書海放浪記
書物迷宮
平田憲彦
マット・スカダーとデイヴ・ヴァン・ロンク
初めて読んだマット・スカダーは『八百万の死にざま』だった。おそらく、もっとも多くの人が読む順番で、私もマット・スカダー体験が始まった。
むろん、『八百万の死にざま』は大傑作だし、その前の『暗闇でひと突き』も名作だ。他の作品も当然のこと素晴らしいが、マット・スカダー・シリーズはミステリーという枠組みを大きく越えて、文学作品として傑作シリーズだと思う。
そんな中で、私が心底しびれたのは、『聖なる酒場の挽歌』である。物語が重層的に絡み合いながら、さまざまな人生が描かれている。
その小説で、私は初めてデイヴ・ヴァン・ロンクという名前を知った。作中で、マットが友人の部屋で聴かせてもらう素晴らしい楽曲として、このデイヴ・ヴァン・ロンクが歌った唄が紹介されている。
私は始め、デイヴ・ヴァン・ロンクはこの小説の中だけで描かれているシンガーで、実在しないと思っていた。それほど、物語にとけ込んで、リアルに感じられた。しかし、その後なにかの拍子に、デイヴ・ヴァン・ロンクが実在するシンガーであるということを知った。
なんとも間抜けな話だが、そんないきさつで、私はデイヴ・ヴァン・ロンクと出会ったのである。
しかし、彼のアルバムはなかなか見つからなかった。いわゆる伝説のシンガーのような存在らしく、タワーレコードにもヴァージンメガストアにも、彼のレコードは置いていなかった。
何でもいいから聴きたかったが、まったく手がかりがなかった。
私は、しばらくしてデイヴ・ヴァン・ロンクのことをすっかり忘れた。
2005年、ボブ・ディランの自伝が出て、才能あふれる魅力的な先輩フォークシンガーとして、デイヴ・ヴァン・ロンクは紹介されていた。いわゆる“リスペクト”されているといってもいいくらい、圧倒的な賛辞で彼の存在感が語られていたのである。
私は再び、デイヴ・ヴァン・ロンクを思いだし、同時に『聖なる酒場の挽歌』を読み直した。やはり、出てきている。マット・スカダーがデイヴ・ヴァン・ロンクの歌を聴いて、聞き惚れて、感動している様子が生き生きと描かれている。『ラストコール』という楽曲。それが繰り返し流れていた。『聖なる酒場の挽歌』という表題は、この『ラストコール』の歌詞がヒントになっている。
私はどうしても聴きたくなってアマゾンを検索した。あるにはあったが、アメリカのアマゾンで、相当いい値段が付いていた。すでに廃盤になっているようで、プレミアが付いている。『Going Back to Brooklyn』というアルバムに、『ラストコール』は収録されていた。
結局買わなかったが、2006年にリリースされたディランのDVD『ノー・レィレクション・ホーム』で、ようやく動くデイヴ・ヴァン・ロンクを見ることができた。渋い。これはイイ声をしている。歌っているシーンは無かったが、その声には惚れ惚れした。
こうやって、聴きたいと思い続けていると、いつか向こうからやってきてくれる。そんなこともある。
先週、たまたまアマゾンで検索したら、なんと、『Going Back to Brooklyn』のCDが再発されているじゃないか。
アルバムは、ブルースとバラッドがアイリッシュフィーリングの中でブレンドされた、魅力的なサウンドだった。弾き方り、ギター一本のインスト、ボーカルのみのアカペラ、それらが見事に調和して、優しいフォークソングを聴かせてくれる。やっぱり、声が本当に素晴らしい。
こうやって聴いていると、不思議な気分だ。
マット・スカダーが物語中で聴いていた曲を、自分が今実際に聴いている。
『ラストコール』は、アイリッシュミュージックにも聞こえるアカペラであった。この曲を聴いていた頃のマット・スカダーは、まだ飲んでいた。コーヒーにバーボンを垂らして。
Copyright © 2003- Banshodo, Hirata Graphics Ltd. All Rights Reserved.