音楽書籍
著者インタビュー
小さな町の小さなライブハウスから
片山 明 著
著者:片山 明
定価:1,980円(10%税込)
初版:2006年12月4日発行
A5判、並製本、352頁
ISBN4-902324-03-2 C0073
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小さな町の小さなライブハウスから
著者インタビュー
話し手:片山 明 氏
聞き手:平田憲彦(万象堂)
2006年11月11日 神戸市にて
01 はじめてのウッドストック
── おめでとうございます。完成しましたね。
ありがとうございます。おかげさまで、ようやく世に出すことができました。ハッピー&アーティーのツアーの時には音楽関係の方も来られていて、どんな人間にインタビューしているのか目次を見ただけで、びっくりされて、結構評判も良かったです。さっそく一通り完読してくれたという音楽ライターの方もいらしてね。レコードコレクターズ誌とかに書いていらっしゃる小川真一さんという方なんですけど、すぐ評価してくださって。
── 名古屋会場のお客さんの入りですが、いかがでしたか?
一番心配していたところでしたが、いっぱいになりましたね。
── みんな、よく知ってますよね。どこで聞きつけて来るのか。ちょうど、大阪で僕の隣に座っていた人というのは、神戸の人だったんですけどね。ハッピー&アーティーのファンなんだって言ってましたよ。
どの会場でも、どこで見つけてきたのかLPを束で持ってきててね。
── 持ってきてましたね。
あの連中ってすごいです。それが結構若い人だったりして。どこで見つけてきたのかと聞くとディスクユニオン。横浜公演も来て、東京の2公演も来てという熱心な人で。まだ二十歳そこそこでしたが、今年、、夏にウッドストックに行ったと言う青年もいましたね。
せいぜい3日ぐらいの滞在だったらしいけど、全然分からなかったって。もっと早くこの本が出ていて、、先に読んでいれば、全然条件は違ったって。一回だと分からないから、もう一回行きたいとか言ってたな。
── 結局、ウッドストックは何回行ったんですか?
旅行で一回行った時に、ついでに足のばしたのが最初でした。
── 初めて行ったのが旅行のとき。
そうですね。
── それはウッドストックに行こうと思って行ったんですか? ついでにいろいろ回るうちの1ヶ所がウッドストックだったんじゃなくて?
目的はニューヨークシティーに行く予定だったんです。幸い、うちの奥さんの妹夫婦がニュージャージーに住んでいたんですよ。駐在ですね。その拠点があったので、遊びに行ったんです。
── ニュージャージーといっても結構広いですよね。
広いですね。シティーから通勤可能な、ホーボーケンという場所から電車が走っているんですけど、通勤時間が大体30分ぐらいのところで。
── ニュージャージーといったら、ブルース・スプリングスティーンですよね。
そうそう、アズベリーパークとかもあるし、だいぶ下のほうのアトランティックシティーとかもある。ニュージャージーって広いんです。ニューヨークと接しているエリアもあれば、もっと下のほうもある。そこに2回行っているんですけど、1回目行ったときは、ただのマンハッタンの観光だけ。でもそのとき、ライブでリトル・フィートを見れたりとか、そんなことがあったんですよ。
── ラッキーじゃないですか。
僕、海外の旅先でのライブというのは割とラッキーなんです。
── それはローウェル・ジョージのいないリトル・フィートですね。
いないです。新生リトル・フィートというのかな。で、2回目に行ったとき、やっぱり1回ではマンハッタンやニューヨークは分からないので、もう1回行こうと。行く前に雑誌か何か見ていたら、“ウッドストック”って文字が地図に載っていたんです。見たらそんなに遠くない。道もハイウェイにつながっている感じで、ニュージャージーから、もしかしたら割と楽勝で行けるかもしれない。なので、もし行けるんだったらウッドストックも予定に入れようという感じだったんですね。で、2回目のときに、妹夫婦が車を2台持っているから一台借りて、1泊旅行でウッドストックに行ったんです。
── いきなり、予約せずに。
いや、キングストンという隣町のB&Bに一応泊まる予定で行きましたね。
── キングストンという町があるんですか? ジャマイカにも同じ名前の…。
そうそう。あのあたりでは比較的大きな町です。大きいといったって、ぜいぜい西宮ぐらいじゃないかなと思うんですけど。
── それはウッドストックの隣町?
小さいスモールタウンがいっぱいくっついているわけだから隣接しているわけじゃないけど。
── この地図に載ってます?
載ってますね。
── …あ、ここ。
反対側の町ね。
── これは川ですよね。
ハドソン川。
── すごく遠いように思うんですけどね。
全体で見ると、ずーっと上がっていくとカナダに続いていて、モントリオールがこのぐらい。大体ウッドストックから5時間ぐらいです。
── 5時間はそんない遠くない?
向こうの人にすれば全然遠くない。たやすく行ける距離じゃないんだけど。
一度、サンクスギビング(感謝祭)の休みのときに、モントリオールのケベックに行ったことがあるんです。そしたら、帰ってきて「どのぐらいかかった?」と聞かれた。「5時間はドライブしていたね。いや、もうまいったよ」と答えると、「ああ、5時間ね」と軽く言われて(笑)。だからアメリカの人にすれば、5時間というのはちょっと距離はあるけど、そんなに無茶苦茶な距離ではなくてね。逆にシティーからウッドストックまでが2時間ぐらいのドライブなんです。
僕がよく行っていたライブハウスというのも、ウッドストックから大体1時間半、慣れていないときは2時間近くかかったけど、あまり苦にはならなかったですね。最初のころだけしんどい思いをしたけど、考え事をするにはちょうどいい。道は広い。時々何か出てくるという危険性はあるんだけど。
── キングストンのホテルをリザーブして、ウッドストックに行ってみようと。ウッドストックでホテルを探さなかったのは、なぜなんですか?
とにかく情報がなかったですね。
1軒、2軒ぐらいはB&Bがあるんですけど、街中にホテルというのがないし。
── それは片山さん一人で行ったんですか?
まだこのころは子どもがいなかったから、うちの奥さんと二人で行きました。うちの奥さんはウッドストックのことを何も知らなかったから。
── 音楽の興味は近いんですか、片山さんと。
最近でこそ近くなってきたけど、全然違っていました。まあ共通項というのはありましたけどね。矢野顕子が好きだとか。
── よく一緒に行ってくれましたね。
そうですね。
── 矢野顕子とボブ・ディランは一致しない(笑)。
ニューヨークといえばマンハッタンというイメージなんだけど、当然田舎というのもあるわけだから。そういうところに、いわゆる旅行会社のツアーじゃなくて、自分の力でどこかオプションをやるというの、うちの奥さんは割とそういうのが好きだった。「1泊旅行で郊外へ出てみるのもいいかもね」「じゃあウッドストックがあるぜ」「行こう」、と。
アートコロニーだとか、アーティストがいっぱい住んでいるとか、ミュージシャンがいるとか、そういう町なんだということが、彼女を刺激したかもしれないですね。本人が割とそういうのが好きな人なんです。
── 奥さんは版画家さんですよね。
そうです。ただ本にも書いたんですけど、行ったときは、われわれがイメージしているようなウッドストックというものは全然感じられなかったです。ディラン、ザ・バンドを分かっているぐらいの人はよく知っているほうで、いまだにフェスティバルが行われた場所なんだと思っている人が多い。
── それで、そのキングストンに行って泊まって、ウッドストックまで足を伸ばしたわけですね。
最初にハイウエーから下りて、いきなりウッドストックに行ったんですけどね。
── ホテルに行かずに、先にウッドストック。それで「何だこのちっこい町は」と。
そうなんです。
── それがあの本に書いてある最初のくだりなんですね。
ええ。あっという間にもう町を抜けてしまうみたいな。「まいどのことながら、何かあっけないな、ここは」と思うんですけどね。
── いつ行ってもあっけない(笑)。
メインストリートというのが街中を貫いているんだけど、店が、要するにないんですよ。
── 店というと、どういう? 観光っぽい店?
いわゆるセンター・オブ・タウン、ハート・オブ・タウンにありがちな土産物屋だとか、生活に必要な商店というのが普通はダーッとあったりするじゃないですか、商店街って。ないんですよ。
── じゃあもう住宅地ばっかり?
幾つかはあるんですよ。ギャラリーがあって、ブックストアがあって、アイスクリームショップがあって。
── 片山さんが撮られたビル街が写ってる町の写真があったでしょう。
グリニッジ・ビレッジ。そのグリニッジ・ビレッジの音楽というのがウッドストックに流れていった、というふうなことで写真を使ったんですけどね。それはニューヨークシティーです。ブリーカー・アンド・マクドゥーガル。60年代のフォークカフェがはやったエリアです。ああいう風景というのは、間違いなくウッドストックにはないですね(笑)。
── あんなでかいビルはない。
ない。
── ほとんど3階建てが精いっぱい。
3階建てもないかな。2階建てまでかもしれないですね。
── 初めて行ったウッドストック、どれぐらいの時間いたんですか?
滞在時間というのはせいぜい2時間ぐらいじゃないですか。
── 行くところがなかったわけですね。あまりにも小さすぎて。
そうなんです。情報があまりにもないうえに拍子抜けで、人も少なかった。ちょうど月曜日で……。そこは紛れもなくウッドストックなんだけど、拍子抜け度があまりにも強すぎて。ミーハーな気持ちで、ビッグピンクは一体どこなんだ、ベアズビルスタジオはどこなんだ、本場のライブハウスはないのか、そんな気持ちが飛んでしまったんです。
本に書いたように、ザ・バンドのポスターが風にちぎれて、はためいているぐらいのものでもあれば、もう十分だったんですよ。そういう“イコン”のようなものがあるぐらいのもので。
この本でインタビューをしているんですけど、唯一、ジャックスリズムスという小さいレコード屋があるんですよね。
── もうつぶれたと書いていました。
別なところでやっているんですけどね。
── 移転したわけですか。
2軒持っていて。それで、その時に、そのレコード屋に入って。まだそのころはジャックのことも知らないから、訪問記念にというので、ザ・バンドの『ジェリコ』というアルバムを。
── 復活のやつですね。
ええ、あれを1枚買って。だけど、恥ずかしくて、ビッグピンクの道順とか、もうそんなことを聞く気持ちも全然なくなって。訪問記念のCDを1枚買って、それでもういいか、みたいな、そんなものです。あきらめが早くて。
ただ、運命的な出会いがあってウッドストックに住むきかっけをつくってくれた人とこの時に出会っているんですね。
── 「あとがき」に書かれてました。
ええ。アキコさんという方なんですけど。
── 日本では面識はなかったんですか?
全然なかったです。何か土産物でも買うかなというので、街中にあるステーショナリーのお店みたいなのがあって、そこへ入って何か見ていたら、われわれが日本人だというのが分かったんでしょうね。最初は英語でしゃべりかけられて。
そしたらその方はアメリカ人の男性と結婚して、ウッドストックに住んでいると言ったんですよ。
「ここまで来る日本人の方というのは、紛れもない音楽好きなんです。普通はその途中にあるウッドベリー・コモンのアウトレット・モール、そういうところに行くのが精一杯でなんですよ」って。
「ウッドストックの音楽に惹かれて来たんです。でも何もないですね」
「ないですね」って(笑)。
ただそのあたりのことは住んでみないと分からないことだったんですよ。
── 最初に行ったその2時間の滞在で出会ったわけですか。すごい出会いです。
そうでした。あの出会いがなければ、行ってない可能性が高い。
── その人はその雑貨屋さんを経営していたんですか?
経営していたわけではないんです。
── 店員さんだったわけですね。
ええ、ちょうどそのころ、まだ大学へ行っていたのかな。
せっかく旅先で知り合ったんだからといって、メールアドレスを交換したんです。インターネットの時代になっていて良かったなと思うんですけど。で、帰国してからお礼のメールを差し上げたんです。すぐに返事をくださって。その後メールをやりとりをしているうちに、先週はジョイアスレイクというクラブに誰々のライブがあったりとか、何かこっちが一番求めていたような、そういうネタが出てくるです。
── アキコさんも音楽好き?
好きでしたね。ストーンズとデヴィッド・ボウイのファンですね。
── ウッドストックとたいぶ違いますね(笑)。
でも、彼女のおかげで、「ああ、やっぱりウッドストックって音楽の町らしいんだな」というのが分かったんです。
── そのアキコさんの家に住んだんですよね?
