美術書庫
美術展記事
平田憲彦
佐伯祐三─熱情の巴里─
大阪市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室
2004年10月9日~12月12日
我々の心を動かす何ものかのひとつを表現と呼ぶとすれば、実は表現には、作者は存在しない。日差しや風や山並みや、雨音や夕暮れや川のせせらぎ、そして花や大地や空や海に大きな感動を受けたとしても、そこには作者はいない。また、活気あふれる青年や美しい女、無邪気な子供にも作者はいない。
表現には、かならずしも作者が必要というわけではないのだ。ましてはその評価なるものも実はどこにもありはしない。自ら受けた感性の動揺を、自身の対象化という心的現象を経て自らが為し得る表現へと変容させる人を芸術家と呼ぶのであれば、芸術家は作者などではなく、むしろ媒介者なのだ。あくまでも、芸術家は媒介者という仮の姿としてあるのである。
見なければ描けないが、見たままを描くのではなく、しかし描かれたものは見られなければならず、ところが見えるということを越えた何かがなければならないという、絵画が宿命的に孕んだ本質的矛盾とどうかかわり、いかに自らの表現として着地させることができるのか。
芸術表現としての絵画の歴史は、その格闘の歴史でもある。
1898年に大阪で生まれ、わずか30歳という若さでパリに眠ったひとりの画家。
仮にその名を、佐伯祐三と呼ぶことにする。
活動の地を渇望し巴里に移動した佐伯は1924年まで光と空気を追い求め、さながら印象派やセザンヌの影法師のような彷徨い方をしたあげく1925年、突如として変貌する。その変貌たるや、ただごとではない。もはや別人といってもいいくらいの作風の変化は、ヴラマンクによる恫喝ということだけではすまされない、深い心理的葛藤と自己の対象化がそうさせたはずだ。
いうまでもなく、芸術家は見たものをただ見ているのではない。そこに見えぬものを見、だからこそ、それを見える絵にすることに魂を削るのである。“魂”と書くとあまりに安易で実もフタもないのだが、つまりは、命である。本当の命である。これを削り取りながら自身の感動を対象化し、表現へと変容させながら筆を進める。
佐伯にはきっと、見えていたのだ。しかし描けていなかった。1924年までの絵は、たしかに美しい。しかし、見え、感じているはずの何ものかがそこにはなかったのだ。それを本人がいちばんよく分かっていただろう。だから、ヴラマンクに会ったのである。言われることは分かっていたはずだ。しかし、会った。そして自らを否定されたのだ。
画家にとって、描いた絵は自分自身とほとんど同じである。その絵をアカデミックだとこき下ろされたという逸話が残っているが、佐伯にはきっと分かっていたはずなのだ。むしろ、そういった客観的な言葉が必要だったと考える方が自然だろう。なぜなら、アカデミックということ自体には、良いも悪いもないのだから。アカデミックとは、絶対的価値としての位置づけにはなりえない。相対的なものなのだ。
佐伯は自身の絵画創作への不可避的劇薬として、自分をギリギリまで追いつめる外来的エネルギーを必要としていた。それが、巴里という町であり、ヴラマンクという画家であり、非アカデミックという概念だった。自らが葛藤する問いへの解を、ここで求めたのだ。
それは驚くべき効果をあげた。そして、そのことで自らの命を削ることともなった。しかし、それは当然かもしれない。精神的にも肉体的にも、劇薬が必要だったならば、命は必然的に縮まるのだ。
自画像の顔を削り取り、寒空の中、町へ繰り出しイーゼルを立てる。風邪をひく。あたりまえだ。当然だろう。しかし、描くのである。描くには、佐伯の場合その場所にいなければならないのだから。写真を撮ってきてそれを見ながらあたたかいアトリエで絵を描くということは、佐伯の場合はありえない。空気を感じ、風を浴び、人の気配を受けながら描くべき絵を描くのが、佐伯祐三なのだ。
そして、驚くべき絵が出来上がってゆく。
それは、誕生といってもいい。
壁である。
佐伯は壁に命を見いだした。
時間や欲望や悲しみを、佐伯は壁に見いだしたのだ。
これを才能と呼ぶにはあまりにも安易だ。しかし、壁に人間の命を見いだした佐伯祐三は、まぎれもなく天才といっていい。
壁とは、実は人工的なものなのだ。そもそも、壁など存在しないはずのものが、人が家を建て、町を作るときに、人の欲望の臨界点として具現化されたものが壁なのだ。自然界や動物の世界に、物理的な壁は存在しない。人間であるからこそ、壁という存在は成り立つのである。そこには、他者と隔絶する表徴ともなり、自己顕示する場ともなり、汚れ崩壊すれど決して消え去ることはできない非情の暗喩ともなる。
それが、壁なのだ。
佐伯祐三は、その壁という存在を凝視した。そこに、人間の命を見たのだ。
おそろしいまでの執着心で描き続けられた佐伯祐三の壁は、見れば見るほど、命が脈打っている。そして、本物の絵を見ればたちどころにわかるだろう。キャンバスに描かれたその壁は、絵の具が隆起し、擦れ、引っかかれ、殴られ、やさしくなでつけられ、人の気配と空気が塗り込められているのだ。これが、絵画の力なのである。
タブローの限界をもってして絵画は終わったと論じる向きには、今ここでもういちど、佐伯祐三の壁を見てもらいたいと思う。ここには、見えるもの以上の生々しい魂が、今も体験的現象として脈打っている。
壁を発見した佐伯は、ついに見えるものを越えた表現を為し得た。それが、このおびただしい壁の絵に、今も息づいているのだ。
絵画とは、表徴との戦いといえるかもしれない。視覚と感覚との間に横たわるものをどうとらえるのか。そこにこそ、なぜ描くのか、という根元的な問いかけがあるのだ。
佐伯祐三の絵には、その痛々しいまでの魂があふれているのである。
肉体的限界点を精神的限界点が突破するまで絵を描き続け、佐伯祐三は眠りに落ちた。
その2週間後に、小さな娘が後を追うように世を去ったことを、佐伯はもちろん知らない。
それは、我々が知っていればいいことだろう。
もしも絵画の神様がいるのであれば、その神様はきっと、佐伯に娘の死を知らなくてすむような配慮をしてくれたのだ。その壮絶な画業と引き替えに。
※
今も佐伯祐三の作品が見れるということの幸運を、何に感謝すればよいだろうか。
多くの知られざる人々の努力が、きっと我々にその絵を見させてくれている。しかし、やはり佐伯祐三自身の命に感謝すべきだろう。
このような絵を見れること、それは見る人にとってかけがえのない体験になるだろうから。
絵画は死なない。
佐伯祐三の絵を見れば、それは一瞬にしてわかるだろう。
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