音楽書庫
音楽コラム
平田憲彦
再び、こんにちは、ライ・クーダー
ライ・クーダーのオリジナルアルバムとして、カリフォルニア3部作と呼ばれてきた連作が、このほど完結した。
3作目は『I, Flathead』と名付けられ、最近のライのアルバムのデザインの中では、珍しくジャケットに『Music by Ry Cooder』などという記載がなく、単に『Ry Cooder』という文字のみの表現になっている。
日本盤は7月21日発売予定とのことだが、先日一足早く売り出されたアメリカ輸入盤を聴いた。ライが執筆したという90ページにもなる小説がセットされた豪華版を買った。日本盤は、これをベースにしてくれていることを願うが、はたしてどうだろうか。
『I, Flathead』と名付けられたこのアルバム、カリフォルニア三部作と言われているだけあって、コンセプトは一貫している。アルバムの構成も、3作とも似ているし、楽曲のトーンも近い。
つまり、仮想の登場人物と舞台を設定して、彼らの視点で物語を描きつつ、それぞれのテーマに沿ったジャンルの音楽を中心として全曲のトーンを調えていくという手法。つまり、コンセプトアルバムである。
それから特筆すべきことは、3作ともブックレットが充実していて、ダウンロード販売という音楽流通に沿わないスタイルだということ。なんでも、ライ・クーダーはMP3形式の音楽は受け入れがたいと考えているらしいので、そういう意味でもある種“批評的”なスタンスの3部作だといえる。
ライは、音楽探究者と昔からよく言われてきた。自分でも、そう語っている。
『僕の人生は、常に探求の連続でした。〜中略〜 何か新しい音楽、変わった音楽。僕の興味は、常にそういった方向に向かっていきました。『ロックンロール民俗学者』だと言われても、全く反論できませんね。偏屈な歴史学者や、救いがたい考古学者みたいなものです。しかし僕は、そういう音楽を知ることのみに執着していたわけではなく、それを僕の音楽の中に取り込むという目的が、まずありました。学び取って自分の物にすること。それが全てでした。』(Switch-1988年4月号より)
このコメントは、おそらくライ・クーダーの全てを語っているといっていい。
私は、この1988年のSwitchを当時の書店で買った。
もう、いまから20年も昔の話だが、とてもそうは思えないくらいだ。
私は、このコメントを20年前に読んでいたのに、ライ・クーダーの音楽をほとんど聞き取れていなかったのである。
ライは、デビューした1970年代から80年代、そして、この21世紀になっても、まったく変わっていないことに、今頃気が付いた。
彼は、意志と行動が完璧に一致している。
それを、今回のカリフォルニア3部作を聴き通して、とうとうわかったのである。
ライのスライドギターが好きで、そればかりを聴いてきた。自分でも演奏するし、私が使っているボトルネックは、ライが使っているものよりも軽いが、とても近いタイプの重量感あるボトルネックを、とあるアーティストから頂いて使っている。
その方にライのボトルネックを見せてもらって、実際に手に取ったことがある。
ずっしりと重く、本当にこれで弾いているのかと信じられないくらいのボトルネックだった。
私のボトルネックは、その方がピエドラというワインから切り出した本物のボトルネックである。
私は、ライ・クーダーのスライドを聴きたかった。彼のレコードをかけても、そこからスライドギターの音色をずっと探していた。
それが聞き取れないときには、少しがっかりした。
いつしか私は、ライ・クーダーの音楽ではなく、スライドギターの音色だけを探すようになってしまっていた。
ライのことをスライドギタリスト、と表現するメディアは少なくない。
しかし、それはもうそろそろやめにした方がいい。
このカリフォルニア3部作では、ライはスライドを弾いてはいるが、かつての弾き方ではない。むしろ、スライドなのかどうなのか、わからない曲が大半だ。
そして、古い曲ばかりを探してきてアレンジして演奏するとか、そういう見方も、そろそろ捨てるべきだろう。
全作の『Mu Name Is Buddy』もそうだったが、今回の『I, Flathead』も、カバーは一曲もない。共作者もあるが、全てライの作品だ。
つまり、全曲オリジナル作品なのである。
『Get Rhythm』や『Paradise and Lunch』などが最高、と思っているリスナーには驚きかもしれない。
しかし、『My Name Is Buddy』や『I, Flathead』、これが、とうとうライ・クーダーが到達した音楽世界なのである。
ここには、彼が20年前に語った『学び取って自分の物にすること』が、見事に達成されている。
これらのアルバムは、ルーツミュージックでもなければ、ブルースロックでもなく、カントリーロックでもなく、ただひたすらに、ライ・クーダーの音楽としか言いようのないサウンドである。
彼が今まで取り組んできた音楽の全てがつまっているし、全てがないとも言える。ここでは、キャッチーなスライドギターサウンドは聞こえないし、ブルースと呼べるようなグルーヴもない。
聞こえてくるのは、あくまでも表現力豊かな歌と、全体を包み込む絶妙な音空間を感じさせるサウンド、ドラマチックな楽曲の繋がり、豊饒なギターサウンド、そして、ナマ温かいアメリカ音楽的な空気だ。
そこに、ライ・クーダーはストーリーを持ち込んだ。
物語であり、詩である。
前述のSwitch-1988年4月号では、こうも語っている。
『ぼくは意味のない歌はやるつもりはありません。歌詞に対しては、ぼくが書こうが、誰か他の人が書こうが、ぼくなりの評価をします。曲の背後には必ず、何らかの意志があるべきで、それはある方法で反響しなければなりません。』
なんとも翻訳が堅くて読みにくいが、まあ、言っていることは納得である。
ライは前作『My Name Is Buddy』で、とうとう全曲自分で物語を作ってアルバムを仕上げた。絵本まで付けるという念の入れようだった。
今回は、いよいよ小説まで書いてしまった。
彼が大切にするという、“曲の背後には必ず、何らかの意志があるべき”という“意志”を、自分で表現したわけだ。
カリフォルニア3部作がこれほどの作品群になるとは思ってもみなかった。
同時に、私はこれで、ライのサウンドからスライドギターの音だけを探すといったような、屈折した聴き方から解放された。
ライのスライドギターは、それでも、本当に素晴らしい。
しかし、彼が生み出す音楽全体は、もっと素晴らしい。
トランペットやジャズという括りで自分の音楽を語られることを嫌ったマイルス・デイヴィスを思い出す。
『Say Hello to Ry Cooder』
私は今、そんな気持ちになっている。
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