そうなんです。そのうち事情があってアキコさんたちが日本に引き揚げて来なければいけなくなって。ちょうどそのころのタイミングと、われわれがどんどん思いを募らせていって、ウッドストックに住みたいということと、うまいこと合ってしまったんです。
── 日本に帰ってくるのと引き換えに部屋が空く、と。
しばらく部屋はクローズしたままで、彼らは日本に帰国してきて、というような状態だったんです。そんな時にわれわれはアメリカへ行きたくなってきたと。じゃあ最適な住まいを提供できるじゃないかというふうな話を彼らがしてくれて、ぜひうちを使ってくれと。毎月家賃を支払うという契約で。向こうに行く者にとっては大きな悩みでもあるハウジングの問題が、一挙にクリアされたんです。
── 3年間でしたね、それはビザの関係上ということになんですか?
うちの奥さんは日本で普通の大学を出ていて、アート系の大学は行っていなかったんです。文学部です。だから、一度アート系の大学で学びたいという希望を持っていたんです。調べると、ミネアポリスとかシカゴとかいろんな候補がありましたけど、幸いなことにウッドストックから1時間ぐらいの距離で、キングストンの隣というか、ハイウエーでいえば一つ手間の出口なんですけど、ニューパレスという所があるんです。それに載っていないかな。
── ニューパレスは書いていないですね。キングストンの近く?
もっとシティー寄りの下がったところなんですけど。そこにニューヨーク州立大学ニューパレス校というのがあるんですよ。そこに版画のコースが幸いにしてあったんです。
── 版画といってもいろいろありますけど、どういう版画なんですか?
一番やっていたのはエッチングなんですけどね。版画だけというわけではなくて、当然いろんなことをやったみたいですけど。とりあえず、ここに行けると。だったら納得だ。僕は資金をつくって、滞在費をつくって、その代わりというか、うちの奥さんは就学ビザを取ろうということになったわけです。
── 就学ビザ、学生として。
方法は、実際のところ、今から考えてもそれしかないと思うんです。
── 観光ビザは確か、期限が3カ月ぐらいしかないでしょう。
就労ビザなら問題ないんですけどね。例えば寿司職人。寿司職人は割とビザが出やすいんですよ。それと就学ビザ。方法はおそらく2 つしかない。あとは不法滞在。何カ月おきにカナダに行って再入国する。でも、だんだんマークされてくるんですけどね。
アメリカに行くと決めてから、うちの奥さんはベルリッツへ行ったりとかしまして、TOEFLのポイントを取って、留学の申請をして、まあ、かなり大変でしたけど、アメリカ大使館から就学ビザが出た。I-20が出たと。そこまで到達してから身内にも「実はアメリカに行こうと思ってる」というふうな打ち明けをして、という感じでした。
── それはクリアされてから言わないとね。決まる前に言うと、やめとけと言われますもんね(笑)。既成事実化してから言わないとね。
僕のほうは、その間日本と仕事ができるわけないと覚悟したんで。
── そのときはもうコピーライターとしてフリーなってたころ?
もうずっとフリーでしたね。
── 奥さんは学生で、片山さんは学生じゃないですね。
その学生ビザに随行する家族。
── それで3年間いたわけですか。
卒業してしまうともう滞在ビザが終わりということなんで、日本で取ってるポイントにプラスする形で、4年間行かなくても全然OKなんです。日本の大学でこれだけのポイントを取ってるから、それにあとこれだけのことをやればもう卒業OKと。
── ポイントというのは、単位のことですか?
単位ですね。「クレジット」という言い方してるらしいんですね。
一般教養の分が全部取れてるから、あとは専門課程をクリアすればOKみたいな、そういう考え方なんです。だから、2年半ぐらいでポイントを取れたんです。
── それで、卒業の資格まで行ったわけですね。
専門の大学院のコースなんて行こうと思ったら、まだもっと年数かかるんですけど。
── その間、片山さんはコピーライターの仕事をしてなかったんですか?
まれに、ウッドストックのことを書いてくれとか、向こうの生活事情みたいなこと、アメリカの田舎の町の生活事情みたいな、そういうのをちょっと書いてくれみたいな。それはたまに入ってきて、やるぐらい。あくまで、ハウスハズバンドという覚悟で行きましたね。
── それはかなり実行できたわけですか。
うん、できましたね。
── お子さんは2歳とか3歳でしたっけね。確かこのとき。
行ったときは1歳半でした。まだしゃべらないぐらいで、よたよた歩いてるぐらいの。
── それってほとんどジョン・レノンをやってますよね、例えが良すぎますけど(笑)。
冗談でね、「ジョン・レノンやろうと思ってさあ」ってそういう話をするとね、「何言ってんの」とよく言われたけど、「そうだな、ジョン・レノンだよな」って。
── ジョンがインタビューで答えてるんですよ。ハウスハズバンドがどれだけ大変だと思ってるんだ、と。片手間でできる仕事じゃない、家事とか育児というのは。おれはちゃんとやってると言ってるんですよ。プレイボーイ・インタビューで話してます。誰かはやらなきゃいけないですからね、家事、育児は。
ジョンのファミリーは、われわれと違ってお金に困ることはなだろうし、たとえば家政婦を雇うということもできるだろうから。われわれはそういうことが出来ないし、最初の一年というのは車が一台しか買えなかったから大変でした。
── 「しか」なんですか?
一台しか買えなかったですね。
── 普通は一台じゃないんですか?
大人の数だけ車は必要です。ないと生きていけないんで、田舎では。なので、うちの奥さんが車に乗って大学まで行ってしまうと、あとはもう家に閉じ込められる状態。徒歩で行ける範囲内しか、行動できない。あとは自転車の後ろに子どもを乗せられるキャリアをつけて一番近いスーパーマーケットまで行くとか、それも毎日のことだから、ネタ切れになるから、どうしようもない。そのころは本当に一日どう過ごすかということが結構悩みだった。子どもが、その頃はよく寝る年ごろだったから、寝かしつけて、寝てくれるとすぐPCに向かって、メールをチェックしてみたりとか。その時間だけでしたね、自分の時間ってね。
02 ライブハウス通い
── ウッドストックに住んで、精力的なライブに行かれて、このライブレビューの元ができてるんですよね。
最初の一年は全くだめでしたね。やっぱり車のドライブも多少不安がある。あと、地図を見て、ロードマップを見て、こう行けばこう行けるというのがあるから、やっぱりだんだん分かってくるんですよ。最初って地図の見方だって分からない。遠くまで行かないと、そのライブハウスには行けないというのが分かってたから諦めてましたね。
── そんなに遠かったんですか?
遠かったですね。本当に1時間半は軽くかかった。
── ライブ情報というのは、日本でいうと『ぴあ』みたいな情報誌があるんですか?
タウン誌みたいなものが無料で要所要所に置かれているというか、そんな情報誌があったんです。これを見たら今月のライブスケジュールみたいなものがばーっと出ていて、名前から見ていくと、すごい名前が並んでいるんですよ。それが決してウッドストックの町で行われるライブというわけじゃなかったんですよ。
── というと?
タウニ・クライア・カフェというコネチカットと……。
── コネティカットって、まったく別の場所ですね。
コネティカットとニューヨーク州の境目ぐらいのところにあるんですけど。1時間半かかるんです。ここばっかりなんですよね。すごいアーティストが出ているのは。
── どうしてでしょう。そこは有名なライブハウスだったんですか?
有名みたいですよ。ただ、ほとんど知られてないんですけど。あまり遠いからウッドストックの人もそこまで行かないし、ただ、知る人ぞ知るって感じで、ニューヨークシティーからもわざわざそこまで見に来る人がいる。
最初の一年はとにかく、たまにウッドストックの町に残ってるクラブで行われるショーだとか、比較的にまだ近い、ウッドストックの町から30分くらいで行けるところにあるカフェであるライブに行くぐらいで。だけど、情報誌を毎月見ていると、どうしても見たくなるわけですよ。
── そうですよね。やってるのを知ってしまうとね。
そうそう。やっと滞米2年目に入ったときに、思い切って車をもう1台買ったんですよ。で、1台はもう僕のものという形にして。大体、夢に出てくる車の運転が、ちゃんと右側を走ってるという状態になれば完璧で、その段階からもうあちこち出て行くというふうな感じ。夢の中でまだ左車線走ってるようだと、潜在意識はまだ日本なわけ。
── なるほど。やっぱりちょっと時間がかかったと。
そうですね、多分歳のせいもあって慎重になってた。若い無鉄砲なやつだったらね、やってしまってると思うんですよ。家族持ちだし、あまり無茶はできない。
── そのころに息子さんを連れて、あちこち行ったって、初稿では書いてましたよね。
あちこち、まあウッドストックの町とか、せいぜいそんなもんですよ。
── ライブには連れて行ってないんですか?
連れて行けなかったですね。あまりにも小さすぎて。
── ああ、そうだな、ぐずられたらね。
それもあるし、やっぱりライブ始まるのが遅いんです。大体9時過ぎからです。
── 始まるのが? じゃあ終わったらもう12時超えてる。
12時超えてる。
── そういうのは普通ですか? 向こうでは。
普通です。
── 日本だったら7時ですよね、始まるのが。終わったら9時、10時。
逆なんです。
── 日本では終わるぐらいの時間から、ウッドストックではライブが始まる。
大体2ステージで、9時から始まって1時間ぐらいプレーして、インターミッションが入って、後半ですよ。
── この間のハッピー・アンド・アーティー、彼らはずいぶんと早い時間から始めるんだなと思ったでしょうね。
そう思いますよ、多分。カフェとかそういうレストランじゃなくて、ギャラリーとかで行われるコンサートなんかに関してはもうちょっと早いか、ひょっとしたら7時、8時ぐらいからスタートするようなのがあったと思うんですけどね。
大体そのレストランでやるショーというのは、食いながら音楽聞かせることはないんですよ。最初にみんな食べるんです。あくまでディナータイムはね。それが終わってしまって、コーヒーでも飲むかみたいな感じの時間に、ちょうどライブの時間をぶつける。
── ということは、食べる時間と聞く時間を完全に分けてるということ。
建前としては分けてる感じです。遅くやってきて、やっぱり腹減ってんだというような人は、こそっと出してもらったりもね。頼んで出してもらったりはしているみたいだけど。
── ディナータイムが終わってから、ショーが始まる。
そうですね。うまいものも食べさせて、その分のお金もしっかり取って、ミュージシャン呼んできて、と言う風に計算しているんですね。ただ単にライブのチャージだけでやろうなんて、絶対出演者に払えない。ギャランティーが払えない。
本にも書いてるんですけど、その辺をね、やっぱりもっとしっかり食わして、けちなナッツとかそんなんじゃなくて。食べるほうも満足できて、店としてすごくいいものを作っていて、ライブがあるというふうなスタイルができれば、もっと文化が違ってくると思う。
── それを日本でやれているところといったら、ほとんどないんじゃないかな。
沖縄の民謡酒場とか、そんなところだと思いますよ。全然値段が違うんだろうと思うんですけどね、そういうところで、「え!」と思うようなアーティストを呼んでくるということができたら、本物だと思いますけどね。誰かやらないかなと。
エンターテイメントの世界って、片方だけが良くて、こっちは駄目だじゃなくて、食事も満足できた上に、ショーが上に乗っかっていると。それはやっぱりすごく違うと思うんです。何なんだこれはと思ってね。飯うまいじゃないかってびっくりしてました。
僕は予算限られてるから、メキシカン料理のすごく安いやつだけ頼んで、ビールは飲みたいからとりあえず頼むんだけど、しっかりワインを飲んでステーキ食っているアメリカ人もたくさんいるし、なかなかいけてる店なんですね。後々聞くとそのカフェのオーナーの奥さんがシェフみたいで、うまいことやったなと思ったんですね。
── 音楽を聞かせるのは一番の目的だけれども、お店もちゃんとやっていけないと駄目ですもんね。そうしないとミュージシャンもやる場所がなくなるし、聞く人も聴く場所がなくなる。
長く続けないとミュージシャンから信頼されないだろうし、小屋というのは。となると、やっぱりうまく経営のやりくりをして、とにかく長く続けていかないと。
── そう思いますね。ウッドストックに結局ライブハウスってどれくらいあるんですか?
多分、2つ。
── ということは、片山さんがよく行ったライブハウスはウッドストックの郊外というか、外のほうが多い。
ウッドストックの町の中にあるライブハウスは2軒。でも、僕が行ってた頃って1軒しかなかった。
── 新しいライブハウスが増えたということですね。
わずかにね。やっぱり、ないといけないと思う人はいるみたいで。
── それはアメリカン・ルーツ・ミュージックのショーが多いんですか?
