書海放浪記
書物迷宮
平田憲彦
小林秀雄、またはレトリックのコラージュ
2013年の大学入試センター試験、国語の問題に小林秀雄が出題されたことに大きな動揺が走ったという。
これはもう、平均点を下げさせるためだけに小林秀雄を出したのではないか、と私は思っている。今年のセンター試験はそういう傾向が他の教科でも見受けられたそうだ。
日経の春秋では、このように表現されていた。
小林秀雄は入試に出すな。丸谷才一さんが、かつて国語論「桜もさよならも日本語」のなかで訴えていた。いわく「彼の文章は飛躍が多く、語の指し示す概念は曖昧で、論理の進行はしばしば乱れがちである。それは入試問題の出典となるには最も不適当なものだらう」。
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私が小林秀雄を好きになったのは30歳を超えてからである。実に読みにくい文章で、初めて『無常という事』を読んだ高校生の時はサッパリ理解できなかった。
味のある文章、という風に言われているが、ジャズ的に言えばセロニアス・モンクみたいな、上手いのかヘタなのか分からないピアノと似ているのかもしれない。
私が大好きな『モオツァルト』、冒頭を以下に引用してみる。
エッケルマンによれば、ゲエテは、モオツァルトに就いて一風変った考え方をしていたそうである。如何にも美しく、親しみ易く、誰でも真似したがるが、一人として成功しなかった。幾時か誰かが成功するかも知れぬという様な事さえ考えられぬ。元来がそういう仕組に出来上っている音楽だからだ。はっきり言って了えば、人間どもをからかう為に、悪魔が発明した音楽だと言うのである。ゲエテは決して冗談を言う積りではなかった。その証拠には、こういう考え方は、青年時代には出来ぬものだ、と断っている。(エッケルマン、「ゲエテとの対話」——一八二九年)
ここで、美しいモオツァルトの音楽を聞く毎に、悪魔の罠を感じて、心乱れた異様な老人を想像してみるのは悪くあるまい。この意見は全く音楽美学という様なものではないのだから。それに、「ファウスト」の第二部を苦吟していたこの八十歳の大自意識家が、どんな悩みを、人知れず抱いていたか知れたものではあるまい。
これ、正直言って読みにくい。しかしクセと味があって、誰にでも書ける文章ではない。
自分の意見と、比喩と、引用と、そして省略とが渾然一体となっている。まるでコラージュのように。
つまり、高度なレトリックが駆使された文章である。
このテキストを参考に、小林秀雄の読みにくさと、それが彼独自の個性となった文章表現になっているということを解読してみる。
以下は、『モオツァルト』で使われた比喩と省略というレトリックを()で再現したものである。
(ドイツの文豪ゲーテの晩年の秘書として有名な)エッケルマンによれば、ゲエテは、モオツァルトに就いて一風変った考え方をしていたそうである。
(それは、『モオツァルトの音楽は)如何にも美しく、親しみ易く、誰でも真似したがる(特徴がある)が、(誰)一人として成功しなかった。幾時か誰かが成功するかも知れぬという様な事さえ(私には)考えられぬ。元来がそういう仕組に出来上っている音楽だからだ。はっきり言って了えば、人間どもをからかう為に、悪魔が発明した音楽(のようなもの)だ(』)と言うのである。ゲエテは決して冗談を言う積りではなかった(だろう)。その証拠には、(『)こういう考え方は(この歳になってこそ出来ることで)、青年時代には出来ぬものだ(』)、と断っている(からだ)。(エッケルマン、「ゲエテとの対話」——一八二九年)
ここで(思うのは)、(我々が)美しいモオツァルトの音楽を聞く毎に、悪魔の罠を感じて、心乱れた異様な老人(のようなゲーテ)を想像してみるのは悪くあるまい(、ということだ)。この(ゲーテの)意見は全く音楽美学という様なものではないのだから。それに、「ファウスト」の第二部を苦吟していたこの八十歳の大自意識家(であるゲーテ)が、どんな悩みを、人知れず抱いていたか(、誰にも)知れたものではあるまい。
こうやって補足すると、元の文章408文字に対して518文字になってしまう。つまり20%もレトリックを使っているのである。
()を取って改行を追加し、読みやすくしたものが以下である。
ドイツの文豪ゲーテの晩年の秘書として有名なエッケルマンによれば、ゲエテは、モオツァルトに就いて一風変った考え方をしていたそうである。
それは、『モオツァルトの音楽は如何にも美しく、親しみ易く、誰でも真似したがる特徴があるが、誰一人として成功しなかった。幾時か誰かが成功するかも知れぬという様な事さえ私には考えられぬ。元来がそういう仕組に出来上っている音楽だからだ。はっきり言って了えば、人間どもをからかう為に、悪魔が発明した音楽のようなものだ』と言うのである。
ゲエテは決して冗談を言う積りではなかっただろう。その証拠には、『こういう考え方はこの歳になってこそ出来ることで、青年時代には出来ぬものだ』、と断っているからだ。(エッケルマン、「ゲエテとの対話」——一八二九年)
ここで思うのは、我々が美しいモオツァルトの音楽を聞く毎に、悪魔の罠を感じて、心乱れた異様な老人のようなゲーテを想像してみるのは悪くあるまい、ということだ。このゲーテの意見は全く音楽美学という様なものではないのだから。それに、「ファウスト」の第二部を苦吟していたこの八十歳の大自意識家であるゲーテが、どんな悩みを、人知れず抱いていたか、誰にも知れたものではあるまい。
ここまで補足すると、とても読みやすい。小林秀雄が何を言いたかったのかよくわかる。高校生、いや、中学生でも理解できるだろう。しかし、こんなに平易にしてしまうと文章の勢いや個性がなくなってしまうのだ。リズムも味わいも消えて、まるで作文のように陳腐化する。
小林秀雄のレトリックがどのような効果を生み出しているのかが、これでわかる。比喩や省略を多用することで文章にストイックな立体感を与え、意志の強さも感じさせることが出来る。読みにくくなるが、それがかえって抽象性が増して芸術的な個性を表出させている。
平易すぎる文章は味がないのだ。そうは言っても、読み手の意識が散逸してしまうようでは、レトリックが本来の目的通りに機能しているとは言い難く、小林秀雄のレトリックはかなりクセのあるレトリックであると言える。
一般的に批評家と言われる人たちのレトリックはそういう傾向があると私は思っているが。
これを読みこなして、さらに味わえる高校生がいたら、それは大したもの。文芸オタクじゃなければ無理だろう。
※
冒頭で引用したが、丸谷才一が言う『彼の文章は飛躍が多く、語の指し示す概念は曖昧で、論理の進行はしばしば乱れがちである』ということについて、私は単にレトリックを駆使しすぎて読みにくくなってしまっただけと感じている。
小林秀雄の文章は、確信的で論理的であると私は思う。
文章を読みやすくするためにレトリックはあるのだが、使い方によっては逆に読みにくくなるという典型が、小林秀雄なのだ。
モンクを楽しめる高校生はいるだろうが、小林秀雄を楽しめる高校生はたぶん皆無。それが、文学の現実なのかもしれない。詩を読む人も少数派という現状であるし。
批評文というものはこういう難しさが魅力で、だからこそ読みこなす楽しみもあるが、ポピュラーにはなりにくい。
それでも、これほど読みにくいとの悪評がたっている小林秀雄だが、親友である中原中也について書かれたテキストはかなり読みやすく、中でも追悼文は胸を打つ。小林秀雄への見方が一変すると思うので、未読の人は是非読んでみてほしい。
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