音楽書庫
音楽コラム
平田憲彦
東京ジャズ・ラプソディ(ロングバージョン)
東京は、哀しい活気を呈していた、とさいしょの書き出しの一行に書きしるすというような事になるのではあるまいか、と思って東京に舞い戻って来たのに、私の眼には、何の事も無い相変らずの「東京生活」のごとくに映った。
〜「メリイクリスマス」太宰治〜
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この冒頭から始まる短編小説「メリイクリスマス」は、太宰の中でもとりわけ好きな作品だ。坂口安吾も太宰と同じくらい好きな作家だが、太宰も安吾も、どことなくジャズやらブルースやらの空気を感じてしまう。もちろん、彼らの作品でそういった音楽をモチーフにしたものはないが、ジャズやブルースという音楽は、理屈やテクニックを越えて、曲や演奏に宿る魂のような何かがジャズをジャズたらしめ、ブルースをブルースにしているようなところがあるので、きっと小説という表現形式にもジャズやブルースに共通する魂があるのではないかと思っている。
僕は昔、東京に住んでいた。高校卒業から阪神大震災翌年までの足かけ13年間である。
親に仕送りしてもらいながら(というのはとっても恵まれたことだった)東京のはずれにある場所で大学生活を過ごした。6畳一間のアパートで一人暮らしである。部活動は剣道部。今思うとまったく音楽と関係がない。高校生までの僕は、音楽はビートルズしか聴いてなかった。ギターは弾いていたが軽音に入るほど音楽にはのめり込んでなかった。
剣道部の飲み会で酔いつぶれた僕は、住んでいたアパートが遠かったためによく先輩の家に泊めてもらった。なにしろ、僕が住んでいた場所は、東京とはいえアパートまで帰るには夜8時の最終バスに乗る必要があるという僻地。飲み会に出るということは、すなわち誰かの家に泊めてもらうことを意味するわけである。
僕と同じ神戸出身のその先輩には本当によく世話になった。彼のアパートは踏切が近く、夜遅くまで電車と鐘の音が聞こえた。
先輩がかなりの音楽好きで、ビートルズしかまともに聴いてこなかった僕の耳を、これでもかというくらいに広げてくれた。ロックではレッド・ツェッペリンを教えてもらった。そしてジャズでは、トミー・フラナガンとキース・ジャレットを聴かせてくれた。
それが僕のジャズのはじまりである。
そして、僕が住んでいた部屋の隣に神戸時代の友人が一年遅れで入ってきて、僕の音楽の耳をさらに大きく広げてくれた。彼が聴かせてくれたのはエリック・クラプトン、ローリング・ストーンズ、ジェフ・ベックだった。
この二人のおかげで僕はようやくビートルズ以外の音楽を知ることになる。そして、それらが共通するルーツミュージック、ブルースという音楽に興味を持った。マイルス・デイビス、チャーリー・パーカー、ロバート・ジョンソン、マディ・ウォーターズ、今では僕のヒーローである彼らの音楽は、18歳から19歳にかけて、そうやって始まったのである。
大学を卒業して小さな広告代理店に就職し、今でも続けているグラフィックデザイナーというキャリアが始まった。東京の六本木にある会社だった。そこで、僕はまた音楽の新たな世界に出会うのであった。上司を含めて音楽好きな同僚が大勢居たので、広く深い話を浴びるほど聞かせてもらい、多大な影響を受けた。広告関係で働いている人達は、映画や芝居、音楽、文学といった幅広い表現分野に、深い知識と好奇心を持っていることを知った。
20歳ほど年上の課長が僕をあれこれと連れ回してくれた。彼は日本酒とジャズが好きで、乃木坂にジャズを掛けて日本酒を飲ませてくれる小料理屋があり、そこは頻繁に連れて行ってもらった。ジャズを掛ける、といっても、有線ではなく女将がちゃんとレコードを選んで掛けている。課長はそういう店が好きだった。BGMでジャズを掛けているような店には連れていかれたことはない。
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東京は、僕にとって音楽の原点の街なのだ。いや、音楽だけじゃないと思う。僕の人生で東京は絶対に欠かせない。今は東京を離れて暮らしているが、僕は東京でデザインを学び、仕事を始め、多くの友人と出会い、恋もした。それらの中心には、常に音楽があった。
いまこうやってジャズのコラムを書いたり、少ないながらも音楽書を出版しているのは、東京で過ごした13年間があったからこそだ。
だから、僕は今でも仕事で東京に行くと、〝帰ってきた〟という気持ちになる。僕のふるさとは神戸であり、今も住んでいる。でも、僕の軸は東京にあると、東京に「舞い戻る」たびにそう思う。
そして、いつもと変わらない東京を感じるのである。それは新宿であり、六本木であり、僕が住んでいた頃に通っていた街。