フォークシンガーが多いかな、新しくできたところはね。昔からやってるそのクラブは、まあ老舗なんで、ルーツ系以外にもいろんなアーティストが出てるみたいだけどね。
伝説があって、ローリング・ストーンズがやった70年代のあのツアー。元気いっぱいでミックがアメフトの格好していた・・・。
── 映画でやった、あれ。
あのころのツアーをやるときに、リハーサルをウッドストックでやったんです。
── へえ、すごいな。
ベアズヴィルスタジオの別のスタジオがあって、そこに籠もってリハをやって、メンバーのバースティパーティーがそのクラブであったらしいです。それはジャックスリズムスのジャックに後で聞いたんだけど、「知ってるか、あそこでストーンズのパーティーがあったんだぜ」「え!」。そこを知ってるだけにあんなとこでという感じだったんです。
── ストーンズって、でっかいワールドツアーをやる前に、必ず小さいクラブでやるらしいですね。
そのときは地元クラブでパーティーだけだったのか、おそらくパーティーだけだったと思うんですけどね。ジョイアスレイクという老舗のクラブなんですけど、いろんな人が出ていて、昔はルーツ系のハッピー・アンド・アーティーなんかもやっていたみたいだし、エリック・カズやジョン・セバスチャンなんかも頻繁にライブをやってたみたい。意外なところでは、ライ・クーダーも来て、そこでやったことがあるんです。写真が残っていましたけどね。
結構ぼろくてね。経営がいいかげんというか、だから、駄目なんだというかね、誰が入ってきても分からないような感じがあって。ちゃんと料金なんてチェックしないぐらいのルーズさで、一回ただで聴いてしまったことがあるんです。
── 払うの忘れて。
忘れて。
── 気がついたらもう帰ってきちゃったと(笑)。
リヴォン・ヘルムの1カ月連続というのをやっててね、ずっと通ってたから、いっぱいお金を払っているから、あとでまあ1回ぐらいいいかなという気にもなったんだけどね・・・。だから、何度かクローズしてます。
オーナーが変わって再開して、また駄目でみたいなことが何回かあったみたいですね。不定期ながらいまだに、ジョイアスレイクは存続しているというふうなことを聞いたんで、今現在ウッドストックは2軒。
リック・ダンコが生きているころなんて、結構、エリック・アンダーソンと一緒にショーをやってたみたい。そのライブハウスは割と70年代というか、ウッドストックのミュージックシーンが一番ホットだった頃からあるクラブだから、ほんと老舗です。
── ボブ・ディランがやったり?
ディランは多分プレーしてないだろうな。それこそビックピンクと自分の家で、ザ・バンドのメンバーとセッションやってるくらいしか、ウッドストックで音楽活動はやってないでしょうから。ヴァン・モリスンなんかはクラブにふらっとやって来たりとかはあったらしいけど。でも、何かすごい時代ですよね。いつまでたっても伝説でそういう話が出てくるというのは。
── そういう町ってあんまりないですね。
その点、昔から廃れることなくホットな状況を維持しているのがオースティン、テキサスって聞きます。
── あそこはブルースもすごい盛んですよね。
一回行きたいなと思うんですよね。
オースティンはいまだにライブハウスも多いし、ミュージシャンもいっぱい住んでるって聞くなあ。
── オーティス・ラッシュがオースティンでライブをやって、そのアルバムが去年出ましたね。エリック・クラプトンも参加してた。まさに今日、エリック・クラプトンが大阪でやってます。
タウニ・クライヤー・カフェのフィルも、自分の店をつくるのに、全米をいろいろと回って、その中の候補の一つとしてはオースティンが入っていたらしい。何かよく分かるんですけど、ニューヨーカーというのはやっぱりニューヨークが好きなんですよ。
ニューヨーカーはニューヨーク、比較的マンハッタンから近いニューヨークのエリアから離れ難いみたいです。ジョン・セバスチャンも多分そんなこと言ってましたから、やっぱりニューヨークが好きなんだよね。
── そういう影響力のあるエリアで育った人にとっては、すごく大切な場所になってくる。
ひょっとしたら、アメリカの場合、イギリスから渡ってきているじゃないですか、新境地を求めて。
── 移民してますもんね、ルーツはね。
もしルーツがそっちのほうの人とすれば、東海岸に対してこだわりが強いみたいなんですよ。だから、あまり一時的に西海岸に行って住んでる人もいるんだけど、やっぱり東海岸のほうが肌に合うみたいです。本当にルーツ的なものとか、あとは宗教的なものとか、何かある種カラッとしたああいう空気じゃなく、ウエットなほうが合うというのがあるのかもしれないです。
── 僕も旅でしか行ってないですけど、それだけでも違うなとは思いました。東のほうが暗くて一種深い感じがしましたね。
僕はね、西海岸って体験してないんですよ。トランジットぐらいでサンフランシスコ空港をブラブラしてるぐらいのもんで、考えてみればニューヨークしか知らないようなものでね。
でも、南部って行きたかったんですけどねえ。ニューオーリンズなんて行ってないしね。ハイウエー61をミネアポリスからニューオーリンズまで、ドライブするというような、そんな体験をしたいなと思ってるんですけどね。
── グレーハウンドバスにも乗らないと(笑)。
そうですよね。それか本当にレンタカーでずっとダラダラ走って、止めたいところに止まるとか。モーテル泊まり歩いてというのも結構いいかな。
幸い、これまで怖い思いしてないんですよ。アメリカで怖い思い全然してないんです。ラッキーなのかな。
── ウッドストックの治安はどうなんですか?
めちゃくちゃ良いですね。ひょっとしたら家の鍵をしてなくてもOKです。まあ、時々はいろんな変なやつが入ってきますから、トラブルがないということはないし、夜中にパトカーがダーって走ってることもあるんですが、うちなんかコンドミニアムという名前が付いてましたけど、日本で言えば集合住宅、アパートでしたが、庭のほうの戸を閉めるのを忘れてて、開いてたという状態がざらにあるんですよ。だけど泥棒が入ったとか、悪いやつに脅されたりとか1回もなくて、全然大丈夫でしたね。危ないということは一回もなかったし、誰かが危険な目に遭ったというのも聞いたことないし、むしろ熊が出たとか。
── 熊?(笑)
そのほうが多かったな。(笑)
03 ザ・バンドとディラン
── ウッドストックは、なぜロックの一つのシンボルになってしまったんでしょう。
最初に来たのがジョン・ヘラルドだったというのもあるんですけど、ディランやザ・バンドの影響は大きかったと思いますよ。彼らが引っ張ってきたというか、彼らに引きつけられたみたいな。
── 彼らはどうしてウッドストックに行ったんですか?
ディランに関しては、ジョン・ヘラルドに勧められたのがきっかけではあると思う。実際はアルバート・グロスマンとの関係でしょう。先に住んでたから、その影響で。マネンジメントが彼だから近くにいるのも便利だったろうし。ディランの露出がシティーでかなり強くなってきたので、身を隠すには田舎のほうがよかったんでしょう。元々が田舎町出身の男だし。
── ウッドストックにはアルバート・グロスマンも住んでたわけですね。
グロスマンはディランとPP&Mで儲けたお金で邸宅買ったわけです。うまいことやったんですよ、あの男は(笑)
── 割とマネージャーって悪く言われますよね(笑)
ディランのヨーロッパツアーというか、『Don't Look Back』というビデオがありますよね。あれとかを見てても、雰囲気としてはガードマンみたいな感じですよね、アルバート・グロスマンって。実際、言動なんていうのはかなり威圧的だし。ちょっと聞いた話では問題抱えた人物だったらしいんですよ。もともとはシカゴのクラブか何かの経営者だったんだけど、やばいことがあって、その町にはもういれなくなってニューヨークに流れてきたと。何かあるのかな。で、ニューヨークへ来て、ああいうふうな商売するようになったけど、実はあまり性格は良くないんだというふうなことは聞いたことがある。ただ、ウッドストックの人は誰もグロスマンのこと悪口言わないんですよね。
── ウッドストックでは普通に暮らしてたということなんでしょうかね。
でしょうね。ああいうベアズヴィル・コンプレックスみたいなものを作って、シアターも作り、スタジオも建て、音楽レーベルつくって。まあ、町にお金が流れ込むようにしてたわけだし。
── むしろウッドストック側からすると、がんばってくれた人ということかもしれないですね。
そうなんですよね。土地の名士みたいな。ディランとの関係で言えば、後々はけんか別れしてしまうんだけど、その頃はシティーに住んでいてもかなりうるさく騒がれるから、姿を隠すにはウッドストックはぴったりだったというのは、多分真実だろう思うんですよね。
── そのときには、もうザ・バンドのメンバーはウッドストックに住んでたんですか?
いや、まだ、どさ回ってましたね。ロニー・ホーキンスのバックバンド、ホークス。64年のイギリスツアーでは、ホークスがディランのバックやってたんだけど。そのツアーが終われば、またロニー・ホーキンスのバックバンドでどさ回ってた。そのうちディランが例のバイク事故でウッドストックに隠遁してしまう。実際は隠遁してたわけじゃなくて、ちょっと音楽やりたいんで、『おまえら、来い』というふうな電話が入ったんじゃないですか。
── ホークスの面々とディランを引き合わせたのは誰だったんですか?
えーっと誰だったか・・・、ジョン・ハモンド? いや違うか・・・。
誰かが推薦したというのがあったみたいですよ。
── 要するに、ボブ・ディランはあのとき、ああいう音楽をやりたかったんですよね。あの自伝を読んでも、初めはロックやってた、バンドでね。
そうなんですよ。
── このままじゃいかんと。自分一人でやれないと音楽じゃないと気がついて、一人ではじめたということが書かれていて。やっていきながらどこかでバンド志向が出てきたと。そのときに、パートナーって言うんでしょうか、音楽を作るパートナーとしてザ・バンドのメンバーがいたのかもしれない。
ただね、多分ザ・バンドがどんなバンドで、どんな素質を持ってるバンドかというのはあまり分かってなかったと思うんですよ。ディランとしては相手がタフで、たたき上げの、どさ回りの百戦錬磨で、それをこなして来ているから、少々のことじゃもうつぶれないというのが一つ。それからディランもあの性格だから、結構自分の言うとおりに動くだろう、でもそれだけじゃないものを持ってる連中、ということがあったんじゃないかと思うんですね。
── 確かに、プロのバックバンドというのは、何でもできるらしい。
みたいですよね。
── これって言ったら、それができる。ロックであろうが、ボサノバであろうが何でも。逆に言うと、何でもできないとバックバンドとしてはやっていけない、食っていけない。
ただ、ほんとに言いなりな、おれが言ったとおりに演奏しろみたいな、それをこなしてるだけだったら、おもしろいものが出てこなかったと思うんですよ。
このころのロビー・ロバートソンというのは素晴らしかったと思いますね。
── そのころのね(笑)。
ほんとにね(笑)。
── あんな曲を書くというのは、天才ですよ。
本の中では、新生ザ・バンドのことをよく書きたいがために、オリジナル・ザ・バンドのことを意図的にちょっと冷ややかに流してるとこがあるんですけどね。悪気はないんです。どうやったってオリジナル・ザ・バンドのあのすごさというのは無視はできないし、その素晴らしさは認めざるを得ない。リヴォンやリック、リチャードの影響ももちろん大きいわけだけど、ロビー・ロバートソンの曲作り、そういうセンスとガース・ハドソンの音楽的な造詣の深さが、ザ・バンドの独特のサウンドを作っていたんだろうと思うんです。一方、ディランの場合には一緒に活動していたザ・バンドの影響みたいなのは、作品に出てない。
ザ・バンドの影響があるという感じではなくて、ディランはディランでやっぱりやりたいことやってる。ああいうベースメントテープスみたいな、昔の曲を掘り起こしていく作業というのは、既にザ・バンドと出会う前からディラン自身が追究してたみたいだし。彼がウッドストックに定住するのは、『ブロンド・オン・ブロンド』のあとくらい。それから隠遁して、その後復活して発表するのは『ナッシュヴィル・スカイライン』なんですよね。
── 『ブロンド・オン・ブロンド』って、僕はブルースアルバムに聞こえるんです。ボブ・ディランのブルースアルバム。やっぱりブルースやりたかったのかなという。そのときの一緒にやれるメンバーとして、ザ・バンドというのがあったのかなと、これは想像ですけどね。
『雨の日の女』なんて、だらだらした感じの。
── どう聞いてもあれはブルースですよね。
その前の『Bringing It All Back Home』とかって、のっけはラップっぽいんだけど、ブルースを感じますね。実際ザ・バンドと共演したスタジオアルバムって、『プラネットウェイブ』くらいしかないんですよ。
後々になってそのベースメントテープスというのは出てきたけど、正規アルバムというのはなかなかなかったでしょう。
あの時代に、ザ・バンドはディランと録音を残してないんです。
04 歌を継ぐ
── ウッドストックという町というのは、もともと独自の音楽が流れていたというよりは、みんなが集まってきた場所ってことになるんですか?
