大橋 郁がお届けする『KIND OF JAZZ』。
うろたえず、媚びない。
そんなジャズにこだわる放浪派へ。
主流に背を向けたジャズセレクションをどうぞ。
大橋 郁
松井三思呂
吉田輝之
平田憲彦
撰者:大橋 郁
私は、アメリカの野球史にかつてあったニグロリーグなる黒人野球の世界で活躍したサッチェル・ペイジという人物に、長らく惹かれていた。今回は、アメリカが生んだ二つの偉大な創造物、野球とジャズについて書きたい。
1.野球とアメリカ人
ニューヨークのブルックリンにある、かつては隆盛を誇った遊園地コニーアイランドでは、毎年7月4日の米国独立記日に名物ホットドッグの早食い競争がある。かつて4人の移民が、誰が一番愛国心を持っているかを競うために、チェーン店「ネイサンズ」で、ホットドッグの早食い大会を開いたのが始まりらしい。我々日本人から見れば、どことなく馬鹿げたことのようにも思える。しかし、アイルランド系、イタリア系などの移民で成り立っているアメリカという国には我が国で云うところの、「大和魂」とか「武士道」というような、目には見えないが、なんとなくその国民性を律している精神的基盤がない。元はアイルランド人だったり、イタリア人だったりする移民にとって、アメリカ人になることは、星条旗に忠誠を誓うことであり、大統領を尊敬することである。そしてアメリカ人になったことを示すためには、いかに国を愛しているかを示す必要が生じる。それをカタチに表すために、よく愛国度競争をする。
その愛国度を示すためには、如何に「アメリカ的なもの」を愛しているかを示すのが手っ取り早い。
短時間で、アメリカの象徴のようなホットドッグをどれだけ食べられるかを競うのは、移民達が必死でアメリカ人になろうとするための奮闘努力の表われだったのだろう。
ホットドッグ早食い選手権は今や、外国人が優勝することもある大会になり、起源とはかなり趣が変わってしまった。しかし、時代が下っても「愛国心を示さねばならない」という考え方は、今も変わってないと思う。
アメリカの4大スポーツである、アメリカンフットボール・野球・バスケットボール・アイスホッケーを愛することが、アメリカ人になりきることなのだ。サッカーのように、世界的にも人気のあるスポーツでさえ、この国ではやや影が薄い。いや、正確にいうならば、子供の頃はサッカーが好きでも、思春期になるにつれ、4大スポーツのどれかに、集約されてくるのがアメリカという国なのだ。
アメリカの子供たちはホットドッグをほお張って、地元のスポーツチームに声援を送ることで、アメリカの大人になっていく。そして移民達も、アメリカ人らしく振舞う為に4大スポーツにのめり込んでいく。
当然のことながら、米国の大統領は、4大スポーツのファンであることが求められる。サッカー大好きな大統領なんてあり得ない。歴代の大統領は、プロ野球の始球式を務め、遊説中もキャンプ地で選手たちとキャッチボールをする姿をマスコミに撮らせることで、明るい性格であることを示そうとする。そして、自分を真にアメリカ人らしく見せ、国家への忠誠をも示そうとしているのかも知れない。
2.ニグロリーグの存在
さて、そのアメリカの国技とも云えるプロ野球に1898年からほぼ半世紀の間、大リーグとは別にニグロリーグという黒人だけのリーグが存在した。ニグロリーグの詳細については専門書に説明を譲るが、大リーグよりも、このニグロリーグのほうがはるかにレベルが高かったというのが定評のようである。
3.「サッチ&ジョシュ・アゲイン」
オスカー・ピーターソンとカウント・ベイシー
Satch & Josh Again
Oscar Peterson & Count Basie
今回、最初に紹介したいアルバムは、オスカー・ピーターソンとカウント・ベイシーの共演アルバム「サッチ&ジョシュ・アゲイン」である。これは、ニグロリーグの伝説的な大投手サッチェル・ペイジと、「黒いベーブ・ルース」と異名を持つ強打者ジョシュ・ギブソンの名勝負の故事に倣った命名である。
