音楽書庫
音楽コラム
平田憲彦
尾崎豊と21歳の息子
『92年に26歳で急死したシンガー・ソングライター尾崎豊さんさんの長男の尾崎裕哉(ひろや=21)が芸能界に本格デビューすることが29日、分かった。』〜朝日新聞2010年9月30日〜
尾崎豊さんが亡くなったとき、息子は2歳だったということだ。そして5歳の時から母親(つまり尾崎さんの妻)と米国へ移住した。そのニュースは僕もどこかで読んだ気がする。
僕が尾崎豊さん死去のニュースを知ったのは、ロンドンだった。彼が亡くなった日は1992年4月25日。僕はその前の3月から日本を出て、世界を一人旅していた。アムステルダムを経由してギリシャに入り、そしてエジプトのカイロに滞在。アテネやアムスにしばらくいたあと、4月半ばには英国にいた。英国ではロンドンとリヴァプールを旅したが、22日からロンドンに滞在していた。
僕は、旅先で時々日本に手紙を書いたり電話をしたりと、継続してコンタクトをとっていた。当時はインターネットはなく、携帯電話もない。日本の知人へ知らせる自分が生きている証は、手紙と電話だけだった。
その4月25日、ロンドンの公衆電話から何気なく実家に電話をしたのだ。
かけたら、おふくろが出た。出るなり、妹が結婚することを聞かされた。ああそうか、結婚か。で、誰と?
そんな話を少しして、コインも底をつきそうになった頃、不意に言われた。
『今日、尾崎豊が死んだらしい』と。酔っぱらって道ばたでのたれ死んだような死に方だったようだ、と。
僕は、尾崎豊さんの音楽はほとんど聴いたことがなかった。しかし、『ロッキング・オン』は好きだったのでよく読んでいたから、名前と、どういう音楽をやっているのか程度は知っていた。
メッセージソングを歌う若者、ステージのセットから飛び降りるパフォーマンスをして骨折した話題、ジーパンと白いシャツで、ナチュラルカラーのテレキャスターをぶら下げた姿はまるでブルース・スプリングスティーンで、『ボーン・イン・ザ・USA』がヒットしたあとの良くあるフォロワーのひとりにくらいにしか僕は思っていなかったのだ。
やがて、尾崎豊さんの人気はじわじわと浸透していき、ついに巨大なコンサート会場を満員にするくらいまで支持されるようになっていた。
ロンドンで尾崎豊さんの死を聞いた僕がなぜ反応、いや、動揺したのか。ひとつは、彼は1965年生まれで、僕と年齢が同じだからだ。
もうひとつは、その死にかたである。
僕は勤めていた会社を退職して収入もゼロになり、再就職先も決めず数ヶ月にわたって異国を続けざまに放浪している最中で、自分と同年齢の男が日本で不慮の死を遂げたことを、しかも、のたれ死んだことを、世界を放浪している自分の命と重ね合わせたのである。尾崎豊さんの死は、明日の自分の姿であるように。
僕は日本を出るときに遺書を書き、持ち歩いていた。生きて帰れる保証はどこにもなかったし、いつどこを訪問し、どこで寝泊まりするかも決めないで旅を続けていたので、毎日、生きていることと、いつ死ぬか分からないという意識を抱えていた。
英国ではリヴァプールでビートルズのゆかりの地を巡り、ロンドンでは日本で世話になった友人に再会しながら酒と音楽と美術館を巡る日々を送っていたので、それなりには満たされていた。しかし、死が隣り合わせである意識は常にまとわりついていた。
それは、エジプトのカイロで気が狂うような非日常に投げ込まれ、ギリシャのアテネで殺されそうな恐怖を味わい、アムステルダムで悪しざまにジャップと呼ばれた、そんなあとの英国だったからこそ、そういう死の感触から逃れられなくなっていたのかもしれない。
尾崎豊さんの息子が21歳になり、そして父が作った歌を息子が歌う。朝日新聞で読んだニュースで、僕の20年間が一気にフラッシュバックした。残された妻は息子を育て上げた。そして父の歌を継ぐ息子がいるということ。なぜか、今も尾崎豊さんが生きているような錯覚になった。
むしろ、生きているのかもしれない、本当の意味で。
僕はロンドンで彼の死を知り、そのまま旅を続行した。ロンドンを出たあとニューヨークに向かい、シカゴを経由してメンフィスにたどり着くことになる僕は、どういうわけか死なずにすんだ。しかし、僕が作り出したものを僕の子が継ぐのかどうかは、わからない。 継いで欲しいとかそういうことを考えているのではなく、死それ自体は喪失ではないのかもしれない、と思ったのだ。
命があるということは素晴らしいことだ。しかし、命は永遠ではない。いつかは消え去る運命にある。それでも、消え去ったとしても、人が生み出した歌は継がれていくという事実に、命にはいろいろな側面がある、もしかすると消え去らない命もあるのではないか、それを人は『魂』というのではないか、そんな事を、朝日新聞の記事を読んで思ったのだ。
尾崎豊さんと彼の息子の歌を、聴いてみたくなった。
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