と思いますよ。さんざん本にも書いたけど、2時間という距離というのは、シティーから簡単にやって来れるわけ。こっちからも向こうのシティーにも仕事に行けると。その距離感のたやすさというのは、かなり多種多様な音楽が流れ込んで来るようなチャンスがある。
── シティーでは駄目だったんですかね。シティーでは満足できないと。
そんな時代だったと思うんです。
── おもしろいなと思うのは、ニューヨークより北でしょう。
北ですね。
── 彼らって、音楽的には南だと思うんですよ。南部、それが位置的にいうと北にという、あれは何なんでしょう。南部に行くと、より深く入ってしまい過ぎるんでしょうか。
そういうのもあるのかもしれないですね。
── メンフィスからニューオーリンズに行くと、どんどん引力が強くなっていくような気がします、アメリか音楽的に言うと。
ハッピー・トラウムが、それにちょっとだけ触れてくれてるけどね。なぜナッシュヴィルに行ったんだろうと。レコーディングでナッシュヴィルに行ったことに対して。そういうナッシュヴィル詣でみたいなのがあったんでしょうね。だけどやっぱり、ナッシュヴィルでプレーすると、すごいやつがいる。さらに南下がって行けば、もっとすごいやつもいるだろう。そういうのが分かってたんだろうけど。自分たちは、それを消化した音楽をやっていかないと意味がないんだということかもしれない。
── それは、この間の音楽を聴いてもよく分かりました。誰かの形をトレースしてないですよね。
ほんとそうですね。
── 例えばブルース、ラブダイムだったら、ブラインド・ブレイクとか、そういう人たちの音楽をそのまんまトレースしてなくて、好きな音楽を自分で演奏するというのが、非常によく出てる。でも、大概そのまんまをやるんです。
さっき名前が出たジョン・ハモンドなんか、全くそうなんですよね。
── そう、まんまですよ。まんまをやろうとして、それで何か違うようなものを感じてしまうという。
ジレンマは感じてるんだと思うんですよ。ジョン・ハモンド、素晴らしいんですよ。でも、ロバート・ジョンソンをやればやるほど本物の凄さには適わない。真似して追っかけてるだけで終わってしまうんだってことも自覚してて・・・。
── フォロワーですね。
フォロワー。それでしかないのかということが明らかになってくるんだけど、それでもやめられない。
── 好きだからしょうがない。
それは、ある意味では見上げたものでね。
── そうですね。何を言われようがもうやるんだという。
だから、発展的なものというのは、ちょっと期待できないのかなと思ったりするけど。
── 再現したいんですよ、きっと。ハッピー・アンド・アーティーで感じたのは再現じゃないんです。自分たちの音楽をやりたい。それはものすごく感じました。
あとはやっぱり継いでいくというふうな姿勢かな。キャッツキルマウンテンのエリアというのは、アパラチア山脈と同じようにフォークソングがいっぱい埋もれてるようなところらしいんです。ハッピー・トラウムが『キャッツキルのトラッドだ』と言って、実にきれいな曲を演奏してましたね。ようやくハッピーなんかは、今まさにそういう遺産に手を入れ始めたのかもしれない。それから、そんなふうな歴史というのがあることとルーツ系のアーティストが集まってきたということは無関係ではないかもしれない。
民間伝承でリップ・ヴァン・ウィンクルの伝説が残ってるとか、そんなことはよく言われるんですけど。音楽でフォークソングが残ってるとか、そういう話はほとんど聞かなかったですけどね。だけど、多分ハッピーとか、ツテを頼って、そういうのを集めたりしてるんだろうけどもね。先達、たとえばハリー・スミスがやってたような収集、編集作業だって、やっぱり誰かが継いでいかないと。彼なんかはそういう使命感を持ってるんじゃないかなと思うな。
── それは歌を継ぐということですね。片山さんの文章の中で、僕は一番感銘を受けた言葉が『歌を継ぐ』という一文だったんです。ああいう世界がどこかで見えたと感じるんですよ、片山さんの中で。ただ単に音楽が好きな人であれば感じるかというと、そんなことはないと思うんです。現地で何かを見て感じたので、その『歌を継ぐ』という言葉が出てきた。あれは僕、画期的な言葉だと思うんですね。あれはどの辺で思い始めたんですか?
どこかなー。
── ハッピー・アンド・アーティーですか。
ハッピー・トラウムのソロのショーとか、毎年、年末に行われているコンサートで演奏される曲というのは、とにかく『あれ、これって聴いたことあるぞ』というのが多くて。うちへ帰ってきて、アンソロジー・オブ・アメリカン・フォーク・ミュージックをまずは聴き直してみて、『あ、これか』と。それドク・ワトソンの曲だったりもするんだけど、カー夕ー・ファミリーとかね。『これか!』と。やっぱりそれをハッピーが演奏して、素晴らしい音で聴かせてくれるだけでも、蘇らせてくれているんだなあと思ったりしてました。
スンミソニアンやフォークウェイズに残されている音源を聴いてきた人たちと違って、僕なんかハッピー・トラウムを通じて、トラディショナルにアプローチして行った。ですから、完全に後追いなんですね。ハッピーの演奏を通じてだから、ことさら彼の『継いでいる』姿勢を感じることが出来たような気がしています。
── 彼はそういう意識はあるんでしょうか。
ずばり聞けばよかったですけど、その質問はしてないです。でも、おそらくあると思いますね。
アーティーなんかは、そういうのとはまた違うんだと思うんです。彼はほんとにロック魂というか。
── 表現志向のところがありますね。演奏ということに相当力を注いでいるような感じは受けました。
すごかったですよね、彼。今回のツアーでは、毎回違う曲を挟んだりして。
セットリストは毎回変えてましたね。どうしても外せない曲というのがありますしね。それ以外に何曲か変えてた感じ。アーティーがインストで一人で演奏してたのがありましたね。『ナイアガラ』の他に、ストロークだけの、かなりアグレッシブな曲があったんだけど、みんなそのとき初めて聴いた曲。下北沢の時だったかな。
気さくな人なんですよね、アーティーって。演奏は凄いんだけど、人当たりというのは、とにかく柔らかい人で。そんな人にウッドストックで一番親しくしてもらえたというのが、嬉しかったな。
アーティーが僕に伝えてくれたことというのは、例えば自分でCD売ってるとか、そんなことも大きかったんですけど、真のプロフェッショナリズムということかな。CD売ってるというエピソードに関しては、感想伝えてきてくれた友人もいましたけど、『そうなの?』って。やっぱり日本ではびっくりするんだなあ(笑)。
── 多分ね。そんな地味なことを本人がやるというのがね。
手渡して、釣り銭勘定してね。何かこう……。嫌な言い方をすれば格好悪い部分をやるみたいなこと。でも、僕は感動した。だから、僕も自分で本を売るってことをやりたかったんですね(笑)。やってよかったですよ。彼らの気持ちはすごく分かりました。親しく話しかけてくれる人もいますし、いろんな人と出会えたことも大きかった。今でも最初の1冊目を買ってくださった方の顔とか覚えてます。生まれて初めてサインもしたし。やっぱりこれだなと思います。
── やっぱり特別なもんだと思いますよ。表現したものをその場で売り買いするというのは。
みんな、あれをやるべきだなって思うなあ。
── やっぱり感動するんですよ。本当の意味で感動する、心を動かされる。作ったものを買っていただく、それを読んでくれるというのは、これは本当に奇跡みたいなもんだなあと僕は思うんです。
普段の仕事で広告をやってる者にすれば、自分が作った広告の商品が売れてるとか、何か前年比をアップしたとか言われると、一応うれしいのはうれしいですね。
── 役に立った感じ。
そうそう。役に立ったという感じですね。じゃなくて、自分で心血注いで作ったものを並べて、それを手に取って、買っていってくれる。何て言うかな、実感として、ありがたいな、という感情が(笑)。
── うん、本当にありがたい。
感動しましたよ。ドキドキするような感じでした。
── 大阪もそうでしたけど、買っていただいてて、もう封を開けて読んでるんですよ。これは本物だなあと。本気なんですね。例えどんな状態であれ、自分でちゃんとお金を払って、買って、その場で読むというのは、あれは本気じゃないとできない。その価値というのかな、思いが入ってるというのは、広告だけをやっててはなかなか分からない。
そうですね。本当に目の前で売れるというのを、やっぱり目撃しないと。
── そうそう。分からない。
微妙に違うという感じですよね。
── ミュージシャンの人たちは、それをずっと感じてるんでしょうね。
そうでしょうね。たまに、なめた演奏するようなミュージシャンもいるんだけど、それじゃあやっぱり駄目なわけで。三波春夫じゃないけどね、やっぱり神様なんやと思いますよ。
若い子なんかCDを買うぐらいで精いっぱいだろうと思うんです。ライブのお金も払って、CDも買って、なおかつ本を買ったりしたら、もう1万円飛ぶような金額なんですけど、それでも買ってくれたりするからね。
よく言われたのは、この内容で1,800円というのは安過ぎるだろうと。実際、安いんでしょうね、きっと(笑)。だけど、できるだけ若い人に買ってほしい気持ちがあったから、それ以上の価格にはしたくなかった。若い人にとって2,000円超えてしまうとやっぱり負担が大きい。ましてCDよりも高い値段はどうしても付けられなかった。いろいろ考えて、廉価版だったら1,800円とか1,700円とかじゃないですか。それにしたかったんですよ。そんな話をすると、みんな笑ってましたけどね(笑)。
音楽の現場では順位ではやっぱりライブ、次いでCDなんです、僕の中ではね。だからそれにプラスする形でもし本買ってもらえるなんてね。
プー横丁の松岡さんがどのくらい持ち上げて言ってくれてるのか分からないけど、先行発売で1回に持っていった20冊が完売したりっていうのは、多分、記録じゃないですかって。僕は分かなないけど『いやあ、嬉しいです』って、とりあえずそれだけ答えてたんですけどね。
トムス・キャビンの麻田さんが、名古屋の公演からステージで紹介してくれたんです。『後ろのほうでCDも売ってますけど、これ、片山さんていう方が書かれた本なんですけど・・・』って紹介してくれて、かなりその影響は大きかったような気がします。
下北沢では、早めに現場に行ったらまだ何も始まってなくて誰もいなかったんですが、中川イサトさんがいたんです。とりあえず物販はどのあたりでさしていただけるんでしょうかって店の人と話をして準備して。それでも誰も来ないし、手持ちぶさたで。そしたらイサトさんと目が合ってしまって・・・。
『あのー、中川イサトさんですよね。僕ファンなんですけど、来たらいきなりいらしたので、びっくりしたんですけど・・・』って言ったら、すっごくぶっきらぼうな感じでね、『ああ、そう』と。全然相手にしてもらえない。次の言葉が継げないから、仕方なくそういう人なのかもしれないなとガクッと来てたんですよ。
最終公演、イサトさんは村上律さんと組んでハッピー・アンド・アーティーと共演するんです。で、早めに行ったらお会いしまして・・・。僕、下北沢の打ち上げで村上律さんと中川五郎さんに本を差し上げたんですよ。だから、村上さんに本を見せられたりして、イサトさん『オレにはないのか』とへそ曲げられたりしたら困るし、改めて村上さんに挨拶しながら、勇気を振り絞って傍らにいるイサトさんに、1冊進呈したんです。『実はこれは僕が書いた本なんです。ウッドストックに3年弱暮らしてまして、そのころのこととか、インタビューとかしたものをまとめた本なんですが、もしよろしければお読みください』と。そしたら、態度ころっと変わって。『ええー、ああ、そうなの』って、割と急に打ち解けた感じで話してくださってね。
── 大阪の人ですよね、確か。
うん、もともとはね。『いや、何かね、最近こういう年になってくると、あのころの時代のルーツ・ミュージックが、当時以上にしっくりと我々には響いてくる』、なんてね。そんな感じになって、急に話もしてくれて。まあ、何だかいい人でした(笑)。
── 今、人気のある押尾コータローさん。あの人が習いに行ってたスクールの先生。
いい人みたいです(笑)。
05 書く、ということ。
── 奥さんも関西の人ですか?