1942年、当時モナクスの投手のサッチェル・ペイジと、グレイズに所属していた打者ジョシュ・ギブソンの対決があった。サッチ(サッチェル・ペイジの愛称)は、6対3でリードしていたゲームで、3人をわざと歩かせて満塁にしてジョシュと対決し、3球三振に打ち取った。ニグロ野球史の最高の名場面である。
この名場面をカウント・ベイシーは、自分をジョッシュ(ジョシュ・ギブソン)、ピーターソンをサッチに見立てている。
ジョシュ・ギブソンは、1911年ジョージア州生まれ。柔和で真面目で善良な人柄、そして人なつっこい童顔で、人気者だったとのことだ。1940年代の鉄鋼の町ピッツバーグ近くにあった「ホームステッドグレイズ」というクラブの全盛期に在籍した。
一方のサッチェル・ペイジは、1906年、アラバマ州の貧しい家庭に生まれ育った。ながらくニグロリーグにいたが、1948年、42歳という年齢で史上最高齢のルーキーとしてメジャーリーグのクリーブランド・インディアンスに入団した。
サッチェル・ペイジは、中南米やカリブの球団を含めて数々の球団を渡り歩いたが、最後に1965年、カンザスシティ・アスレチックスの投手として登板したときは、なんと59歳だったというから凄まじい。1924年に18歳でプロ入りしてから40年以上にわたってプロ野球投手として過ごしたという長寿選手である。ほとんど変化球を投げない速球投手で、ユーモラスで大物の雰囲気を持ち、よくモテて、人を惹きつけるカリスマ性があったという。正確な計測記録はないが、恐らく170km/h出ていたのではないか、という多くの証言があり、一般には野球史上最高の投手であったと云われている。
一般に大リーグの歴史で至上最強とされるチームは、ルー・ゲーリックやベーブ・ルースらの殺人打線を持った1927年のニューヨークヤンキースだ。しかし、古今東西の全てのチームで最強であったといわれるのは1930年代の前半のピッツバーグクロフォーズというニグロリーグのチームだ。二人はこのチームで長らく同僚として「世界最高のバッテリー」と呼ばれていた時期もあり、仲も良かった。
さて、アルバムの内容はピアノ2台にドラムとベースが入ったシンプルな構成。しかしその世界は、どちらかというと、ベイシーオーケストラのムードに近い。ピーターソンが、ベイシーの世界に間借りしている感じだ。右側スピーカーからは一聴してカウント・ベイシー、左側スピーカーからはピーターソンのピアノが鳴り出す。勿論ノーマングランツの企画に違いない。しかし、スタイルは違えど、ジャズを愛し、同じくスイングする心を持つ二人だから意気の合った大名盤になった。サッチとジョシュがかつては同僚、今は敵味方になりながらも、志を同じくしてニグロリーグに身を置いて最強投手と最強打者として、ニグロリーグファンを楽しませてきたのを、ジャズの世界で甦らせたのがこのアルバムだ。サッチとジョシュが野球を愛し、ニグロリーグを愛したように、べイシーとピーターソンの共演はジャズへの愛情やお互いの音楽への敬愛に溢れている。
「サッチ&ジョシュ」というタイトルは、この二人にこそ相応しいと、改めて思う。
4.「君はジャッキー・ロビンソンがヒットを打つのを見たか」
カウント・ベイシー楽団
1947-1949 Count Basie & His Orchestra
さて、ニグロリーグから初めて白人プロ野球の世界に入ったのは、ジャッキー・ロビンソンである。1919年ジョージア州の小作人の家に生まれたジャッキー・ロビンソンが、黒人チームのモナクスから大リーグのブルックリン・ドジャースに移籍したのは1947年、28歳の時である。この当時、サッチェル・ペイジやジョシュ・ギブソンを擁するニグロリーグにおいて、ジャッキーは決してスターではなかったが、ブルックリン・ドジャースのオーナー兼GMのブランチ・リッキーは、その将来性を買った。この前代未聞の出来事に対して、自陣からも相手チームからも「黒人をチームに入れるな」「黒人のいるチームとはゲームをしない」などの声も起こった。リッキーは、「これまで誰もやっていなかった困難な戦いに勝つ為、立派な紳士でいろ。白人からの仕打ちに仕返しをしない勇気を持て」(I'm Looking for a ballplayer with guts enough not to fight back .)と、ジャッキーにいったという。
