書海放浪記
書物迷宮
平田憲彦
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駆込み訴え
太宰 治
『中央公論』昭和15年2月号発表
太宰を読むということ。それは“小説を読む”というよりは太宰が生み出した空間に身を沈めるとでもいえる相当にディープな体験であり、ある意味でかなり性体験に似ている。
そんな太宰体験を、たとえば何から始めるべきか。あえておすすめするとすれば『人間失格』“以外から”読むことである。
それ以外。
『人間失格』は太宰の代表作であり、すばらしい作品であるには違いないが、ここから読まない方がいい。変に通ぶっているわけではなく、また奇をてらったポーズでもない。
『人間失格』は太宰のもっとも“おいしい”部分を隠蔽してしまうくらいの激しさに満ちているからである。
完成するまでにそのプロトタイプとも言える短編がいくつかあり、その短編で放つ瞬間の輝きを集約させた強い意志の賜物が『人間失格』となって現れているが、いわば太宰のフルコースでもあり、ベスト版的な凝縮された魂が深く重く横たわっている。
喜びや安らぎや悲しみといったものがすべて昇華され、完全に透明になった魂の告白には、太宰のよそ見をするようなゆとりが消え去ってしまっている。そして読後、自分の正体を見てしまったかのような放心状態が後に残される。
では、太宰の“おいしい”部分とはいったい何か。それは、いうまでもなくユーモアと切ない詩情、そして躍動感ある文体である。
詩情あふれる太宰の作品にみなぎる躍動感ある文体は切ないおかしさに満ちているが、『人間失格』では息詰まる悲しみとなって重くのしかかってくる。
もちろん、傑作でありすばらしい作品ではあるが、ここから読んでしまうと、太宰の作品はすべてこのような印象であると思いかねない。これは、全く惜しいのである。
そんなわけで、おすすめするのが『駆込み訴え』である。新潮文庫の短編集『走れメロス』に納められている。この短編集の編集者はその辺をかなり意識していると見えて、『走れメロス』のひとつ前に『駆込み訴え』を配置している。これは見事な編集である。この順序で読むと太宰の世界が大きく広がることは間違いないからだ。
『駆込み訴え』は太宰の短編の中でもひときわ評価が高く、その着想、表現、文体、いずれをとっても傑作と言うほかない。これこそ、“私小説”からもっとも離れた自己表現であり、創造的作品としての小説である。
キリスト教をモチーフに、ユダの独白体を使って人の悲しみと暗部、エゴイズムを容赦なく切り取り、鋭く突き刺さるユーモアと弾力性のある文体で一気に読まされるこのスピード感。太宰治とは、このような魅力を放つ作品を多く発表してきた小説家なのである。
『駆込み訴え』は日本のキリスト教文学の中でも最高傑作といわれているだけでなく、読者がキリスト教徒であろうがなかろうが、小説としても抜群におもしろい。そして読むことで深い感動を覚えることは間違いない。その感動とは、おそらく今まで味わったことのない感動のひとつとなるはずの、体験である。
太宰には自殺や不倫、挫折といった自堕落なイメージが張り付いているが、そんなものは忘れ去った方がいい。この文庫本にも、おきまりのあの物憂げな太宰の写真が掲載されているが、太宰をこのように特定のイメージに固着させるのはそろそろやめるべきである。
太宰は、我々誰もが持っているえげつないおかしさについて自覚的であったにすぎず、それはわれわれが今もって隠そうとつとめていて情けないほどに自己保身しているなにものかを自ら暴く大胆さを繊細に表現していた、すぐれた表現者であったにすぎない。
『駆込み訴え』とともに、同じく収録されている『女生徒』を読めば、それがさらにはっきりするだろう。
こんな天才の作品を読めるわれわれは、まったく幸せというほかない。
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