そうですね。飲み会か何かに誘われて行ったら、引き合わされて、それが出会いでしたけど、女の人が歳と共に強くなるという典型だな。最初のころなんて全然そんな、何て言うかな・・・世間知らずのお嬢さんでしたけど。今や何かもう完ぺきに・・・(笑)。
── 強い女(笑)。
なんでかなと思うぐらい強いですよ。
── お話を聞く限りでは、ウッドストックについて行ったりとか、日本に帰ってきて版画教室やったりとか。すごく自立してる印象を受けますね。片山さんにとっての理解者という感じがするんですよ。
僕ね、今回のこの本のことでいろいろ社内で話をすると『それは、奥さんができてるわ』って、みんな言う。
男はだらしないから、うまくいく場合は大概奥さんがちゃんとしてる。片山さんの場合、どうしてこの本が誕生できたのかというのは,間違いなく奥さんがいたから。それは思います。奥さんの力がなかったら、おそらく片山さんはここまでイマジネーションを発揮できなかったんじゃないかと。
かなりプレッシャーかけられたりしたんだけどね。ああいう所に住んで、あまり人がしないような経験をしたから、それを結果に残さないといけないということでもないんだけど、ただこのままだと、せっかく向こうで体験したことって埋もれてしまうだけだと。書くという気持ちはあったけど、どんな形にすべきなのか、なかなか分からなかった。育児日記なんかはウエブで公開したりしてましたけどね。
── 途中から書き始めてたんですか?
書いてなかった。書けなかったですね。
── 生きていくということが、一つの時間だったわけですね。
そうですよね。
── 書くことじゃなくて。
ええ。書けたとは思うんですけど。ただ単に要領の悪さかもしれない。住んでるときというのは書けなかったね。『書いてりゃあもっと早く終わったのに』とか奥さんは言うんだけどね。でも、そういうもんなんだろうなって思う。時が来るというか・・・。
── 時間がたって書いたから、今の文章になってる。
書き手としてはそう思いたいですね。『歌を継ぐ』という言葉が出てきたときなんて、かなり後なんです。ほんとにもう脱稿前くらいに出てきた言葉。
── あの言葉がすごくいいのは、引いてるんです、いったん自分を。ものすごく引いてるからこそリアルな言葉として迫ってくる。現地にいて、そのときに書いてたら、気持ちの高ぶりがあると思うんですよ。それだったら、あの言葉は出てきてないような気がする。それでも出てくるぐらいの、押したり引いたりできる、ものすごい優秀な人だったら書けるかもしれないけども、普通の場合は、あそこまで自分を突き放せないと思うんですよね。
多分、一番最初に売り込みに伺いをしたときに、これはかなり多分に私的な部分を書き込んでいたようなものだったんですけどね。突き放さないとしょうがないというか、平田さんの指摘もあって、あれは本当に個人的なエッセイに終わらせてはいけない内容なんで、がらっと変えて。
── 感想を書くときに、非常に躊躇したんです。ここまで書いていいものかどうかと。でも、片山さんのテキストを読んだときに、この人は本気で書いてるということを思ったから、じゃ僕も本気で書かなきゃいけないと思って。それで、きっとこのテキストが書物になるとしたら、間違いなく歴史に残るはずだと。だとしたら、そういうふうな書物になってもらいたいというのがあったんですよ。
一番最初にお伺いしたころって、多分去年の6月ぐらい。それから3カ月ぐらいというのは、全く進まなかった。どうやっていいか分かんなくて、放ってあったというか。放ったらかしにしてたんだけど、常に頭ん中にそれが引っかかっている。それでも書けなかったという感じです。
── よく書いたと思いましたよ。もう半々だと思ったんです、最初。書き直せるか、あるいはもうやめてしまうか、どっちかかもしれない。それぐらいかなり僕も突っ込んだ感想を書いたんで、ちょっと突っ込み過ぎたかなと思ったぐらいなんですけどね。それでも、もし片山さんなりに、ちゃんともう一回突き放して書き直すのであれば、絶対これは素晴らしいものになるというのは思いましたけどね。結果的にそうなりましたけど。片山さんの中で時間はかかったのかもしれない。
かかりましたね。構想から入れると5年はかかってますよね。
書き始めてからいうと、3年はかかったかもしれないですね。ああいうのってキリがなくて、いつまでも直したくなってしまう。うまく書けてる部分もあれば、そうでないところもある。特にインタビューってやってみないと分からないんですよね。すごくいい内容が取れたということもあれば、この人ならばと思った人が、あまりそうではなかったとかいうこともあるんです。ジム・ウィーダーへのインタビューというのは結構苦しいんですね。僕が求めてたものが出てきたわけでもないという感じ。毎回、下準備というか、下手するとインタビューってやる前からもう全部分かってる場合がありますよね。どういう答えが出てくるか予測できちゃってる。それじゃあ意味がないし、インタビューとして成立しない。どうやって違うものを引き出すかということなんですけど、その辺が日本人が日本人に対してインタビューするという条件と違ってたし、難しかったな。
── だからこそ良かったのかもしれないですよ。違う国の人が、その人なりの思いをぶつけてインタビューするというのが。
意外なことを聞いてみるとか、どさくさまぎれの苦労はありましたけどね。ジョン・ヘラルドのインタビューとか、トム・パチェコへのインタビューというのはものすごく長いでしょ? 本に入れるとか、雑誌に入れるとなれば、この部分は確実にカットする。これはおしいけど全部削除するだろうな、みたいなこともあったんだけど、結果的にジョン・ヘラルドの場合なんかは彼の最後のインタビューということになって。そうすると、削除なんてできなくて。
── あれラストインタビューじゃないですか、もしかしたら。
おそらく、そうだと思います。トム・パチェコに関しては、彼が歌づくりに向かう姿勢というのが、しつこいぐらいの語りの中にひょっとしたら出ているかもしれないと思って、削らなかったんです。
── ほとんど削ってないんですか?
全文掲載です。前後を入れ替えたり、ほんのわずか無駄な部分を取っているぐらいのもので、聞いてるものは全部といっていいくらい。あれだけのインタビューが取れたのも、今ではラッキーだったなあと思うんです。今回、アメリカ人のフォトグラファーのベンていう友達にコーディネートをお願いしたんだけど、2 カ月ぐらい前から頼んでたとはいえ、みんなその時期にウッドストックにいてくれたからね。オレって2 週間しか滞在しないんだけどってビビッてたんだけど、ベンは『大丈夫、大丈夫』って言うわけね。大丈夫ったって、今の時期にカリブ海にでも行っていたらどうするわけよ、と思うよね。アポだって取れていなかったんだから。だから、今思い出しても冷や汗ものだけど、ほんとラッキーだったんですよね。唯一、インタビューできなかったのがピート・シーガー。ピート・シーガーも予定してたんです。今、彼のインタビューっていうのも、全然ないですから。
── ブルース・スプリングスティーンがカヴァーアルバムを出した。
そう、タイミング的にね。狙いというのは、結構もう全部バシッと当たったなという気がしてるんですけど。ピート・シーガーは一度だけ姿見てるんですよ。この人が伝説のピート・シーガーかって。すっごいおじいちゃんだけどね。いまだに環境問題とか何かそういうことで、ごくまれにステージに立つんだけど。90幾つぐらいかな。みんなそのピート・シーガーの影響を受けて、ああいうフォークシンガーになってたりとかするから、話、したかったな。
06 アビイ・ロードと、イエス
── 何が好きなんですか?
スコッチだと、デュワーズのホワイトラベルというのが一番僕は好きですけど。
── 昔はバーボンが好きだったんですよ。あるときシングルモルトを偶然飲んだんですけど、それはマッカランだったんです。
マッカランも好きです。
── もうめっちゃめちゃうまくて、それ以降、ずーっとシングルモルトです。
村上春樹さんもやってましたけど、ディスティラリーを訪ねるという旅。
── やりたいですね。僕は今一番行きたいところはアイルランドなんです。
ああ、いいですよ。1度、行ってるんですけど。
── 行きました? アイルランド行って、向こうで音楽を聴いて、ギネスを飲みたいですね。
いいですよ、あれ。幸せなときでしたね。
── それは何で行ったんですか?
ニューヨークに住んでたときに。航空運賃が安いから、住んでる間に一度はヨーロッパに渡るかというふうな話をしてたんですよ。いかんせん子どもが小さいから。ニューヨークから一番近いヨーロッパはどこだって調べたら。アイルランドです。子どもが2歳ぐらいだったですかね。まあ、むずがるわ、すごい大変でした。レストランでディナーをオーダーをしたところでむずがり出して、外へあやしに出て、僕は復帰できなかったです(笑)。仕方がないから連れ出して、外で相手してたんですよ。それで、とうとう店には戻れなかったんです。食事も全てパー。そんなことがありましたね。だけどラッキーって、そのときもジンクスというかね。旅先でライブのジンクスは生きていた。レイ・デイビスが見れたんですよ。
── すごいなあ。
それまでにも一番最初にニューヨークに行ったときにリトル・フィートが見れて、その次、ウッドストック行ったときですけど、シティーへ戻ってきたときにパティ・スミス見たんですよ。そのとき、まだパティ・スミスって日本に来てないころでしたけどね、セントラルパークのサマーステージで。夏の終わりでしたけど格安の料金で野外コンサートを見たんです。で、パティ・スミスが出たんです。まだ日本に来るどころかシーンにも復帰して間もないころですけど、それが見れたんです。アイルランドに行ったときも、おれのジンクスまだ生きてるかな何て思いながら、ダブリン市内をバスで移動してたら、壁にポスターがべたべた張ってあるわけです。『え、デイビス? まさかね』。でもライブがあるにしたって、スケジュールと合うわけじゃないからなんて思いながら、何かの拍子でポスターをじっくり見たら、どんぴしゃだったんです。ゴールウェイという、ちょうどアラン諸島に渡る手前の町でした。そこに滞在しているときにどんぴしゃに当たってて、行きました。妻子をB&Bに置いて、一人で行きました。
── 結構、無頼ですよね(笑)。
無頼・・・どうかなあ。白状すると、うちの子どもって『レイ』っていうんですよ。
── どういう字書くんですか。
玲っていう。これはもう一読みすると『アキラ』って読めるんで。
── へえー、ダブルミーニングですか。
アキラジュニアなんですけどね。なぜ『レイ』にしたかというと、実はレイ・デイビスなんです。
── ほんとですか?
ほんとに。
── そんな好きだったんですか?
好きだったんです。キンクスが。
── たしか、フランク・ザッパもすごい好きだったと…。
そう、好きですね。
── もともとはブリティッシュから入ったんですか?