初年度のジャッキーの大活躍で、翌年以降どんどん黒人プレーヤーを雇う球団が増えた。
大リーグがニグロリーガーを採用し始めたとき、黒人たちは大喜びしたことであろう。そして、ジャッキーがヒットを打つたびに狂喜したであろう。
「ジャッキーは、最高にイカした奴だ!!」と高らかに唄うカウント・ベイシーの「Did you See Jackie Robinson Hit that ball ?」は、初めてメジャーリーグに黒人プレーヤーが生まれたことへの喜びが伝わってくる曲だ。喜びの鐘の音が高らかに鳴り響くような曲である。多くの青少年に希望を与え、また目覚めさせたことであろう。
しかし、黒人達の真の喜びは、黒人選手が大リーグに参加できたことのみではなかったのではないか。
話はそれるが、マーティン・スコセッシ制作総指揮によるブルースを扱ったシリーズものの映画『ロード・トゥ・メンフィス』(リチャード・ピアース監督)を思い出した。この中で、B.B.キングが、NYのフィルモアでライブを行った1968年、客席を埋めていたのは、長髪の白人の若者たちだった。「私の人生で初めてのことだった。全員が立って拍手をしてくれた。私は感激のあまり、涙がこぼれて仕方なかった。95%が白人だった。初めてだ。あの日の感動は、言葉では表せない」と語っていたのを観て私も思わずもらい泣きしてしまった。
それまで、黒人社会という閉鎖された社会の中で、黒人だけの為にやっているつもりだったB.B.の音楽が、白人社会にも受け入れられたことを実感した瞬間の感動を語っているのである。
きっと、黒人達はジャッキーがヒットを打つことによって、白人のドジャースファンがそれを喜んでいるのを見るのが嬉しかったのではないだろうか? 当時のフィルムはYoutubeで沢山見ることが出来るが、ジャッキーがヒットを打つたびに、白人ファンが酔いしれている。
日本人の私ですら、Youtubeでジャッキーがヒットを打って、白人が喜んでいるのを見ると、嬉しくてたまらなくなる。それまで黒人を見下してきた白人を喜ばすことが出来た。そして黒人ファンと白人ファンが、共にドジャースの勝利を喜ぶことが出来た。その祝勝会の様子が、まるで「酔っ払いの宴会」のようなよれよれのリズムに乗って現在に伝わってくるような名曲である。
ジャッキー・ロビンソンは、メジャーリーグの「カラーライン」を破った最初の黒人として、現在の米国では、もちろん偉人として尊敬されている。しかし、ジャッキー以外にカラーラインを破ろうとして破れなかった沢山の黒人ニグロリーガーがいる。ジョシュ・ギブソンもその一人だ。最初に大リーグに引き抜かれたのが自分でなくジャッキー・ロビンソンであったことにショックを受け、酒をあおるようになり、脳腫瘍が悪化して、ジャッキー・ロビンソンの大リーグデビューの年に脳出血で悲しい死を遂げている。35歳だった。明るい性格であれほど多くのファンから愛されたジョシュが何故このような死に方をせねばならなかったのだろう。
しかし、黒人の大統領すら生まれるようになったアメリカという国の変わり様を、今ならジョシュ・ギブソンも、ジャッキー・ロビンソンやサッチェル・ペイジと共にあの世で喜んでいるに違いない。
参考文献:
「黒人野球のヒーローたち」佐山和夫著(中公新書)
「A Picture Book of Jackie Robinson」 David A. Adler(Holiday House/New York)
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