなく、主人公の背景まで一気に読者に分からせてしまう素晴らしい文章だ。それを、新潮文庫の福田恆存訳では、おそらくこれ以上の日本語訳はないのではないか、と思わせる素晴らしさがあった。
この小川高義訳ではどうなっているだろう。
この冒頭の訳が、おそらく小川高義さんによる新訳の本質を現している。小川さんがどういう意図で『老人と海』を訳し直そうとしたのかが、感じられるだろう。
訳者の小川さんは、解説やあとがきでも多くを割いて翻訳意図を書いているが、小川さんは主人公のサンチャゴを、感情面ではなく行動面で描こうとしたのではないか、と思える。それはそれでリアリズムとして日本語化出来るだろうし、ヘミングウェイのリアリズムを日本語で表現する格好の機会にもなったかもしれない。
全体的に読みやすいし、流れもスムーズだ。品位と格式があり、詩的でもある福田さんの訳に比べ、とても平易な日本語になっている。かといって品位が下がっているというわけではなく、強いて言えば大衆小説のニュアンスが強く出ているように思う。
福田さんの訳は純文学のニュアンスがある、という意味で。
※
ひとつだけ、これは書いておかねばならない、と思ってしまった事がある。
『老人と海』の新訳は立派な仕事だと思うが、次の部分は校正できなかったのだろうか。
まさに、その有名な冒頭部分だ。
●ヘミングウェイの原文
He was an old man who fished alone in a skiff in the Gulf Stream and he had gone eighty-four days now without taking a fish.
●福田訳
かれは年をとっていた。メキシコ湾流に小舟を浮かべ、ひとりで魚をとって日をおくっていたが、一匹も釣れない日が八十四日もつづいた。
●小川訳
老人は一人で小舟に乗ってメキシコ湾流へ漁に出る。このところ八十四日間、一匹も釣れていなかった。
原文のニュアンスを一切失うことなく、日本語表現として文学的に昇華させているのがどちらの訳か、残念ながらあえて説明するまでもないが、そういった『日本語訳のクオリティ』以上に、大きな問題が、この小川訳にはある。
小川訳には、老人が『男性』であるという描写が無いのである。
原文では、冒頭からいきなり『He was an old man』ではじまっているので、老人は男性であることをなによりもまず、最初に宣言している。まさに、ヘミングウェイここにあり、といった導入部だ。最初の単語から、この物語は男の物語であることを読者に印象づけようとしている。
福田訳は、それをそのまま日本語に置き換えている。『かれは年をとっていた。』と訳し、ヘミングウェイの冒頭宣言をそのまま日本語にして、原文が持つ『男の物語』という主張を、一語目からストレートに日本人読者に伝えている。
しかし、小川訳は、『老人は』から始まってしまい、『男性』という存在を描写していない。つまり、この老人が男性なのか女性なのか、読者にはわからない。そして困ったことに、小川訳では、老人の性別を不明にしたまま何頁も物語は続いて行ってしまうのだ。
またもうひとつ、この冒頭の一文にはとても重要な意味がある。
『He was an old man』という文は単なる冒頭の文ではなく『He』と宣言された人物が、実は『old man』だったと表現しているので、そこには『成長』という深い時間軸を表現できているのである。通常、『He』とだけ書かれたのでは年齢不詳だ。それを直後に『old man』と書くことで、一瞬で男の存在感と、彼が重ねた年輪を読者に伝えることが出来る。
同じ事が福田さんの日本語訳にも言える。『かれ』が直後に『年をとっていた』と宣言されることで表現される時間感覚は、とても重要だ。
冒頭の訳で『男性を宣言していない』ということ、『男の成長を表現できていないこと』。これが、この新訳『老人と海』を曖昧でぼんやりとした日本語訳作品にしてしまった。
小川さんは、どういう意図でそう訳したのかサッパリわからないし、僕は理解に苦しむが、もしかしたら『老人と海』の老人とは男性である、と先入観や思い込みが入ってしまったのかもしれない。
ヘミングウェイのリアリズムはそういった思い込みや先入観を廃すストイックさが魅力の文学だ。皮肉なことに、小川訳はヘミングウェイの作品をヘミングウェイらしくない文章でスタートさせてしまっている。
※
そうはいっても、新訳を出すという仕事は大きな意味があり、立派なことだと僕は思う。それは賞賛したいし、やりきった仕事に敬意を表す気持ちである。ただ、可能であれば、第2版では校正をやり直して、さらに翻訳のクオリティを高めていってほしいと思うのだが、どうだろうか。そういった『バージョンアップ』していくことは、なんらおかしな事じゃないと僕は思う。
それにしても、この新訳を読んで、改めて翻訳の難しさやおもしろさを実感した。またそれ以上に、ヘミングウェイの文章がいかに凄いか、ということも。
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