そうですね。音楽的なルーツ、その辺っておもしろい話かもしれないんですけど、うちには二つ上の兄貴がいて。その影響というのは強かったんです。小学校の5年生ぐらいかな。万博があるころでしたけど、すでにビートルズを聴いてたんですよ。
── 万博のころのビートルズだったら、解散するころでしょう。
兄貴はかろうじて解散してないころのビートルズを知ってる。当然、小学校のクラスになんか、そんなもの聴くやつ誰一人としていなかった。何て言うか、かっこよかったんです。それで優越感があったわけです。やっぱり人より早くそういうの聴く、理解できるというのは。何て言うのかな、ロングヘアーだし、ちょっと大人の、ロックな世界に触れるというのは。で、最初に『アビイ・ロード』買ったんですね。僕、ハジレコって『アビイ・ロード』なんです。いまだにそれはどこかにおいてあるんですけどね。だけど、その次に2枚目に買ったアルバムというのが、なぜかビートルズではなくてイエス買ったんですよ。イエスの『危機』。なぜ買ったのかなって記憶は定かじゃないけど。神戸に出向いて行って、星電社あたりで買ったんじゃないかと思う。ちょっと違うものが聴きたかったのかな。当時、音楽雑誌と言えば『ミュージック・ライフ』だったんですけど、その影響かな。
サンタナが全盛期ということで、一番最初に買ったのは表紙がサンタナでした。それをもうなめるように全部読みますよね。次のページには何が載ってるかというのが分かるぐらいまで、読み倒したんです。そんな影響でたぶん、イエスが紹介されてたのかな。ジャケット見て、きれいだし惹かれてというのがあったのかもしれないけど。イエスはとてもよかったんですけど、続けざまにイエスを買うということはなくて、その次に何買ったのかというと、やっぱりビートルズに戻ったのかなあ。
しばらくずっとビートルズ聴いてたと思うんですけど、中学ぐらいになると、やっぱりギター、その辺に惹かれてね。周りは何かピンクレディーだとか天知真理とか、そういう世界でしたけど、僕はクリームを買ってたんですよね。
クラプトンがもう引っ込んでしまってて、復帰してきたのがレインボーコンサート、あれが出たぐらいのタイミングだったかな。一番最初に買ったクラプトンって、彼の最初のソロ作でした。いきなりスワンプ。あのころってヤングミュージックショーがあったりしたんです。かなりいろんなのを紹介してくれたかな。その影響もあったかと思う。
── やっぱりギターサウンドだったんですか、片山さんは。
そうですね。それからメロディー。いくらすごいプレーヤーでも、やっぱりソングライティングができなきゃ駄目です。
── あれは不思議なもんですね。どれだけ演奏うまくてもメロディーがどうしようもなかったら。
だから、クリームというのはそれが駄目だったんですよね。ろくでもない曲しか作れなかった。クロスロードなんかはすごいし大好きなんだけど、クリームのアルバムを聴いて楽しめたためしがない。だからね、ブランドフェイスを聴いたときは、すっごい感激した。誰のおかげだろう。ウィンウッドかな。スティーブ・ウィンウッドとか、あの辺の声が好きでね。共通性を持っているのは誰がいるかな。ポール・ウェラーとか。あとはちょっとフィル・コリンズも近いんだけど。
── ソウルだけど、あまり深くない。軽い。聴きやすいですよね。
そんなの聴いてたんですよ、中学生の頃とか。クリーム、エリック・クラプトン。同世代の人間が一番走りやすかったディープ・パープル、レッド・ツェッペリンというのは全然聴かなかったです。
── 今はどうですか。
聴かないですね。ツェッペリン、鳴ってれば聴くぐらいかな。ディープ・パープルはいまだに好きになれない。なんであんな格好悪いギター・リフがいいのか、さっぱり分からない。ライブ・ミュージック・ショーで全盛期のディープ・パープルのスタジオライブを見たんですが、すごかった印象が残ってるんですよ。だけど、アルバムを買う気にはとてもなれなかった。『スモーク・オン・ザ・ウォーター』がいい曲だとはとても思えなかった。アホな曲に思えて仕方なかったです。実際、歌の内容ってそうなんですけどね。高校生が学園祭であれをやる。みっともない。
── ストーンズはどうでしたか。
ストーンズは好きになっていましたね。ちょうどフェイセズのステージにキースが飛び入り参加したりとか。『ブラック・アンド・ブルー』のころから遡って聴いてましたね。それまではあまり良さが分からなかった。
── その流れでいうとやっぱりイエスは飛び抜けて浮いてますよね(笑)。
浮いてましたね。
── なんででしょう。
いまだに嫌いじゃないんですけどね。演奏力が高いのは文句なしに好きだけど。一通り聴いているんですよ。クリムゾンも聴いているし、ピンク・ロイドも聴いたし、EL&Pも聴いていますし。高校生のときは、AORまで聴いたんですよ。ボズ・スキャッグスも聴いたし、あと、ひどい話、ニュートン・ジョンまで聴きましたよ。今思えば、アレンジャーとかね。そういうのって、あの辺を聴いて勉強したというか。あの時代からじゃないかと思うんです、ジャケットをじっくり見て、バックのミュージシャンのクレジットとか、エンジニアとか、プロデューサーとか、あとスタジオとかをチェックしたり、なんていうのは。
07 そして、ザ・バンドを聴いた
── AORも聴いてたんですね。
AORを聞くのは短時間で終わったと思うんですけど、そのことで割とレンジを広く持てたというか。学生時代というのは、ハッピー・アンド・アーティーがウッドストック・マウンテン・レビューで日本に来ているにもかかわらず、そのころは全然聞いてなくてね。何を聞いてたかと言うと、パンクとニューウエーブ。
── パンク聞いてたんですか?
トーキングヘッズの初来日公演に行きましたね。
── そっちに行ったんですか。
迷ったんです。レゲエを聴くか、ニューウエーブを聴くか。
── そのころ70年代の後半ですよね。パンク、レゲエ。
77〜78年ぐらいじゃないですか。っぱりニューウエーブかなって、聴いてたんですけどね。
── そのころはロックを聴いてなかったんですか?
普通のロックはもうほとんど聴いてなかったんじゃないですかね。いや、聴いてた。でも、気持ちが行ってたのはパティ・スミスとかザッパとか。アート寄りのパンク系というのが好きだった。デヴィッド・ボウイ、ロキシー・ミュージック、イーノ。あの辺というのは聴いてたし。でも今聴いているのと全然違うよね。
パンクの中でもあまりロンドンのバンドは好きになれなかったですね。ニューヨーク系のほうが好きだった。でも、トム・ロビンソン・バンドなんて好きでしたけど。懐かしいな。その辺を聴いてて、それから戻ってきたのかな、紆余曲折。日本のアーティストを聴いたりとかね。そのころは東京にいましたけど、チャクラとか好きでね。
── チャクラ?
小川美潮というシンガーがいたんですよ。彼女のボーカルというのは独特の表現力があって、いまだに稀有な存在と思うんだけど。あの人はめったに活動しないから今は聴く機会はないんですけど、コマーシャルで声だけよく出てきますね。
── 声?
サンクスとかね。「すぐそこ、サンクス」。
── 声優ですか?
声優的な仕事が近年は多いですね。「アルバム、出せよ」って言いたいですけどね。だから、なかなかザ・バンドを聴くというのは遅かったんです。
── ボブ・ディランは?
ディランも聴いてました。ディランのアルバムで初めて買ったのは『欲望』でしたね。高校生のとき。
── あれはすごくかっこいいアルバム。
『欲望』から入る人って割といるみたいですね。メロディも良かったというか。切ない曲が入ってるし。ディランには珍しく、フィドルが入ってるし、エミルー・ハリスも参加してるし。ああいうテイストというのはディランに珍しいね。で、一通りいろいろ聴いて日本のアーティストも聴いたりしたあとで、あるときCDの時代が来て、まだ、そんなにCDがいっぱいリリースされてないときでしたが、ザ・バンドの『ロック・オブ・エイジス』を買ったんです。何気なく。
── そのころからルーツ系なんですか?
まだ全然そんなこと意識しなかったですけどね。
── 今までのビートルズから始まってイエスという話を聞いていくと、なかなかまだまだ遠いですよね。どこからその辺になったんですか?
どこから入ったのかな。
── 誰からか、やっぱり友達の影響とかあったんですか?
全然なかったです。音楽の話に関しては、同じくらい話ができる仲間もいなかったし。
── 兄貴の影響?
それも大きかったとは思うんですけどね。
── ギターですか?
ギターは学生のころしか弾いてなかったし。買えなかったし。いまだにエレキが欲しいと思っても買ってないですからね(笑)。
── それは要らないということですよ(笑)。
テレキャスター欲しいんですけどね。それはいいとして、何だろうなあ。なんでそんな音楽に行ったか…。
── バンド?
バンドはやってないですね。
── ソロ。
ないですね。
── ということは、ひたすらリスナーとして広く深く入っていった。
そうですね。
── それでどこかで、アメリカン・ルーツ・ミュージック、あるいはブルース、フォークというのに出会った。
とっかかりって、やっぱりザ・バンドと思うんです。
『ロック・オブ・エイジス』を聴く頃、器とか、そんなのがすごく好きだったんですよ。工芸、骨董とか、ああいうちょっと古色がかったものとか、何が良くて美しいかというのが、そのころ分かりかけてきたんですよね。物の収まり具合とか。新品のものにしたって、何か知らないけど味わいがある。その辺、うまく表現できないですけどね。僕はいつも「味わい」という表現をするんです。それとザ・バンドの音楽というのがビシッときたんです。変な話。
── 『ロック・オブ・エイジス』?
最初の音でガツーンとびっくりしてしまって、全部聴き終わって、これはすごいなと。なんで今まで気づかなかったのかなと。改めて『ブラウンアルバム』とか『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』を買ってきて聴き直したんですけど、いや、これ全然気がつかなかった、そんな感じですね。骨董に通じる世界だったんです。
── それが80年ぐらい。
80年に入ってからだと思うんですけどね。半ばぐらいじゃないですか。
── ものすごくゴツゴツした音ですよね。
器用な連中がやってる演奏じゃないなあと。だけど収まりがいいんです。これしかないだろうなみたいな。何かこう色のトーンが見える。
── ピーター・バラカンさんが若いころに、ちょうどニューアルバムとして『ビッグ・ピンク』を聴いた。あれで自分の音楽観が変わったということを何かインタビューに書いてましたけどね。それぐらい衝撃的な音で、いまだにそれは持続してると。
そうそう、言ってましたね。僕の場合は、サ・バンドでも『ロック・オブ・エイジス』が好きなんです。
── ボブ・ディランと一緒にやったライブ。
それは再発盤で、リマスターされたもの。ディランの演奏のやつはボーナストラックで追加された。最初のやつのCDは何もなしに、ただ単にザ・バンドの演奏だけなんですけど、そのほうがいいですね。
何かこう、ロビー・ロバートソンのMCがバーッとあって、ホーンの音がヒューっと鳴って、急にMCが終わってからドラムのカウントの音が空気を振るわすように響いてくるんです。『ドント・ドゥ・イット』という曲でスタートするんですけど、すごいなと。何曲目かにリックのボーカルのすごい曲があるんですけど、その絶唱にも泣けるような感動があった。改めて聴いたら、『ブラウンアルバム』って傑作で、『オールド・ディキシー・ダウン』ってすごいなあ。なんで分からなかったんだろうと。だから、ひょっとしたら・・・あれは人間の熟成を問う音楽なんですよ。だから、すごく若い子が「ザ・バンドがすごい」って言うじゃないですか。信じられない。そんな若い子が分かるのかなって。ある程度の人生経験だとか、疲れてきて、かなりくたびれてきたぐらいの人間じゃないと、この音楽は分からないような気がするんです。
── 僕も初め聴いたときは分かんなかった。全然いいと思わなかったんですよ、『ブラウンアルバム』は。それがね…
あるとき、来るんですよ。
── 10年ぐらいたってからかな、聴いたときにびっくりしましたよ。
すごいですよね。
── それこそロバート・ジョンソンのアルバムにも近い感覚。初めて聴いたときは全然分からなかったけど。『ビッグ・ピンク』もそうなんですけど、動揺するんですよ。ドキドキするというんですか。
なんで分からなかったのかなあ。そういう疑問が僕にずっとあったんですね。ザ・バンドの音楽をみんな分かってるみたいなことを言ってるけど、おれは分からなかった。若い頃は全然いいと思わなかったですね。
── あと、あの声だな。声。
それはあるでしょうね。
── あれは大きいと思うんですよ。違う人が歌ってたら、また違うものになっちゃうんですよね。
ステープル・シンガーズが歌った『ザ・ウエイト』なんて、かなり良かったですね。
── あれはいいですよね。めちゃめちゃいい。素晴らしいと思います。
『オールド・ディキシー・ダウン』はジョーン・バエズも歌ってて、それなりに悪くない。楽曲の良さかなあ。でも、何て言ったってやっぱりザ・バンドにはかなわないな。あるときから、それが来たんです、ガーンと。それで改めて追求していくと、ディランとザ・バンドのベースメントテープスにも出会っていく。その辺からじゃないかと思うんですね。この音楽が生まれたところはウッドストックなんだ。正しくは、録音されたのはウッドストックなんだと。僕もそれまではあまり分かってなかったと思うんですよ。ウッドストックと言えば、やっぱりフェスティバルですよね。でも、割と早いうちから、あの町が会場じゃなかったと知っていたんですけどね。ウッドストックから出てきた音楽というものを意識したのは、やっぱりザ・バンド以降かなあ。
── 場所と、そこから生まれた音楽って、よく引っ付けて語られることが多い。あれって不思議なんですけど、やっぱり真実があるんですかね。
あるんだろうと思います。
── 1つとか2つしか例がなかったら「それは偶然でしょう」と言いたくなるんだけども、そんなもんじゃないでしょう。ものすごくたくさんある。場所と音楽のつながりというのは。やっぱり影響があるんでしょうかね。
ブリティッシュポップというのは結構好きで、今でこそ再評価されているんだけど、バッドフィンガーなんて大好きでした。オリジナルアルバムで持ってたくちなんですけど。録音されたのがオリンピックスタジオ、エアースタジオなんです。彼らのちょっと陰りがあるような、そういう音というか曲というのは、ひょっとしてそういう制作している場所が影響してるのかなと、よく考えてましたよ。イギリスのロックグループって、なんでこんなに陰ってるのかなって。場所と音というのは関係がある。
── あると思います。
アイリッシュのミュージシャンなんて、モロ出てるしね。間違いないと思います。
── ミュージシャン側の意識というんですか、そういう土着性みたいなやつが音楽に現れるのかもしれない。メンフィスだったらサンスタジオで録音したとか、あると思うんですよ。いろんなところで、その場所で録音したという音の粒立ちというか、それが出てるような気がするんですね。
ただ、ザ・バンドがウッドストックで音楽をつくったといっても、あの音をウッドストックのイメージにしてると、裏切られるんですよ。ウッドストックって、さっきも言ったけど、あらゆる音楽が流れ込みやすかった。そういうことで、フュージョン系のアーティストとか、スティーブ・ガッドだとか、あの辺の一番いい音を出してる連中もウッドストックでよく録音してたりとか。要するに全然括れないです。
だから、あくまでもわれわれがよくイメージしがちな音というのは、ウッドストックと全然イメージが違うというか。それも一応ウッドストックサウンドなわけでね。とにかく一般的に言われてることと違って、フレキシブルにいろんなアーティストが集まりやすかったということだったと。
あとは音楽のタイプとして、割とセッションが中心なんです。そういう音楽の場合って、仲間がいるところに行かないとしょうがない。なぜボストンのアーティストとか、シティーのビレッジに集まってた連中が、こぞってこのスモールタウンに集まってしまうのか。それは友達がいるから。間違いないです。日本のように、「おれは関西だから関西にいたいねん」というようなこだわりがなくて、友達がいるところに行きたいという軽さで、あの町で集まっている。エイモス・ギャレットも行ってるのか、ジェフもいるのか、じゃあオレも行くかな、みたいな軽い感じで。歳とって「もう寒いところはごめんだから、モーターホームでいいからフロリダに行くんだよね」、そんな軽さが可能にしたのかもしれないですね。アメリカ人のそういうライフスタイル。
08 ウッドストック暮らし
── 冬は寒いんですか?
