音楽書庫
音楽コラム
平田憲彦
仕事と働くこと
神戸の北野は、三宮の中心的な歓楽街から少し離れた土地ということもあり、比較的穏やかな夜を楽しめる場所だ。音楽好き、酒好きが人を近づけることが良くあるが、毎夜北野で料理の腕をふるっていた一人の男とは、あれこれと話が弾んだ。
彼は料理人として優れていたというだけではなく、ギターの腕前も大したもので、時々セッションした。彼はギターのチューニングを全弦1音下げてDにセットしていた。その方が歌いやすいから、と言っていたが、どうなんだろう。テンションが下がるので弾きやすくなることは間違いなさそうだが。
そして彼が作る料理も時々頂いていて、そのたびに僕は感動していた。
僕の父と母をその店に連れて行って楽しい時間を過ごしたがこともあり、こんなにうまい料理は初めて食べたと父は感激して、普段は小食なのに全て平らげてしまったほどだ。
ある夜、もう日付が変わってしまった時間に彼と飲んでいて、修業時代の話になった。酒を飲んでいると話があちこちに飛ぶので、その日もどうしてそんな話になったのかよく思い出せない。
彼を育ててくれた師匠はすでに亡く、しかし、彼と話していると、まるで僕は、その師匠が目の前にいるかのような錯覚に陥るのだ。彼を通して、その師匠は生きている。僕にはそう感じた。
「仕事というのは、」
と彼は話し始めた。
「仕事って、『仕える事』って書くんですよね」
そう彼は言った。
僕は頭が真っ白になった。
「自分は料理を作る仕事をしてます。仕事をしているんですけど、それって、働く事と少し違うような気がするんです。で、好きな事とも違うように思うんです。まあ、お客様に仕える、ということだと感じてるんですけど、お客様だけに仕えているとも思えない。でも、仕えているという感覚はしっかり自覚してるんですよね」
そう彼は言う。
彼は師匠から、そのような事も含めて、たくさんのことを仕込まれ、学んできたという。
僕は彼の話を聞きながら、何度もその言葉を反復していた。
『仕事』とは『仕える事』と書く、か。
なるほど、本当にそうだ。
『仕事』は、英語にするとどうなるんだろうか。
『business』だろうか。しかし、これは日本語で考えると『商売』に近いように思う。
じゃあ、『working』だろうか。いや、これは『労働』だろう。
『仕事』は英語にしにくい日本語なのではないだろうか。
そんな事を思いつつ、彼と飲んでいる時間を幸福に感じた。
その後は、ほとんどの時間をギターとロックの話題で費やしたと思うが、よく覚えていない。
気がつけば4時になっていた。
彼は西へ、僕は東へ、それぞれ帰路についたのだ。
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