音楽書庫
音楽コラム
平田憲彦
シンディ・ローパーにみる音楽の原点意識
シンディ・ローパーの新譜『メンフィス・ブルース』を聴きながら、表現者にとっての原点とは何かをいろいろ思いめぐらせている。
マイルス・デイヴィスもカバーした『タイム・アフター・タイム』の作者であり、歌い手でもあるシンディ・ローパーは、あくまでもポップ・アイコンとして記憶されてきた。しかし、今年になって発表した『メンフィス・ブルース』は、全曲ブルースのカバーで埋め尽くされていて、その選曲からバックメンバーの人選まで本格的なものだ。さらにその歌唱も、デビュー間もないマリア・マルダーを彷彿とさせる歌声で、そこに少しひねたトーンも加わって独自のブルースを展開している。
ケバいメイク、浮ついた衣装、オーバーアクションでポップソングを歌い踊るシンディ・ローパーのイメージしかなかった僕は、ブルースの歌声に聞き入り、YouTubeで見れるライブパフォーマンスに釘付けとなった。まさしくブルースウーマンのシンディ・ローパーがそこにいた。
プロデュースも自分でやっているから相当の肝いり企画だと考えられるが、そういう理屈は抜きにして純粋にブルースアルバムとして良くできているし、とてもストレートだ。
ずっと作りたかったアルバムだと、シンディ・ローパーはコメントしている。自身に宿る音楽への憧憬や出自意識がそのような表現へと向かわせたのか、ともかくポップアイコンは本格的なルーツミュージックのアルバムをリリースした。
エリック・クラプトンが『アンプラグド』でブルースをベースに商業的成功を収めた後、ブルースだけのアルバムを作り、そしてロバート・ジョンソンのカバーアルバムを作ったが、それと今回のシンディ・ローパーとは事情が大きく異なるように思う。
クラプトンの場合も『作りたかったアルバム』なのだろうが、彼は今までもアルバムの中でたくさんのブルースナンバーを収録してきた。ボニー・レイットもそうである。
つまり、今までブルースフィーリングあふれる楽曲をリリースしてきたミュージシャンが、改めてブルースばかりを集めたアルバムを作ったのとはワケが違うのだろう。
このシンディ・ローパーのブルースアルバムは、ブルース専門のメディアやリスナーからはあまり評価されないかもしれない。アイドルの趣味的なものと一蹴されるかもしれない。
しかし、僕は少なからず感動したし、アメリカ音楽界の懐の大きさを感じてしまった。
ポップミュージックばかり歌ってきたメジャーな女性シンガーが、実はずっとブルースを好きで、しかも、ブルースだけのアルバムをリリースしたいと考えていたというその事実に、僕はブルースという音楽が今もアメリカの深い部分で生き続けていると思ったし、やはりアメリカ音楽の大きな幹であり根になっているのではないかと、確信めいたものを感じたのである。
日本でいえば、松田聖子さんがブルースアルバムをリリースしたような驚きがあるが、そのたとえもあまり当てはまらないだろう。
日本のポップミュージックの源流は明らかにアメリカにある。残念ながら、日本の中にはほとんどないに等しい。
日本の中にある源流としての芸能や歌は、結果現在に生きている日本の多くのポップミュージックにはあまり流れていない。日本独自の歌の源流は、むしろ現在演歌に流れている。
我々が日頃着ているスーツの源流が英国にあって日本にないように、モダンアートの源流はフランスやアメリカといった欧米にあるように、我々日本の文化のいくつかは、その源流は日本にはなく外国にある。
我々日本人のポピュラー化した文化、いわゆるポップカルチャーで、今の表現の原点を日本の中で探し出すことの出来るものは少ない。
アメリカのブルースも、元をたどるとアフリカから連れてこられた黒人たちに行き着くが、しかしブルースがアフリカから輸入されたものではなく、あくまでアメリカという国土で、そこで生きている黒人たちが生み出した文化であることを考えると、日本で歌われているロックやポップミュージックの源流が日本にないことを、シンディ・ローパーのブルースを聴いて感じたのである。
日本のポップミュージックの原点を今再現するとなると、それは日本で生まれたものではない。それは、なぜだかとても寂しい気がする。
だからなのかもしれない、桑田佳祐さんが日本の歌謡曲をリバイバルしようとコンサートを開いたり、憂歌団が演歌や昭和歌謡を取り入れようとしたり、岡林信康さんが音頭をポップミュージックに取り込もうとしたりするのだろう。坂本龍一さんがドビュッシーに影響を受けつつも四七抜きの楽曲を作るのも、現在の自分の原点を今の時代に今の音として再現しようとする試みだろうし、とても熱い思いが宿っていると思う。
それでもどこかに無理があるように聞こえてしまう。たとえば桑田さんの音楽でいえば、音楽としての源流は明らかにアメリカのロックやブルース、ソウルにあり、演歌ではないことはそのサウンドを聴けば明らかだ。だから、いくら桑田さんが昭和歌謡や演歌をカバーしたとしても、彼のオリジナルなサウンドに宿っている源流は、演歌ではなくロックなのである。
日本やアメリカ、などと国家で音楽を規定すべきではないのはそのとおりだが、自身の表現の原点が日本にはない、というその事実があるから、日本のポップミュージックはなかなか日本から外へと拡張していかないのではないか。表現は人間の感情に寄り添うが上に、ロックやソウル、ブルースを歌う日本人は、表現として大きな力を身につけにくいのかもしれない。
むしろ演歌のほうが外国への文化的アピールは強いように思う。
コルトレーンがジャズでブルースをやりながらその解体に進み、やがて音楽表現の核をアフリカに求めたのは、自身の祖先がアフリカ人だったことは言うまでもないことだ。
原点意識が表現へと昇華された例の一つだろう。
本来ならば『ROCK』や『POP』でいいところを、『J-ROCK』や『J-POP』というふうに『J』をあえて付けないと日本の音楽とならないのが日本の現実なのかもしれない。
アメリカのポップミュージックには脈々とルーツミュージックのエッセンスが流れている。ブルース、ゴスペル、ジャズ、そしてソウルが、またカントリーミュージックが今のアメリカのポップミュージックの核となっていることから、シンディ・ローパーがブルースアルバムを作っても、マーケティング的には驚きはあっても、アメリカ音楽としてとらえた場合とても自然な流れを感じる。
音楽は楽しむものなので、ルーツや源流を感じようが感じまいが、楽しけりゃそれで良い、という考え方もあるだろうが、僕はどうしても自分が聴く音楽にルーツを意識してしまうのだ。その場しのぎの借り物とツギハギだらけの音楽ではなく、代々受け継がれてきた芯が今も響いている音楽を求めてしまう。
シンディ・ローパーのブルースアルバムを聞いて、アメリカ音楽のポップからルーツにつながる太い幹を感じた。
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