美術書庫
美術展記事
平田憲彦
もの派
李禹煥 余白の芸術
2005年9月17日~12月23日
横浜美術館
もの派-再考
2005年10月25日~12月18日
大阪国立国際美術館
2005年の秋、期せずして二つの展覧会が関東と関西で開催される。
二つの展覧会は、世界に認められた日本発の2つの美術運動の内、その一つを同じ主題にもち、しかし、別々の人たちが、別々の考えで、別々の場所で企画し、展覧会実現へと奔走したという、数奇な運命をもつことになる。
その主題は、1970年前後に自然発生的に20歳代の若者たちによって生成され、やがて『もの派』と呼ばれることになる美術運動を指す。
もの派。
この軽く、中身のなさそうでいてどこか気になる発音の、しかし、実体をその単語に内包せず、まるで煙に巻くかのような、この『もの派』とは、いったい何か。
世界に認められた日本発の2つの美術運動とは、『具体美術』と『もの派』であるが、『具体美術』は、結局のところ抽象美術であるかどうかはさておき、ともかくその単語に孤立性はない。しかし、もの派。これは、理解や融和、親和性を強く拒絶し、みずから孤立を選んだかのようなコトバの響きがある。
李禹煥氏は言っている。
『はじめに『もの派』という言葉ですが、いつの間にか使われるようになりましたけれど、僕は初期にも74、5年にも『そういう言葉はおかしい』と何度も説明してきました。しかし、だめでしたね。その後、『まあいいや』と思うようになり、自分でもやっと使うようになりました。』(日韓交流通信・もの派の人々・李禹煥インタビュー)
峯村敏明氏の論文を引用すれば、それがさらに明らかになる。
『「モノ派」の呼称は、作家たち自身の意思に沿って初めから存在していたわけではない。むしろ、1970年代の初めに、モノ派(とりわけ「李+多摩美系」)を批判的な目で見ていた人々—筆者もその一人だった—の間で半ば蔑称として通用していた言葉である。だから、この呼称はつい最近まで「李+多摩美系」の作家の大多数から不快視されていたし、いまなお、榎倉、高山、原口らからは、それが「李+多摩美系」を指す言葉であったからという理由もあって、疑問視されている。』(峯村敏明 「「モノ派」とは何であったか」)
もの派とは、何か。
いったいどういう美術だったのか、あるいは、どういう美術であるのか。
そして、なぜ2005年の秋に、まったく違う場所で、しかも、日本の横浜と大阪という、東西を代表する現代都市で、『もの派』を主題とした大規模な美術展が開かれることになったのか。
その答えは、紛れもなく美術館の中にある。
もっとはっきりいえば、その開催中の美術館に足を踏み入れた、我々自身に、その答えはあるのである。
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