書海放浪記
書物迷宮
平田憲彦
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The Complete Works of Marcel Duchamp
Marcel Duchamp
Delano Greenidge Editons(1997年)
別にデュシャンだけがアートから思考を際だたせているというわけではない。ピカソもキュビズムで空間表現において強力な思考を導入したし、マチスの色彩も感性のみで表現されたわけではなく、ロジカルなフォルムへの探求があったのはもちろんだ。しかし、なぜアートと思考という風に考えたとき、デュシャンの名が真っ先に思い起こされることになるのか。ここに紹介しておいてなんだが、この恐ろしく大きくて分厚く重たい書物だけでは、そのわけがわかるというものではない。それは当然といえば当然だが、これはアンソロジーなのである。
表題にもあるとおり、『The Complete Works of Marcel Duchamp』ということ。“The Complete”といってもそれはあくまでレトリックなので、“デュシャンのほとんどの作品を世界中から可能な限りかき集めてきて一冊の書物に封じ込めたアンソロジー”ということである。早い話、デュシャン・ファン待望の一冊、それこそ喉から手が出るほど欲しくなる書物ということだ。
ここに紹介するのは3版で、最も有名なのが2版である。しかし、2版は絶版になって長らく貴書扱いされ、洋書屋では鍵のかかったガラスケースの中で“うん十万”などというとんでもない価格を付けられて、書物かオブジェかわからないような扱いを受けてきていた。多くの美術大学の図書館にはまず間違いなく蔵書になっているはずなので見ることは可能だったと思うが、個人で所有することなどは難しいことだったのである。だからこそ、この3版がどれほど世界中から待たれていたかが容易に想像できる。
かくいう私もその一人で、3版編集中という情報のみが一人歩きししていた。そんなわけなので、3版リリースというニュースは世界を駆けめぐったし、あっと言う間に売り切れたのである。
ハードカバー2冊組、ケース入りという豪華きわまりない仕様でなかったとしても、この価格は決して高くはないだろう。最新情報にリファインされ、カラーページが増え、またさらに、掲載点数も大幅に増加している。よっぽどのマニアでなければ、いまさらあの伝説的な2版を欲しがる人はいないだろう。
さて、デュシャンはコンセプチャル・アートの始祖だの、現代美術の創始者などといわれることもしばしばで、多くのデュシャン論がリリースされているが、デュシャンは論じるものではない。順序としては逆になるのだろうが、この全作品を見て、また、デュシャンのインタビューを読み、そしてフィラデルフィア美術館に行く。それだけでいいのである。
フィラデルフィア美術館にはデュシャンの部屋があり、多くのタブロー、レディーメイド、そして大ガラス、遺作が実際に目に前にあり、デュシャン体験ができる。そうすれば、“思考”を体感できるはずである。
デュシャンはこう言っている。
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『芸術作品は、そのものとして認められるためには見られなければならないのです。ですから、見る人、観客は、芸術現象では芸術家に劣らず重要なのです。』
(『デュシャンとの対話』ジョルジュ・シャルボニエ みすず書房)
『私は、作品を見るものにも、作品を作るものと同じだけの重要性を与えるのです。』
(『デュシャンの世界』ピエール・カバンヌ 朝日出版社)
『芸術作品には、数値上の価値あるいは精神上の価値さえもありません。いかなる価値もありません。芸術作品とは、ただその現前によって課されるあるものなのです。』
(『デュシャンとの対話』ジョルジュ・シャルボニエ みすず書房)
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絶対に“一度にたった一人しか見ることの出来ない”遺作や、現実の風景、空間、自分と自分以外の閲覧者までもが作品の一部と化す大ガラスなどが目の前にあれば、デュシャンが残していった一見難解かつ不可解に思えたりすることがそんなに難しいことではないということを、たちどころに感じることが出来るはずである。
複製物もオリジナル作品と見なして喜んだデュシャンは、こんな分厚いアンソロジーが出来るなどと考えてはいなかったろうが、しかし、この書物もまたデュシャンを喜ばせたのではないだろうか。自分の生み出したものを、可能な限りを尽くし雑多にもかき集めた、このあまりにもバカバカしいくらいに大袈裟な、この書物もまた。
現実にデュシャン体験をしていない人にとっては、フィラデルフィアに行くことを夢想させ、体験した人にとってはまたフィラデルフィアに行きたくなる、この全作品集は、そんな誘惑に満ちた書物でもある。
なぜなら、この作品集は“The Complete”だからだ。“完全版”の作品集が“完全”であるためには、どうしても“あなたの視点”が必要なのだから。
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