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20歳年長の課長が連れて行ってくれた店で特筆すべきは、やはり新宿ゴールデン街の『シラムレン』だろう。1988年のことだ。このことは、万象堂のジャズ連載『Kind of Jazz Night』第4回(僕にとっては初回にあたるが)で詳しく書いた。
その後何年も経って、『シラムレン』はマスターが亡くなって店を閉めたと聞いた。でもそれはガセ(あるいは聞き違い)だった。
なぜなら僕は、先日『シラムレン』に行ったからだ。
久しぶりに新宿で打ち合わせがあり、そのまま僕は新宿で飲むことにした。そして、不意にゴールデン街に足を向けてみた。花園神社の横に今もあるゴールデン街は、そこだけが時代に取り残されたかのようなたたずまいで、25年前と全然変わってなかった。どの店に入ろうかとふらふら歩いていた僕の目に、あの『シラムレン』の看板が飛び込んできた時には、声を上げそうになるくらいビックリした。
これは幻か、と。てっきり店を閉めたと聞いていたので、一瞬信じられなかった。おそるおそる看板まで行き、あの懐かしい狭い階段を見上げる。
これは紛れもなくあの『シラムレン』だ。
ゆっくりと登って扉を開ける。変わってない、あの真っ暗けな店内。カウンターしかなく、まるでブラックホールのような店。客は誰もいなかった。しかし、あのマスターは健在だった。
「ご無沙汰してます」
「?」
「25年ぶりに来たんですけど、やってたんですね」
「やってるよ(笑)」
「閉めたって聞いてて」
「やってるさ」
僕はその瞬間、亡くなったのはマスターではなく、ママだったことを感じた。座って焼酎のお湯割りを注文する。僕は25年前、焼酎のボトルを入れていた。もちろんそんなものはもう無いが。
「すごく嬉しいです、今日来れて」
「そうかい」
「25年ぶりですよ。僕のことは覚えてないでしょうけど、僕はマスターをハッキリ覚えてます」
「覚えてないなあ(笑)」
「初めて来たとき、ホレス・パーランの『アス・スリー』を掛けてくれたんですよ。あと、サッチモとエリントンの共演盤も」
「そうだったかなあ、もうずっとここにいるんで忘れちゃったよ」
当時、カウンターの後ろにはカセットテープが壁一面に並んでいた。今はCDになっている。それにしても、何千枚あるのだろう……。
「当時はカセットでしたよね」
「そうだよ。全部あげちゃったよ」
「いろいろ変わっていきますね」
「変わっていくさ。死んじゃうのもいるしね」
一瞬、ママさんの事が頭に浮かぶ。いや、ママのことだけを言ってるんじゃないだろう。
「最近どんなのを聴くんですか?」
「店でかい?」
「いえ、店とか仕事は抜きで、マスターが好きなもの」
「ああ、それならフリージャズかな。店では掛けられないけどね」
「掛けたらいいじゃないですか。僕は好きですし、好きな人もわりといるでしょ」
「いるけどさ、そうじゃないほうが多いんだ。フリージャズ流してると、扉を開けて帰っちゃうのが多くてね」
「そりゃマズイですね」
「だからフリーは掛けないよ」
「じゃあ、どんなのですか、普段掛けるのは」
「そりゃやっぱり、こういうのかなあ、分かり易いの」
マスターはレイ・ブライアントのトリオを掛けた。1曲目に『ゴールデン・イアリングス』が入っているあの名盤中の名盤。
「良いですよね、これ。僕も大好きです」
「ピアノトリオは人気だね」
ゴールデン街のど真ん中、闇の中にいるような暗いバーに、ほどよく大きな音で流れるレイ・ブライアント。焼酎が美味い。
「食べるかい?」
マスターが突然とんかつを出してくれた。サラダ付き。
僕の記憶しているマスターは、こんな気の利いたことをしてくれたことはない。ぶっきらぼうで、愛想も悪く、そして怖かった。いつも怒っているような雰囲気で。ただ、怒っているのではないことは感じていた。25年前の僕は、23歳である。会社に入ったばかりで、世間のことは何も知らない。そんな若造が一人でこんな店に来ても、何を感じられるというのだろう。
「これは美味そう!」
「俺がつくったんだよ」
なかなかの味だった。
これが突き出しか、あるいは、25年ぶりに店に来た当時の若造のことを歓迎してくれたプレゼントなのか僕にはわからない。でも、あの頃よりもハッキリ観じたのは、マスターは実はニコニコしていたということである。
暗闇で気づかず、以前はちょっと怖かったのでまともに顔を見ていなかったのだ。もしかすると、25年前もマスターは笑っていたのかもしれない。
「<シラムレン>って名前、<夜が白むまで飲む連中>って意味なんですよね」
「そうだよ。でも元々は<しらむらん>っていうコトバから来てる」
「しらむらん?」
「古い歌にあるんだよ」
マスターが教えてくれたのは、この歌だ。
〜冬の夜にいくたびばかり寝覚めして物思ふ宿のひま白むらん(後拾遺392)〜
「<しらむらん>は言いにくいし、最後を<れん>に変えた方がスッキリすると思ってね」
「それで<シラムレン>」
「そう」
「マスターが名付けたんですよね」
「そうだよ」
