書海放浪記
書物迷宮
平田憲彦
※
唄えば天国ジャズソング
色川武大
ミュージックマガジン(1987年)
岩手県、一関市。この場所はベイシーがあることで日本中のジャズファンはよく知っている。ベイシーとはジャズ喫茶である。もちろん夜はアルコールも出るがあくまでもジャズ喫茶だ。なぜベイシーだけが、これほど知られているのか。それは、ここには“音”があるからである。もちろん、音はスピーカーからもヘッドフォンからも出てくるので、そこらじゅうに音はあると思いがちだが、それは案外音に聞こえて音ではない。
スピーカーから聞こえてくるトランペットの音、それは本当に“トランペットの音”なのか、ということだ。それはおそらく、“トランペットの音”ではなく、“スピーカーから聞こえてくるトランペットの音”であって、“トランペットの音”では断じてない。しかしベイシーには、その“音”が確かにあり、その“音”を聴くことが出来るのである。
席に着く。頼んだコーヒーがくるまでもなく、すでにジャズが流れている。目を閉じる。あろうことか、目の前でマイルス・デイビスがトランペットを吹いているじゃないか!
そういうことだ。ついでに言っておくと、私はビリー・ホリデーの“歌を聴いた”。ベイシーで、確かに。
ベイシーに設置されているサウンドシステムが高度きわまる代物だからだといってしまう輩もいるだろうが、それは正しくない。あくまで、ベイシーが生み出した音が鳴っているのである。
そのベイシーがある一関市に移り住んだのが、色川武大である。ベイシーがあったからだ。人生の最後の時間を一関で過ごしたという。さぞ幸福な時間だったのではなかろうかと想像するが、色川武大の小粋でほほえましいジャズエッセイがたっぷりと詰まったこの一冊で、行間に鳴っているジャズを思う存分楽しめることは、我々にとっても幸せなことと言わねばなるまい。
ここで話題にされているジャズは、あくまでも色川武大の好きなジャズであり、ジャズのガイドでもなければ論考でもない。小話のような随筆であり、だからこそ、愛情にあふれ読んでいて気分が楽になっていくのである。サッチモやボードヴィル、小唄、そんなジャズが軽やかに、思い出とともに語られてゆく。
かような個人的と言うほかないジャズについての小話ではあるが、ジャズとはこんなにいいものなのかと、あらためて気づかせてくれるだけではなく、読み進むうちにジャズの小唄を聴いている錯覚に陥ることは間違いない。それは色川武大のリズミカルな文体がそうさせているのだろうが、それにもまして、やはりどうしようもないくらいにジャズが好きというその心が、文章をスウィングさせているのである。
表紙をはじめ、各エッセイに挟まれている和田誠のイラストもすばらしい出来映えである。これは和田誠の独壇場ともいうべきタッチで、線のみで軽快にジャズを表現するこの才能は、やはりただごとではない。
ジャズを聴かずしてスウィングできるジャズの書物は、ジャズマンの伝記やジャズの論文、小説ではなく、この『唄えば天国ジャズソング』であることを、強く勧めたい。
※余録※
もちろん、著者は『麻雀放浪記』でもよく知られているが、やはりジャズといえばこちらの筆名であろう。元々この書物は『レコードコレクターズ』というマイナーな雑誌に連載されており、そこからの単行本化である。シングルレコードを連発してからアルバムを出すみたいな感じ。
したがって、版元はミュージックマガジン社である。ともかくこの書物はその全てが素晴らしい。
装幀も最高で、こんなデザインはなかなかお目にかかれない。本文の良さも言うまでもないが、製本もしっかりしており、紙質も大変よく考えられ、とてもめくりやすい。
挿入されているイラストのタイミングも絶妙で、まったく文句の付けようがない。
※敬称略
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