書海放浪記
書物迷宮
平田憲彦
『老人と海』と『The Old Man and The Sea』
ヘミングウェイの『老人と海』がとても好きで、何度も読んでいるし、何冊も持っている。むろん、今は文庫本で安く買えるので、何冊も持つことは誰にだってできる。家に一冊、出張用の鞄に一冊、オフィスに一冊、という具合である。
かつて世界をひとり旅したときも『老人と海』はずっと持ち歩いていて、思いつくままによく読んでいた。
本というものは、音楽もそうだが、それを体験するときによって違った印象を受ける。10年前に読んだときと、今読むときとでは全然違った体験となることが往々にしてある。
先日また『老人と海』を読んでいて、不意に気になった一言があった。
「おとっつぁんだよ、いけないっていったのは。ぼくは子供だ。いうことをきかなくちゃならないんだ」
“おとっつぁん”・・・・・?。
こんな台詞を、この少年は言っていたのか? え? どうだったっけ?
そう思いながら、やはり気になる。時代劇ではあるまい、“おとっつぁん”はないだろう。
僕が何冊も持っている『老人と海』は、新潮文庫版で福田恆存訳となっている。
これは名訳といわれていて、それについては僕も異存はないが、しかし“おとっつぁん”である。
これは、やっぱりどこか居心地が悪い。
じゃあ、原文はどうなているんだろうと気になった。
実をいうと、僕は原著も持っている。『SCRIBNER』から出ているハードカバーだ。この本を見つけたときは喜んだ。僕はどうしても、『老人と海』をハードカバーで持っていたかったからだ。一生もの、というありがたみがあるような気がする。気のせいかもしれないが。それに、この『SCRIBNER』版はうれしいではないか。スクリブナーと聞いてドキっとしないヘミングウェイ好きはいないと思う。
さて、問題の“おとっつぁん”だが、原文ではこうなっていた。
"It was papa made me leave. I am a boy and I must obey him."
なるほど、“パパ”か。
この日本語訳の初版は、文庫本でみると昭和41年、とある。そう考えるとしょうがないのかもしれない。しかし、昭和41年は西暦1966年である。ビートルズが来日した年だ。今年は2006年だから、もう40年もたっている。
そろそろ“おとっつぁん”から“パパ”に、あるいは単に“父さん”に変えてもいいような気もするが、まあ、訳者も亡くなっているし、諸般の事情でそうもいかないだろう。
さて、せっかく原著を開いたので、この名作の導入部分を見てみたい。
ここで、この翻訳家の天才ぶりが発揮されているのがよくわかる。
原文は、こうなっている。
He was an old man who fished alone in a skiff in the Gulf Stream
and he had gone eighty-four days now without taking a fish.
これを、訳者はこのように仕上げている。
かれは年をとっていた。メキシコ湾流に小舟を浮かべ、ひとりで魚をとって日をおくっていたが、一匹も釣れない日が八十四日もつづいた。
すごい。
これは本当にすごい訳だと思う。
ヘミングウェイの原文は、今更いうまでもないがとんでもなくすばらしい。一気にたたみかけるように切れ目なく突っ走る一文は、この一行で主人公の背景をあぶり出してしまっている。
そこへこの日本語訳である。切れ目のない原文に対し、いったんはじめに切ってインパクトを持たせて、あとは一気に主人公が何と戦っているかを伝えている。
その、はじめにいったん切っている部分。ここがすごい。
原文は
He was an old man who fished ....
という風に、切れないでつながっている。しかし、この翻訳家はここを切ってしまった。
かれは年をとっていた。
こうやってのけた。
これはもう、翻訳という仕事を超えて、表現の域に達しているといっていいと思う。不思議なことに、僕は原文もこうなっているものだと思いこんでいた。
『He was an old man.』
という風に、ここで切れていると思っていた。
しかし、違っていた。
この巻頭部分、当然だが、文法的にも正しくて、しかも、日本語のリズムを持たせながら原文のストイックな空気を損なわずに表現できている。
『老人と海』の巻頭部分、この訳を超える日本語を書くことは不可能じゃないかと思えてくる。
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