美術書庫
美術展記事
平田憲彦
ピカソ展─幻のジャクリーヌ・コレクション─
大阪南港・ATCミュージアム
2004年年5月30日~7月11日
ピカソは作風を変貌させながら成長していった画家として知られ、それは特に、身近な女性の存在が大きく影響していたといわれている。この『新古典主義』とも呼ばれる時代は、妻であったオルガが、まだキュビズムの方法論を追求していたピカソが描いた自身のポートレイトに対して『これは私ではない、私に見えるように描いてほしい』というようなことを言われて始まった、と伝えられている。そうして始まったのが、“古典”をピカソなりに新しく解釈した『新古典主義』と言われる時代である。
とはいえ、“古典”とは何なのか、“新古典”とは“キュビズム”とは一体何か、ということも問題だ。そういう風に考えると、そもそも作風を時制から捉える『○○時代』という考え方がそもそも絵画という表現には不毛な捉え方なのである。描く側からすると、『○○的』などと考えて作品に向かうことは、まずない。あくまでも五感と思考があるのみで、そうして出来上がったのが絵画作品だからだ。批評する側や鑑賞者からはそういった『○○時代』というくくりはベンリだろうが、実は絵画や表現の本質からはほとんど関係ない。
作風の変遷というのも、とりたてて騒ぐことではなく、むしろ当たり前なのである。ピカソのように80年も絵を描いていれば、作風が変わって当然なのだ。ピカソがまだ10歳にも満たない頃に描いた手の緻密なデッサンから、晩年のシンプルなドローイングまで、実はピカソは変わっていない。確かに、使う画材やモチーフは変わっただろう。テクニックも変遷があっただろうし、結果目に出来る作風も変わっていっただろう。しかし、ピカソが何を描こうとしたか、ということは全く変わってはいない。それは、今回の美術展やピカソ美術館に行けばよりよく理解できるだろうが、80年に及ぶ作品をダイジェストに掲載したアンソロジー的な画集を見ても、たちどころに了解できるだろう。
ピカソが描こうとした変わらないもの。それを考えるキーワードが『写実』なのである。
学校へ行っている頃、美術の時間に『見たままを描きなさい』と言われなかった人はまれだろう。見たままを描く。見たとおりに描く。それは、別に間違ってはいない。しかし、このコトバは絵を描くということがなんなのか、自分にとって何を意味するのかがハッキリ了解している人に対してのみ有効なのであって、そうでない人にとっては、実は危険な言葉である。
結論から言うと、見たままを描くからつまらない絵が出来る。
『見たままを描きなさい』と言われて良い絵を描ける人は、はじめから言われなくても良い絵が描ける人なのである。良い絵を描く素養というものは、実は誰にでも与えられている感性として備わっているのだ。それを先天的に絵に出来る人もいれば、そうでない人もいる。問題は、『見たままを描きなさい』という指導が、自らの感性を絵画表現することが先天的に備わっていない人に対して逆効果である、ということだ。その逆効果は、あろうことか絵画に対する回避や嫌悪、無関心を生む。
では、良い絵とは何なのか。それは、自ら得た感動を絵画的表現として形に出来た絵のことを言う。表現形式は問題ではない。夕焼けが美しく、それに対して涙が出るほど感動したのであれば、描き上げた絵からそれが伝わればいいのだ。他者に対して伝わることが、絵画的表現の達成を判断できる有効な指針だが、別に他者に見てもらうということが絶対的に必要かというと、それはそういうわけではないが、他者に伝わる方がより良い。そう、その絵を見た人が、作者が受けた感動を同じ感性として享受し感動するのならば、それは良い絵である、間違いなく。
美しさに対する感動でなくても、哀しさであったとしてもうれしさであったとしても、それは同様だ。怒りでもいい。おもしろい、でもいい。感動と書いたが、無感動という感動でもいいのだ。『見たまま』という言葉、そういった考え方は、絵とは見るものであるとの誤解が生んだ一種の悲劇なのである。絵画表現とは“視覚”上の出来事ではない。要は、表現の根幹は常に内的なものであるということなのだ。したがって、結果描き出された作品は、見るものではなく感じるものなのである。それが絵画的体験に他ならない。
子供、というか幼児が描く絵が往々にして素晴らしいのは、彼らが内的要因によって大きく感動し絵を描いているからに他ならないのだ。何に感動しているのか。それは線そのものであり、描くということが変化を生み出すという事象なのだ。ペン先を紙にこすりつけて生まれる線描がおもしろいから、ひたすらにそれを続けようとする。そこにあるのは決して『見たまま』ではない。何かを見て描いているのではないのだからあたりまえの話だが、生まれ出てくる線という存在に感動するということからだけでも、絵は成立するのである。
『写実』という言葉には、『見たまま』という誤解がつきまとっている。そうではない。“感じたまま”、ということなのである。夕焼けは眼で見るものだろう、という意見もあるかもしれないが、そうではない。別に、眼に見えるものだけが感動するということではないはずだ。例えば生まれてきた我が子を抱え上げたときの、暖かさ、軽さ、しかし思ってたよりも重く、日常ではありえない不思議な臭いがする、そんなことに激しく感動したとする。それを絵にしたい、という思いこそ、絵画的表現の根幹を成すものなのである。それがうまく表現できるかどうか、それはわからない。描いてみなければわからないし、描き上がったところで作品から自ら受けた感動が他者に伝わるのかどうかはわからない。しかし、そこにはすくなくとも『見たまま』という視覚上のことを大きく逸脱した魂の動揺があるのだ。それこそが、『写実』なのである。
ピカソは、その『写実』を常に追い求めた画家である。
『青の時代』などど聞いて、ああ、そのころのピカソは寒色系を多用してね、それは親友が亡くなって落ち込んだことがそもそもの発端でね、などど語ってはいけないのだ。悲しみを盛れるのは別に青などの寒色系の色だけとは限らない。『キュビズム』と聞いて、立体を多角的に捉え、平面上に再構成したものだ、などと捉えるべきではない。
例えばギターという楽器は、その音を聴く位置がどこなのかによって音響が変化する。真正面の音、横に回ったときの音、後ろから聴く音なんてまるで違った音に聞こえる。そして、同じひとつのギターから、さまざまなメロディーやリズムが生み出される。そこに心の底から感動したとしたら。そして、その感動を、自らが受けた魂の動揺を絵画的表現としたら。それはどういった作品になりうるのか。
ピカソはそれを絵にした。それがたまたま『キュビズム』と呼ばれる方法論で語れるだけなのである。ピカソは、他にもっと自分の感動を絵画的表現にするにふさわしいと思える手法があれば、そうしただろう。
ギターを描いた作品を見て、そこに音響を感じ取れないのであれば、もうその絵について語るべきではないとさえ言えるのだ。
絵とは、見たままに描くものではない。
同様に、描かれたものは見るだけのものではないのだ。
Copyright © 2003- Banshodo, Hirata Graphics Ltd. All Rights Reserved.