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Kind of Jazz Night

さんふらわあ JAZZ NIGHT 初代プロデューサー
大橋 郁がお届けする『KIND OF JAZZ』。
うろたえず、媚びない。
そんなジャズにこだわる放浪派へ。
主流に背を向けたジャズセレクションをどうぞ。


撰者
大橋 郁
松井三思呂
吉田輝之
平田憲彦

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第153回

ディス・イズ・バック・ヒル
バック・ヒル
撰者:吉田輝之


【Amazon のディスク情報】


こんにちは、8月の暑いさかり、齢56歳で2歳の子供を須磨海浜水族館や神戸アンパンマンミュージアムに連れて行って世話をしている吉田輝之です。

さて、今週の一枚は「THIS IS BUCK HILL/BUCK HILL」です。



もう10年ぐらい前だろうか、阪神百貨店のレコード市に行った時のことだ。会場に入った途端、約10メートル先のジャズコーナーの棚にある一枚のレコードジャケットが目に飛び込んできた。僕はそのレコードを手に取るため直進しあと2メートルまで近づいた時、ある男性が唐突に目の前を横切り、そのレコードを一顧だにせずスリのごとく抜き取っていったのだ。レジに足早に向かうその男性を僕は茫然と見送った。年の頃は30代後半、眼鏡をかけ少し髪の長い痩せた男性だった。

その時にかっさらわれていったレコードが今回紹介する「THIS IS BUCK HILL」だ。

ちなみに、皆さん。このレコードジャケットの、実に暑苦しい表情でテナー・サックスを吹いている男性を御存知でしたか。佐藤蛾次郎さんでも吉田輝之でもないですよ。タイトルの通り、バック・ヒル(BUCK HILL)というワシントンD.Cの方なんですよ。

このアルバムはバック・ヒルが1978年にスティープル・チエィスに吹き込んだ初リーダーアルバムで、その時彼は既に51歳だった。サイドのピアノはケニー・バロン、ベースはバスター・ウィリアムズ、ドラマーはビリー・ハートと文句のつけようのないメンバーで、実際にバックの演奏は素晴らしい。

僕はこのレコードを元町のジャズ喫茶JAM JAMで初めて聴き感銘を受けずっと探していたのだ。彼のサックスを最初聴いた時、その暑苦しい顔からやはり暑苦しさでは負けていないブッカー・アーヴィンを連想したが、聴き進むと全然違う。早いテンポの曲ではググッと豪快な迫力のある演奏もするのだが、むしろモダンなレスター・ヤングといった趣がある。

いろいろ調べてみるとレコード自体はそんなにレアというわけではないのだがなかなか見つからず、特に阪神デパートで逃してから運に見放されたのか、5年ぐらい経ってようやく中古CDで手に入れたのだ。

内容はぜひ聴いてくださいとしか言いようのない出来だ。

前述したように、バック・ヒルがこの初リーダーアルバムを吹き込んだのは51歳の時だ。表のジャズシーンへの登場が遅れた理由の一つは彼が30年以上に渡りアメリカ合衆国郵便公社に勤務、つまりワシントンD.C.で「ポストマン(郵便配達人)」として働いていたからだ。



バック・ヒルは1927年生まれというから、マイルズやコルトレーン(1926年生まれ)と同世代だ。彼はワシントン.D.C.に生まれ、ずっとその地で過ごしている。13歳の時にサキソフォンを始め、1943年16歳の時にプロとなった。
戦時には陸軍音楽隊に一年間いたが、戦後結婚して生活のため昼はパートで郵便配達の仕事に就き夜クラブで演奏するようになった。それでも50年代後半にはチャーリー・バードのバンドに加わり音楽生活に専念してレコーディングも経験し地元ではかなり知られる存在となったようだ。
しかし、5人の家族を養うため60年頃から音楽だけではやっていけなくなり、郵便局の正社員となり音楽からは遠ざかったが、70年代に入り再び夜はクラブで演奏するようになったという。

1973年に地元のアレン・ハウザー(ALLEN HOUSER)というトランペッターが地元のインディーレーベルで吹き込んだ「NO SAMBA」のレコーディングに加わったが、このレコードがマイナーシーン(日本ではジャズ喫茶)でかなりの注目を呼び、このことがスティープル・チェイスでのレコーディングに繋がったようだ。

