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音楽コラム
平田憲彦
ありがとう、とディランは言った
ボブ・ディランのライブに行くのは今回で3回目だ。
最初は1994年の武道館。エレクトリックセットから始まって、中盤にアコースティックセットに変わり、またエレクトリックセットに戻ったような記憶がある。
ディランはほとんどアコースティックギターを弾いていた。
ロニー・ジョンソンの『Tomorrow Night』を弾き語りに近い形で演ってくれたときには、ほんとうに感動してしまった。
2回目のディランは2010年のライブハウスツアーでの来日。大阪のZepp Osakaで見た。その時は、アコースティックギターは弾かず、ほとんどキーボードを弾き、時々エレキギターを弾いた。もちろん、ハーモニカも。
小さな会場で見るディランはすごい存在感だった。
アコースティックギターを弾くディランを見たかったが、ボーカルの凄さはひときわだった。
そして3回目となった2014年。前回と同じくライブハウスツアー。今回はZepp Namba、また大阪。神戸に住んでいる僕としては、ほんとにありがたい。
※
僕が見た三回のディランは、いずれもMCはほとんどなかった。それは今回もそうだが、途中の休憩時に『ありがとう』と日本語でコメントしてくれたのには、驚いたし、なんというか、とっても嬉しかった。
僕はディランの日本語を初めて聴いたわけである。
この『ありがとう』という日本語を今のディランの声で聞いて、ようやく僕はディランの声に触れた気がした。
ボブ・ディランや、キース・リチャーズ、トム・ウェイツ、そういったしゃがれ声が大好きで、聞くほどに魅了され、話し声も歌声も、僕には心地よく響くのである。
しかし、そこはやっぱり英語。
昔に比べて英語をそのまま理解できる度合いは高まってはいるが、それでも日本語ほどの理解力はないので、大抵は一瞬頭の中で翻訳している。
だから、素晴らしく大好きな彼らの声も、やっぱり僕には〈翻訳〉というプロセスを経るので、タイムラグがある。
ディランが日本語で話してくれた今回の『ありがとう』は、紛れもなくディランその人が目の前にいて、僕の大好きなあの声が、生きている声として感じることができた。
『サウンド』や『音』ではなく、『声』として。
英語でそのままダイレクトに理解できるほどにヒアリングを良くしていきたいとは思っているが、まだまだ遠いのが現実。
そんな僕にとって、歌以上に響いてきたのが『ありがとう』だった。
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もちろん、歳を重ねるごとに魅力を増していくしゃがれ声は、ここ数年では声が芸術作品ではないか、と思えるほどに美しい。
聴いてすぐに意味はわからなくても、ディランの歌はしっかりと響いてきた。
そして今回のライブで、日本語の『ありがとう』以上に驚いたことは、一度もギターを弾かなかったことだ。
エレクトリックもアコースティックも、ギターは何も弾かなかった。
アコースティックピアノを弾き、ハーモニカを吹き、時にはハンドマイクで楽器を一切使わず『歌手』として歌った。
ハーモニカを吹いているディランを見て印象深かったのは、ギターを弾きながらハーモニカラックを付けて吹く時と同じ奏法だったことだ。
つまり、ブルーススタイルで吹くような、両手でハーモニカを包み込んでベンドする奏法ではなく、完全にオープン奏法だった。ベンドは一切なし。
ディランは、ギターを弾きながらハーモニカを吹くその制限からオープン奏法だったのではなく、あの音を好んでいるからオープン奏法だったのではないか。
そんな事を思ったわけである。
こういった諸々のことを本人に直接聞いてみたいと思っているが、インタビューを申し込んでも常に断られている。
招聘元によれば、ディラン本人がすべての取材を断っているとのこと。
実際のところはわからないが、正面から行ってもダメであれば、他の手を使うしかないな、と考えつつ、いや、やっぱりディランの考えが結果としてライブパフォーマンスになっているんだから、その理由をあれこれ詮索するのではなく、ただ純粋にライブを楽しめばいい、とも思う。
※
とっても素晴らしいライブだったが、やっぱり僕はディランのギターを聴きたい。
大好きなディランのアルバム聴きながら、そう思うのだった。
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