寒いです。気持ちいい寒さですけどね。ニューヨーカーはあれが好きなんですよ。気が引き締まるような緊張感を伴ったような寒さなんです。いい意味で。北海道の冬なんて行ったことないから分かんないですけど、大体、位置的には同じなんですよね。
凍える。しばれるというほどじゃないと思うんですけど、本当に硬い感じですので。だけど、だらっとしてないから、こたつがどうのこうのみたいなことはみじんもなくて、パキっとする。だから割と僕は好きでしたよ。体験したことのない寒さです。
やっぱり瀬戸内海、近畿地方で生まれた者としては、あれだけ雪が積もるという経験だってないし。寒いなあと思いますけど。家の中にいる分には、セントラルヒーティングでTシャツでOKなんですけど、外に出るときというのは、やっぱりしばれるなあ。
── 何を食ってたんですか?
米食ってましたよ。
── 日本の米じゃないでしょう。
カリフォルニア米ですね。今はもうなくなってしまったけど、ヤオハンがニュージャージーにあったんです。大体最低月1回ぐらいは買いだしと、シティーの刺激を求めて出かけていくんです。シティーを半日回って、帰りにヤオハンで日本食を買い込んで帰る。それが楽しみでしたね。焼きそばなんていうのは、氷でかちかちになってる。納豆なんかでも氷漬け。
── 納豆や焼きそばがあるんですか?
ありますし、マメに作りました。自家製納豆。前のパックのやつをちょっと残しといて、大豆を炊いて軟らかくしたやつを混ぜ込むというので、納豆作ったりしました。工夫というのは、ああいう不自由な生活ならではの利点なんでしょうね。楽しかったです。本当に、不便が。何かイマジネーションを刺激するしね。何も知らない、今まで知らない生活習慣の中へ入るというのは、それをおもしろがれるか、不便を感じるかどっちかに分かれるよね。僕は楽しめた。あともう一つは、ウッドストックで私設のアートスクールに通ったんです。
── それは奥さんじゃなくて、片山さんが?
二人とも。僕があまりにもハウスハズバンドで家に閉じこもる生活になってしまったので、彼女なりに外に引き出す方法を考えたんです。アートスクールで版画でもやってみたらって。別にアートは苦手じゃないですから、版画教室があったんで、そこへ通うことにしたんです。いいメンツがいてね。いまだに友達ですけどね。そこへ毎週末通って、楽しい付き合いができて。
── そのときは、息子さんはどうしてたんですか?
交代交代。ウイークエンドで、金曜日と土曜日がクラスがあって、金曜日に僕が行って、土曜日は奥さんが行ってというふうなので、交代で子どもを見る。だから、われわれが夫婦そろってどっかのショーへ行ったりということはない。ヘルパーみたいな人を雇えばいいじゃないかってよく言われたけど、日本人の子どもにはそういうのが習慣的にないから、それは難しい。だから必ずどっちかが家にいると。
── 1歳半のころに行って、帰ってくるころには3歳かな。その間の成長は大きいでしょう。1歳半から3歳といったら、もう激変しますもんね。赤ん坊から幼児に移り変わる時期ですよ。
よく言われるのが「三つ子の魂」。あれは「食の魂3歳」という気がしてるんですよ。三つ子というのはおなかにいるときからカウントされてるんだろうなと。うちの子が好きなのって、アメリカンフードなんです。アメリカンフードばっかりというわけじゃないけど、純和食、魚が駄目なんです。何が好きかと言うと、ピザ。
2年目から大学のチャイルド・ケア・センターに預かってもらったんです。大学の付属で、子持ちの人だって大学に通えるように、そういう施設があるんです。おかげで僕の時間がだいぶできたんですけど、そこでお昼ご飯で出されるものはピザ、マカロニ・アンド・チーズ、そういうのがやたら多かったんです。それになじんだみたいです。だから、本当に日本のこれがうまいという食事を、あまり喜ばないんですよ。
── 今は何歳ですか。
8歳なんです。小学校2年生になりますね。ところどころで英語がわずかに残ってるぐらいです。ほとんどもう記憶にないみたいですね。英語に関してはまた復活するらしいですけど。印象が強かったものは覚えてるみたいです。
── 生まれてすぐにウッドストックで暮らしたことがあるというのは、大きいことだと思いますよ。
ストレス大きかったですね。嫌みたいですよ。再びアメリカ行くなんて。
── 何が嫌だったんだろ。
やっぱりコミュニケーションですね。
── 言葉。
家へ帰ってくると親が日本語、しかも関西弁をしゃべってるわけですからね。親がまだアメリカ人で英語でもしゃべってると身についてきて、学校へ行って、こんな小さい子同士でも英語でコミュニケーションを取れたんだと思うんだけど。
── 二重生活だ。
二重生活ですよ。あれはかなりキツかったみたいです。初めての幼稚園デビューってあるでしょ。母親が連れていって大泣きされて、というやつ。それをやったの僕なんですよ。あれはきつかったな。車で連れていってね。向こうの担当の人に渡して。もう絶叫してましたよね。こっちも泣けてくるんですけど、突き放すようにして・・・。しばらく近くのスターバックスのカフェに行って、僕は僕でしょんぼりしてた。そういうことはすごく覚えてますよ。忘れられない。
── 子どもさんの音楽体験は、まだまだ未知数ですね。
家の中にディランとザ・バンドのレコードジャケットをフレームに入れて飾ってあるんです。そうしたらザ・バンドとディランの顔は分かるみたいですよ、雑誌みても。「渋いね、君」と言って褒めるんだけど(笑)。
── 全然違うものを好きになったりするかも。
でしょうね。今、ポケモン聴いてるんですよ。ドライブするときに、ポケモンかけろって命令が来る。しょうがないからポケモンをかけるんですけど、ある時、僕もこの本を書いてるときってすごい疲れてて、頭の中がぐじゃぐじゃになってるような時に、ドライブしてるとポケモンの主題歌を歌ってる女の子なんか、元気いっぱい歌ってるわけです。ああ、元気いっぱい女の子が歌ってるなあ。それだけでも音楽の力って感じるなあ、って。痛感したことがあるんですね。どんな音楽にだって力があるんだと。
09 I Shall Be Released
── 不思議なんですよ。なんであれで泣くんだろうと思うんです。ハッピー・アンド・アーティのライブで聴いてて、ツーと出てきたんですよ。なんでかなあと思う。
僕は後ろのほうで松岡さんと二人で泣いてましたけど。やっぱり『I Shall Be Released』とか『ベッシー・スミス』では、みんな泣いたりするんだなってね。
松岡さんは、二人との付き合いがあって、ようやく彼ら二人の演奏でこの曲を聴ける。それか、また日本に呼んでくることができたということで、すごく感慨深いんだろうと思うんですけど、僕ははっきり言って、彼らの音楽を聴いているとウッドストックの映像が浮かぶので、われわれの生活が浮かんでくるような感じですよ。
── みんなそれぞれに自分の何かを思い出すんじゃないかなと思うんです。
そうでしょうね。結構歳を重ねた連中が多くて、学生のころのこととかね。
── あのメロディかな。歌詞自体は別に悲しい歌じゃないから。どっちかというと前向きな歌でしょう。それを聴いて、あんなに感極まるものがあるというのは、やっぱり歌のメロディとか、歌ってる人の姿勢というんですか、声の存在感というんでしょうか、それがちゃんと響いてくる。
やってくれるだろうなとは思ったんですよ、『I Shall Be Released』は。やってくれるやろうなと思いつつ、本当に歌が流れてきた瞬間、もう駄目でしたね。
アメリカでも、大体最後の決めというときに『I Shall Be Released』ってやるんですよ。泣くことはないですけど、何も誰も言わないのにシングアウトするんです。ということが、毎回起こるんですよね。
── あれはつい口ずさんでしまうというか。
そうですね。それも最終公演では、中川イサトさんと村上律さんのギターとバンジョーも入って、すごかったですね。中川イサトさんは日本語で歌うんですよね。訳した、自分なりに変えた歌詞で。おもしろかったですよ。あまりそんな深く作った歌詞じゃないなあというのがよく分かるんですけどね。味わい深かったなあ。
── あの曲を日本語で適切に歌えたら、素晴らしいと思う。
無理かなあ。
── あれは一種俳句みたいなもんでしょう。俳句を英語にできないのと同じように、あの英語の歌を日本語にはできないような気がする。
そうでしょうね。
── 音符1個1個に言葉が乗ってるでしょう。日本語の五七五が乗ってるのと同じことだと思うんですよ。それを全然違う言語に変えるというのは、そのままでは無理だと思うんですね。
昔、忌野清志郎が『I Shall Be Released』を日本語で歌った。自分の作った歌が放送禁止になって、それを告発するような歌を『I Shall Be
Released』の替え歌でね。あれだけ完全に変えてしまうんだったら、まだいいかもしれないなと思う。昔、ディランIIでしたっけ、西岡恭蔵さんがやったあのバンドで『I Shall Be Released』を日本語でやりましたけど、全然違う歌になってましたね。
そうせざるを得なくなるね。ディランの歌詞はすごく難解で、イマジネーションを要求する歌詞ばかりなんで、あれをそのまま訳して日本語で歌うとなると、皆目意味が分からなくなってしまう。
だけど、僕はずっと日本のシンガーの歌というのはイマジネーションを刺激しない歌ばっかりで、なぜ当たり前な言葉しか並べないのかなって。ちょっと不条理な感じで言葉を並べたっていいんじゃないのかって思うぐらい。でも多分それだとヒットチャートとかに全然上らないし、駄目なんだろうなあと頭では理解しているんだけど、どうしてもチープな感じがしてしょうがないですね。
── 日本人のミュージシャンで、好きだという人はいるんですか?
高田渡さんが好きです。歌詞は山之口貘だったりするんですけど、深いなと思ったりしますね。あとは、武満徹のアルバムで石川セリが歌ってます、詩も武満なんですけど、すごく良かった。誰がいいかなあ。そんなに井上陽水は好きじゃない。割と限られる。
── 童謡なんて聴きませんか?