あと別の要因として、彼がワシントンD.C.で生まれ活動していたことが関係していると思う。
ワシントンD.C.の人口は約80万人、その5割が黒人だ。全米で2割程度が黒人人口だから同地での黒人濃度は非常に高く「チョコレートシティ」と言われている。しかし、同地のジャズシーンさらに黒人音楽状況は我々日本の黒人音楽ファンにとって、ずっと「謎」だった。ニューヨーク、シカゴ、デトロイト、フィラデルフィア、ウエストコースト、メンフィスのようなジャズや黒人音楽の「場」がまるでわからなかった。
同地出身者ではデューク・エリントンという超大物がいるが、エリントンとワシントンD.C.の音楽シーンとは結びついてこない。例えばカウント・ベイシーとカンザスシティが極めて密接な関係にあるようには。

10年年程前だろうか、ワシントンD.Cで活動しているソウルミュージシャンが集まったコンサートを収めたあるDVDをみて、僕は「ワシントンD.Cは閉じた空間だ」と直感した。他の地域ではミュージシャンは(黒人に限らず)多くはロードに出て、各地で名を知られていく。しかし、ワシントンD.Cでは黒人の聴衆が多いため、ロードに出たり、全米(さらに全世界)へのパブリシティという必要性もなかったのではないか。同地でも当然人種差別はあっただろうが、ここでは黒人はマイノリティ(少数派)ではなくメジャー(多数派)なのだ。白人の手が介入せずに黒人だけで生きていき完結してしまう場所だ。



音楽家、というか「芸術家」はどんなに困窮しようと他に職を持つことなく「芸術(音楽)」に専念すべきだという勝手な意見もあるかもしれない。しかしは多くの音楽家が音楽だけではなく、生活のため他に職を持っているのが現実だ。家族を養い生きていくためには当然だと思う。
ただ、バック・ヒルの場合、何と言おうか「生活のためにやむなく」郵便配達の仕事をしていたという感じがしないのだ。30年以上に渡り、ある仕事を続けて行くということはその仕事になんらかの意味を見出していないととても続けられるものではない。

同年代の多くのジャズマンが60年代から70年代の初頭にかけて燃え尽き、または押し潰されていくなか、彼が昼は市井で郵便配達に勤しみ夜は音楽家としての腕を磨いていったことに、僕は尊敬心を抱かざるを得ない。
彼が「WAILING POSTMAN((サックスで)むせび泣く郵便配達人)」や「SWINGING POSTMAN(スウィングする郵便配達人)」と呼ばれているのは、決して揶揄した表現ではなく好意を込めた呼び方だろう。



さて、このレコードに話を戻そう。

A面の共演しているバスター・ウィアムズの「TOKUDO」、ジェローム・カーンの「YESTERDAYS」、ロリンズの「OLEO」というスタンダードは文句のつけようのない演奏だ。サイドメンを含め全員が燃え上がり一挙に引きずり込まれてしまう。
しかし実は、続くバック・ヒルのオリジナルとなる「I'M AQUARIUS」「S.M.Y」「TWO CHORD MOLLY」がもっといいのだ。天衣無縫にどこまでも伸びやかに吹いていくバック・ヒルに惚れ惚れしてしまう。何の衒いもない実にピュアな演奏だ。

70年代のハード・バップリバイバルから生まれた屈指の傑作だ。



【 蛇足たる補足 】
遅ればせながらメンバー紹介です。

ドラマーはビリー・ハート(BILLY HART)
もうウェス・モンゴメリー、ジミー・スミス、ハービー・ハンコック、マッコイ・タイナー、スタン・ゲッツ、マイルズ・ディヴィス、ファラオ・サンダーズ他数え切れないくらいのありとあらゆるタイプのジャズマンとグループを組みレコーディングした、おそらくジャズ史上最もいろいろなヒトと共演した驚異の「なんでもこいドラマー」です。当アルバムでも見事なサポート。さすがです。

実はビリー・ハートはワシントンD.C出身でバック・ヒルのお弟子さんなのです。バック・ヒルがスティープル・チェイスにレコーディングしたのはビリー・ハートの紹介によるとのことです。いい話ですね。