後拾遺から取られたとは知らなかったし、その歌の意味を感じれば、まさにゴールデン街で飲んだくれる人々の心情をこれほど言い当てている歌もないかもしれない。
「ゴールデン街でジャズの店って、他に残ってるんですか」
「ないんじゃないの。よく知らないけど、こういう店は流行らんよ」
「歌舞伎町に『ナルシス』ってジャズバーがあるのを昨日聞いたんです」
「ああ、ナルシスは古いね。あそこもこういうジャズの店だね」
「え、やっぱり!」
「いいジャズ掛けてる」
前日に僕は新橋でジャズバーを一軒見つけて立ち寄り、そこで歌舞伎町にいいジャズバーがあることを聞いていた。
そのバー『D2』も素晴らしい店だった。5〜6人しか入れない小さなバーだが、流すジャズはストレートど真ん中、図太いサックスがコルトレーンを中心に至福の時間を満たしてくれた。
「後で寄ってみるつもりなんです」
「良い店だよ、行っておいでよ」
シラムレンを辞去するのは心残りだった。もっと飲みたかったが、そうもいかない。それに、きっとまた来る。間違いなく。
トイレに行くと、壁一面に写真が貼ってあり、さながらストーンズの『ベガーズ・バンケット』のようだった。その中で、何枚も貼られている女性の写真があった。肩までの髪で小柄な美しい女性だった。
この人は、たぶんママさんだ。
僕はそう感じた。25年前に何度か会ったママさんの雰囲気を、僕は今でも覚えている。3人で店に入ったら「団体さんお断りだよ!!」って叱られたことも、ニコニコして酒をついでくれたことも、無表情だったことも。
このトイレに貼られている写真の主は、間違いない、ママさんの若かりし頃だろう。どこかあどけなさの残るその美しく無垢な笑顔は、写真を撮った人物に向けられている。それは誰だろう。マスターなんだろうか。おそらくそうだと思うし、そうだといいなあと思った。
トイレから出ると、マスターはハンク・モブレイの『ソウル・ステーション』を掛けていた。僕も大好きなアルバム。
「このアルバム、むちゃくちゃ好きです」
「いいよね」
「そろそろ行きます」
「ありがとう」
「また来ていいですか」
「ああ(笑)」
「僕、ウェブでジャズの連載をしてるんです。神戸で」
「へえ、そうかい(笑)」
「シラムレンを紹介していいですか?」
「ああ、いいよ」
※
ゴールデン街を歩いていると、僕はどこかで太宰治や坂口安吾を感じている自分に気がつく。それは、『ルパン』のある銀座ではない。『ルパン』も良い店だし僕も好きだが、冒頭で紹介した太宰の「メリイクリスマス」や安吾の名作「堕落論」から醸し出されるブルースな気分。それは銀座ではなく新宿ゴールデン街だと僕は思う。
ゴールデン街を抜け、ラブホテルが林立する一角へ入り、呼び込みが大勢たむろする雑居ビルのひとつに『ナルシス』はあった。
ママが一人で切り盛りしていて、どうやら2代目らしい。初代はご両親だという。親子で歌舞伎町のジャズバーをやるなんて、なかなか聞かない話だ。
新橋のバー『D2』に紹介してもらったこと、さっきまで『シラムレン』にいたことをママに話し、僕はジントニックを注文した。
「このマッチ、カッコイイですね」
「ツジマコトが描いたんだよ」
「誰ですか?」
「辻一。知らない?」
「すみません、聞いたことないです」
「大杉栄、伊藤野枝」
「?」
「辻潤と伊藤野枝の間に生まれた息子だよ」
その後神戸に戻ってから調べて分かったが、その辻まことが絵を描いたマッチが、『ナルシス』のマッチだった。
そしてもう一つ別のデザインのマッチもあった。間違いなくアルバート・アイラ—が描かれている。
「これ、アイラ—ですよね」
「そうだよ。好き?」
「実は神戸でジャズの連載をやってまして、そこで一緒に書いている人がアイラ—が大好きで。彼に僕は教えてもらったんですよ、アイラ—を」
てっきりアイラ—を掛けるのかと思ったら、ママはエリック・ドルフィーのヨーロッパライブを掛けた。
ああ、ドルフィーもそうだ。あの課長もジャズが好きだったが、僕の直属の上司であったアートディレクター、彼もジャズが好きだった。とりわけ好きだったのが、ドルフィーだった。
このヨーロッパライブは初めて聴いた。ものすごい。とんでもなく素晴らしいアルバムだった。
「凄いですね、これ」
「いいよね」
「アイラ—も好きですけど、ドルフィーも良いですね」
ママは、2杯目のジントニックを僕の前に置いて、つぶやいた。
「アイラ—は、祈りの音楽だよ」
※
新宿の夜は更けていく。
ゴールデン街も、歌舞伎町も、煌々とネオンがともり、怪しげな男達の影がオモテにウラに動き回る。
JR新宿駅に向かう僕にとって、背中に感じるゴールデン街は名残惜しくもあったが、なんとなく呼ばれているような気もする。
また東京に舞い戻ってこいと。
冬の夜に
いくたびばかり寝覚めして
物思ふ宿のひま
白むらん
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