童謡は大好きですよ。
── 僕は童謡はすごいと思うんですよ。
本当にそうですね。
── 日本の歌でものすごく感じ入るのは童謡なんです。あれだけ少ない言葉で、あれだけ的確に物事を突いてる言葉というのは、日本のロック・ポップスでは到達できていない気がする。日本のロック・ポップスはわりと説明的なんですよ。これこれこうしたから、こうなって、僕はこう思うみたいな。でも童謡はそうじゃなくて、もっとストレートにポンポンとシンプルにいってる。それがものすごく響いてくる。
あと、テーマ。歌というのはラブソングだけじゃないんです。あまりにもラブソングが多すぎる。なぜ、そんなに男は優しくなってしまっているのか。彼女がどうのこうのって、それがもうやたら多いんで。何とかならいないかなと思う。
10 コピーライターという仕事
── どうしてコピーライターになろうと思ったんですか?
なんでかなあ。新聞社でアルバイトしてたんですよ、学生のころに。スポーツ新聞でしたけどね。ゲラ運んで、時間帯によって何版、何版と地方に行くほど早便。夕方に刷り上がったやつを持っていく。1日のうちに新聞というのは出来上がっていくんです。そんなところが好きでした。
── もともと文章を書くことに興味があった。
そうですね。何かそういうのが出来上がっていくのが、すごく興味があったのが最初なんですけども。整理部の人間がゲラに赤を入れて、原稿書いたりして。
スポーツ新聞の記者が殴り書きの原稿を送ってくる。テレックスを送ってくる。そんなのを見てたら、結構感動的で。
もともと本が好きだったというのもあるんです。決定的にね。兄弟二人ともそうだったみたいなんですけど。昭和30年代半ばから40年代にかけては、まだあまり物がある時代じゃなかった。本をあてがっておくと、おとなしく読んでいたらしいです。親に言わせると。
── それじゃあ自然な成り行きで出版社あるいは新聞社に行きたいなという気持ちはあったんですか。
ただね、出版社に行くとね、家に帰れない。
── 誰かに悪い話を吹き込まれたわけですか(笑)?
そういうのは現実として聞いてたりして。新聞社というのは、やっぱりかなり時間勝負な感じで、じっくり書いていくような世界じゃない。何て言うかな、編集者というよりは書きたかったんですよね。
── ライターですか。
ライターという世界は厳しい、なかなか暮らしていけないということも聞いてしまって。そのころ、ちょうど糸井さんとか仲畑さんとかの、コピーの時代がやってきたんです。コピーライターというのをやってみようかなと。
── 商品の宣伝文。
東京のコピーライター養成講座、宣伝会議。
── 行ったんですか。講師は誰でした?
糸井、仲畑、あの辺のそうそうたるメンバーがいたんですけど。
── ラッキーですね。
糸井、仲畑が宣伝会議の最後のときの講師です。
── それをモロに体験した。
そんなに意味があったのかななんて、今思えば分かんないですけど。
── 大事な意味があったんだと思いますよ。
自分はどんなコピーが好きかというのが分かっていくみたいな世界だったんですけどね。
── 書いて批評を受けての繰り返しの中で、自分を見詰めるというのは大事だったと思うんです。やっぱり何を書くかですからね。
でも、ろくでもない広告のプロダクションに行っていたんですよ。糸井さんが「初めて行ったプロダクションというのは、多少我慢しても長く勤めたほうがいい」と言って、そんなもんかなあと思って、最初に入ったプロダクションは2年半ぐらいいたのかな、一番最初にやったのは不動産広告ですね。不動産広告なんていうのは鍛えられる。鍛えてもらうにはいい題材だったのかもしれないけど、おもしろくも何ともないですね。
── 僕もやったことあります。不動産の広告。
今はおもしろいかなと思うんですよ。
── 不思議とね、30代後半ぐらいからおもしろくなるんですよ、仕事ってね。20代のころというのは、自分を出そうとするんですよ。
なんで不動産なのって。
── 違うんですよね。自分を出すんじゃなくて商品を出す。
設計概要だとか、手書きの時代だったから、原稿を僕らが書いたりしましたけども、空しいなあみたいなね。で、そのころはニューウエーブを聴いてた時代ですよ。怒りが(笑)。
── そっちに行ってた。
あったかもしれないね。フラストレーション(笑)。
11 ロビー・ロバートソン
── 70年代後半のポップミュージックシーンは、パンク、ニューウエーブ。
避けて通れなかった。
── そのときでも、延々とルーツ・ミュージック、あるいはブルース、カントリー、フォークをやってる人たちもいたわけです。
ウッドストック・マウンテン・レビューが来たのが78年ぐらい。ハッピーたちがね。そのときというのは、もうパンクが燃え盛っていたようで、あの時代なんて本当に好きな人しか見に来なかった。ほとんど表のところというかな、雑誌が紹介してる表の部分では無視されてる世界だったと思うんですよ。信念を持ってやってたと思いますよね。
ある年齢の頃から、聴いてる音楽のバックグラウンドが気になってきたというのは確かにある。この音楽は一体どこから来てるんだろうというのは、聞き込んでいくうちにやっぱり意識せざるを得なかった。ロックやブルースというフィールドでそれを追求し始めたら、アメリカ人たちのフォークソングだとか、ブルーグラスとかが浮かび上がってきたりする。
そういうことが気になってくると、バックグラウンドの感じられない音楽というのは軟弱に聞こえてくる。パンク、ニューウエーブって、意図的にそんなことを排除して作ってきたような音楽だから、それもありなんだということはよく分かってるんですけどね。いろんなものをベースにしてロックンロール、ロック、ハードロック、そんなものが生まれてきたはずなんだけど、作り手によってはあまりそれが含まれてないものもある。メインストリームの音楽は多分にそうだと思うんですけど、僕には面白く感じられなくなってしまった。一方で、ブルースの世界は、考えだしたらもう切りがなくて、誰もかれもがブルースと言うし、それこそ本当に頭でっかちな形になってしまうからね、ブルースを語り始めたら。
── そう考えると、僕はボブ・ディランて、ブルースの突破口だと思うんですよ。
そうなんですね。今ごろになって、えらくベタなブルースをやり始めたりして。あと、半端じゃないコンサートの量ね。今もやってるじゃないですか、ネバーエンディングって。
── 死ぬまでやるでしょう、あれは。
ところで、片山さんはどっちかと言うと、ロビー・ロバートソンには辛口ですよね。これは聞かないと駄目かな(笑)。
両面あるんですね。彼みたいな人がいなかったら、いい状態でのリミックスがされたザ・バンドの音楽を聴くことはできなかったし。
── 彼が権利を持ってるんですか。
曲を書いてるのは彼だから。というのは、彼のおかげで『ラスト・ワルツ』をいい状態で聴くことができたし。
── あれは素晴らしかったですね。
彼がいなければ、ザ・バンドもあれだけのいい曲を残すこともできなかった。僕はロビー・ロバートソンのソロアルバムって嫌いじゃないんですよ。最初のダニエル・ラノワに手伝ってもらったりしたやつとか。ワイルド・マグノリアスとロビーが『ザ・ウェイト』を演奏してるヴィデオ、見たことがあったな。
ごく最近のネイティブ・アメリカンの世界を追求したようなアルバムに関しても、割とサウンドトラックみたいな感じで聴くので、嫌いじゃないですからね。今ほとんど自分の新作を作ることなく、ザ・バンドの遺産ばかり追究している姿が表に出ちゃってる。
一番心が痛むのは、リック・ダンコが亡くなってしまったとき、ウッドストック中の人が悲しんだ。ロビー・ロバートソンは西海岸に暮らしていますよね。でもフェアウェルのセレモニーに来たんですよ、ロビーがウッドストックへ。で、スピーチしてした。どんなことをしゃべったのか知らないけど、彼をあれだけ追い込んだのは一体誰なんだと。ソングライティングの版権をロビーが独占した。ザ・バンドの音楽って、聴けば分かるんだけど、あれはセッションから生まれてきた音楽であって、けっしてロビー一人で書いた曲じゃないということは明らかなんだけど。リチャード・マニュエル、彼も自殺したけど、リックの晩年は悲惨なもので、生活苦ぐらいまでいってしまったんです。その原因ってなんだろう。リヴォン・ヘルムはそれを分かってるから、憎々しげに彼を見ていた、という話もよく聞いてます。
ザ・バンドの伝記本をリヴォン・ヘルムが書いてますけど、かなり辛辣にロビーのことをこき下ろしてる。読んだ人は気分が嫌になるくらい、ザ・バンドって実はこうだったんだって、そんなふうに思わされるぐらいな書き方。そんなこともあって、どうもロビーって分が悪い。僕はロビーのソングライティング、音楽性は評価してるんだけど、何か感情部分に行ってしまいがちなんですよね。また一人で儲けてるぜ、みたいな。
── 過去の遺産を掘り起こす。
でも逆に考えれば、そういうことをする人がいないと、オリジナル・ザ・バンドも古くなってしまうのも確かなので、あれはいいかなと思うんですけどね。僕がなぜああいうことを書いてるかと言うと、新生ザ・バンドがあまりにも無視されてるからです。もう分かった、過去のザ・バンドとの比較で語られたのではたまったもんじゃない、そんなことは一つの歴史だと。続いてるのは分かってるんですけど、新しいザ・バンドを純粋に評価しないと駄目だと。今のザ・バンドのスタイルというのは、リヴォン・ヘルムが一番望んでいたスタイルでね、どさ回りの。そんなことを評論家の人は誰も書かないから。
12 小さな文化
── 好きな本って、どんなのですか?
やたら存在感のある本というのは手にしているんですよ。美術系の本、李禹煥の本なんかすごく良くて、あれは多分活版印刷じゃないかと思って。もう字しかないんですよ。何も工夫もない。けど、すごくインパクトがあって、美しい。
── 行きました? 李禹煥さんの。
横浜の展覧会は行けなかったんですけどね、行った人が本を買ってきて、どういう行き違いか何か2冊買ってしまったみたいで、1冊くれたんです。
── あれは素晴らしい本ですよ。
でも今回、よく綱渡りできたなと思ってるんです。
── 片山さんのパワーですよ。
どうなるか分からないみたいなところとか、デザインのこととなるとほとんど未知数でね。「よく出せましたね」という声も聞こえてきてます……
── そうかもしれない。
心意気に感心したという声を聞いたことがあるんです。それは、ハッピー・アンド・アーティーの世界とか、アメリカン・ルーツ・ミュージック、それも特にウッドストックに特化したような音楽を扱った本を出すというのは、かなり異常なものだというふうなとらえ方をする人がいる。それを神戸の小さな出版社が出した。すごいね、これ。そういう意見もあるんです。よく出版社が理解して出しましたねってね。
── 僕にしてみても、毎回が挑戦みたいなもんです。採算は大事なんだけども、それだけでは本は残らないんですよね。もう出荷依頼は来てます。
すごくありがたいです。
── 出荷依頼が来て出荷する、返本はあると思うんだけど、繰り返し出荷する。すると、本はどんな人でも買える。それはもうありがたいことだと思う。扱ってくれるというのは。
正式に書店に並ぶというのは感動するだろうな。置いていただけるなんていうのはすごくありがたくてね。初めて置かれる日、その日はもう仕事を入れないようにしよう。
── 突然流通し始めるという感じになりますから。
東京の最終日に知り合った人。ライブに来て、しかも本を買っていただいたので、お礼のメールを打って、それに対しての返事なんですけどね。音楽ライターの方だったんですけど。温かいお褒めの言葉をいただいて。ありがたいです。
── これで思い切って棺おけに行けますよ(笑)。
本は死んでしまってもこれは残るからね。国会図書館にも入れていただけるし。国会図書館というのはある意味では棺おけかなと思いますけどね。
── 僕は思うんです。歴史をつくってるんですよ、本というのは。作者の思いというのは、もちろん個人的なものなんだけれども、それは社会につながっているんです。
もう意外な動きというのも始まっていて、誰かがブログに書いてくれたらしいです、こんな本があると。ブログのことを本人はまだ知らないだろうと、僕に知らせてくれた人がいて。そんなことって起こっていくんだなと驚いているところです。
── ちょっとずつ広まっていく。それが文化になるんですよね。小さい文化なんだけれども、今までになかった文化。これは大きなことだと思うんです。
この本は、誰も書いてくれなかったんです。誰かが書かないかと思っていたところ、自分で書いたと。これを読んで誰かがCDを買うとか、その辺の音楽に注目しようというふうな気持ちになってくれる人がいるだろうから、それだけでやったかいはあったなと思っているんですけどね。
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インタビューは以上です。
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