ベースはバスター・ウィリアムズ(BUSTER WILLIAMS)
このヒトもビリー・ハートと同様に「なんでもこいベーシスト」ですね。どれだけのジャズマンと共演しているのでしょうか。
今回のレコードでも取り上げられている彼のオリジナル「TOKUDO」は「得度」のこと。1972年に奥さんが交通事故にあい仏教(法華経)に帰依され、ハービー・ハンコックやウェイン・ショーターを「その道」に導かれたとのことです。

ピアノはケニー・バロン(KENNY BARRON)
この方、すごく有名ですが、私とはあまりご縁がなく、恥ずかしいことに殆ど知りません。「ケニー・バロンならこれを聴け」と、どなたかご教授下さい。



【 本当は本文になるはずだった補足 】
シャーリー・ホーン(SHIRLEY HORN)というワシントン.D.C.出身の女性歌手が80年代に注目を浴び、日本でも何枚かのレコードが出された。似た名前で「リナ・ホーン」という有名な女性歌手がおり僕は当時よくこの二人を間違った。シャーリー・ホーンは肌が白く白人歌手として紹介されることもあるが、実際は黒人だろう。アメリカではアメリカに連れてこられたアフリカ系人種の血が混じっていればそれは「黒人」なのだ。
歌い方も、黒人的とされるフェイクするスタイルとは対極にあり抑制された「楷書」だが、情感のこもったフィーリングは「黒人」のものだ。さらに彼女は弾き語りをして素晴らしいピアニストでもある。

彼女が紹介される際に必ず言われたのはマイルズ・ディヴィスとの関わりだ。
はっきり言ってマイルズのホーンに対する「入れ込み」は尋常ではない。

1960年頃、彼女が26歳の時に、彼女のレコードを聴き感動したマイルズは彼女にコンタクト(電話)を取りニューヨークに出てくることを強く勧めた。マイルズはクラブのオーナーに「俺が出演する前座に彼女を出してくれ。そうでなければ俺は演奏しない」と言ったという。それだけに止まらず、1963年のマイルズの「SEVEN STEPS TO HEAVEN」では3曲もホーンのレパートリーを取り上げているのだ。

弾き語りを得意とする彼女はオーケストラをバックで歌うニューヨークでの生活に馴染めなかったなど幾つかの理由でワシントン.D.C.に戻ってくるが、70年代の後半、オランダのジャズフェスティバルで再び注目をあび、やはりビリー・ハートの尽力でスティープル・チェイスのレコードで復活した。1990年にはマルサリス兄弟とともにマイルズが「歌伴」をするレコードを出し、98年には彼女がマイルズへのトリビュートアルバムを出した。おそらくマイルズのレコーディング歴で1945年の初録音を除き唯一の歌伴のレコードではないだろうか。
1980年、マイルズが復活して出した「THE MAN WITH THE HORN」の「HORN」は実はトランペットではなくシャーリー・ホーンのことだった(すいません。これはネタです)。

ともかく、マイルズの生涯でここまで積極的に関与した歌手は唯一シャーリー・ホーンだけだ。

一方、バック・ヒルはシャーリー・ホーンの何枚ものレコーディングに参加し、彼女はバック・ヒルのことを「古くからのとても大事な人」とインタビューで答えている。さらにバック・ヒルは若い頃からワシントンD.Cに演奏に来たマイルズと共演しており二人は知り合いだった。

実は私、昔から、バック・ヒル、シャーリー・ホーン、マイルズ・ディヴィスとの「三角関係」に多大な興味を持っておりました。
しかし、今回改めていろいろ調べましたが、記録ではこの三人の「男女関係」の事実は出てこないのですね。60年当時バック・ヒルは5人に家族を養うために郵便局に勤め、マイルズは60年にフランシス・テイラーと結婚。シャーリー・ホーンも既婚者でワシントンD.Cに戻ったのも娘の教育が一因という状況で、みんな自分の家族で忙しいのだ。



しかし、50年代から常にジャズ界の中心におり「帝王」と呼ばれたマイルズとワシントンD.Cで郵便配達をしていた「無名」のバック・ヒルが、(若い頃)美しくきらめく様な才能のあったシャーリー・ホーンを介してどのようなことがあったのか、私は「勝手」に想像してしまいます。



This Is Buck Hill
Buck Hill

1. Tokudo
2. Yesterdays
3. Oleo
4. I'm aquarius
5. S.M.Y.
6. Two chord Molly
7. S.M.Y.

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