書海放浪記
書物迷宮
平田憲彦
※
マークスの山
高村 薫
早川書房(1993年)
『このミス』というものがある。
いうまでもなく『このミステリーがすごい』のことだが、毎年出てくるミステリの年間ベストを選出する企画モノである。元来この手の“ベストなんとか”はあまり注目すべきものはない。本来作品に順序は無用だし、そういった発想自体が大変貧困であるためだ。しかし、『このミス』は例外である。それは、“ミステリ”という特異なジャンルに対する果てしない愛情とこだわりが生んだ声援のようなものだからで、“優劣決戦”ではないからだ。
『このミス』の評価をもしも疑っている方がおられるなら、自信を持って大丈夫、と言いたい。それは、『マークスの山』が圧倒的支持のもと『このミス』で1位になっているからだ。“1位”ということに意味があるのではなく、最も多くのミステリファンを感動させたということにこそ、大きな意味がある。蛇足だが、直木賞なるものも取ったようだ。
そう、これは感動するミステリ作品である。いや、“ミステリ”とジャンル分けする必要はないだろう。
人が殺され、謎が全面に立ち、犯人を追いかけ、解決に向かう。それは紛れもなくミステリ作品であるし、推理小説といっても良いが、これは罪と罰と業の物語であり、そういった意味では、ここで描かれているのは読んでいる我々自身でもある。ジャンル分けは無用で、ただ、作品と呼べば十分なのである。
『マークスの山』がリリースされた頃、多くのメディアが激賞した言葉の多くに、“金字塔”や“初めての警察小説”などが目立った。それほどに衝撃的な小説だったのは、これまで日本で生まれてきた推理小説の多くが、いずれも“謎解き”やハードボイルドとも呼ばれる“エンターテイメント”だったのに対し、『マークスの山』が“謎解き”や“エンターテイメント”を内包しつつまたそれを越える深さを備えていた小説だったからで、誰もがかかえこむ自意識という闇、自己愛という業を、罪と罰をモチーフに人間の個を通して描ききったからに他ならない。
この作品には、推理小説には定番ともいえる人物配置がない。そして、謎は結局解決されない。もちろん犯人は判明するし、筋書きという意味では物語は結末を迎える。しかし、罪と罰という謎は解決されないのである。それは、いつまで経っても解決されようがないのである。我々自身の内に潜む悪が解決されないのと同様に。
読後、ながいながい余韻と深い感動が染みわたる。あまりにも悲しく、切ない。切なすぎる。そして、悔しい。悲しくて切なくて悔しくて、涙が出るのである。
ここで表現されている世界はもちろんフィクションだが、しかし、確かに真実が表現されている。
この書物は私の宝物である。
※余録※
そもそも、これは図書館で借りて読んだのがはじまりだった。めったに図書館で書物を借りるという習慣がないが、そのころ東京の勤めていた会社で、ちょうど隣の席の人がミステリファンでかなり盛り上がっていたとき、図書館の話が出たのである。
買うのもイイがカネがいくらあっても足らない、なんて言う話になったのである。まあ、それくらい彼はミステリを読み狂っていたというわけだ。私はそれほどでもなかったが、そうか、図書館かと思い、ふらっと立ち寄ったわけだ。そうして、『マークスの山』が目に入った。そのころ、たまたま私は東京と神戸を頻繁に往復しており、ちょうど時期的に阪神大震災が起こったときで、私の周辺もただならない事態になっていた。
新大阪に向かう新幹線はだいたい3時間かかるのであるが、席について本を開き、新大阪駅に着く寸前まで一回も本を閉じることなく読みふけったのは『マークスの山』が最初で、そして今のところ最後でもある。トイレにも行かなかった。それくらいに強烈な読書体験であったわけだ。
私の実家は阪神大震災で全壊し、両親は恐ろしく狭いマンションに逃げ込んでいた。そのマンションを訪ねて神戸まで出向いていったわけで、『マークスの山』の続きは、そのマンションで読むことになった。最後の頁を読んだのも、そのマンションである。
阪急西宮北口に着いて、そこから国道2号線をバスで神戸に向かった。地震の影響で電車は動いていなかったのである。2号線沿線は、まるで怪獣テレビのセットのようにぐしゃぐしゃになっており、まったく怪獣が踏みつぶしていったといっていいくらいな有様だった。
そんな中で、『マークスの山』を読み終わった。しびれるような読後感は、いったい何年ぶりのことだったろうか。図書館に返すのがためらわれるくらいであった。
その後神戸に移り住み、回復途中のセンター街にて『マークスの山』と再会した。ちいさな古書店であったが、とても魅力的な書物があふれており、とりわけ自分の趣味と非常にマッチする。その書棚に1冊、『マークスの山』はあったのである。 その後、頻繁にのぞくことになるその古書店は、いまでも私のとっておきの場所である。
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