書海放浪記
書物迷宮
平田憲彦
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Harper's BAZAAR
Elizabeth Tilberis 編集
The Hearst Corporation
『Harper's BAZAAR』には魔法がかかっていた。ファッション写真という魔法。グラフィックデザインという魔法。そして、アートディレクションという魔法が。それは、『Harper's BAZAAR』以外のファッション誌がよくないということではなく、『Harper's BAZAAR』にしかない魔法が確かにあったということである。
アレクセイ・ブロドヴィッチ、そしてファビアン・バロン。この40年を隔てて直列的な位相を示すアートディレクターは、グラフィックデザインの歴史の中でもまれにみるエレガントな切れ味を示し、とりわけ写真とタイポグラフィを中心としたアートディレクションにおいて信じがたいくらいに美しいビジュアルを生み出していった。モード・マガジンのエディトリアルデザインにおいて間違いなく最高峰ということが出来る。それくらいに、アレクセイ・ブロドヴィッチとファビアン・バロンがアートディレクションをつとめた『Harper's BAZAAR』は輝いている。
ブロドヴィッチはリチャード・アベドン、バロンはピーター・リンドバーグ、その組み合わせを中心として驚くべきグラフィックを矢継ぎ早に生み出した。また、共通するのがタイポグラフィのすばらしさだ。ディドーをメインフォントに、様々なサンセリフ系の書体を駆使し紡ぎ出される優雅にして強靱な文字の饗宴。彼らに影響されて多くのデザイナーたちがタイポグラフィを学び実践してきたが、それらは決して模倣ではなく、あくまでも系譜ととらえるべきタイポグラフィの美しき水脈なのである。
ファビアン・バロンはフランスの『リベラシオン』誌で経験を積んだ後、『インタビュー』、『イタリアン・ヴォーグ』でアートディレクターをつとめ、そのたぐいまれな才能を爆発的に開花させた。繊細さと大胆さが行き交うインパクトあるタイポグラフィはとぎすまされた写真と相まって、本来刹那的である雑誌に永遠にも思える輝きを与えたのである。
その後、バロンはマドンナの写真集『SEX』や、イッセイ・ミヤケがリリースしたパルファムのボトル・デザインなどのアートディレクションを担当するなど、一躍世界のデザイン界の寵児となる。ちょうど1990年前後の話だ。そのころ、矢継ぎ早に斬新なデザインを実践していたネヴィル・ブロディやピーター・サヴィルとともに、グラフィックデザインに新しいポピュラリティをもたらしたのである。
そうして『Harper's BAZAAR』誌のアートディレクター(クレジットではクリエイティブディレクター)として、比類なき完成度と美しさを持ったグラフィックデザインを生み出すのである。
多く雑誌がそうであるように、バロン時代の『Harper's BAZAAR』も数年で模様替えし、別のアートディレクターになる。しかし、バロンが残したデザインの足跡はシンプルでありながら独創的であり、ブロドヴィッチが生み出した美しさを継承して新たなエレガンスをビジュアライズし創造した、奇跡的な成果といっていい。一時期、バロンが新たなタイポグラフィックデザインを発表する度に、日本の雑誌やカタログで似たようなデザインが氾濫したということからもうかがえるように、その影響力も多大なものがあったのである。
バロンのデザインが秀でているのは、何もそのずば抜けたセンスだけではない。メイン書体としてきたディドーは、The Hoefler Type Foundryに依頼して『Harper's BAZAAR』用に新しく開発したオリジナル書体である。その『HTF DIDOT』は、500年以上続いてきたボドニー〜ディドー書体の流れを汲む最新型の書体である。それを、自由自在に表現できるように可能な限りのファミリーをデジタルフォントとして作成した意欲作で、自らが望むグラフィックを手に入れるためには書体開発も辞さない貪欲さがバロンにはある。さらに、そのオリジナル・ディドーでさえも躊躇なく新たな書体に切り替え、『Harper's BAZAAR』の紙面を刷新させようとする革新性も見逃せない。スタイルを作り上げる天才は、スタイルを壊すことに関しても悠々としている。これは、まさしくピカソを彷彿とさせる天才ぶりである。
バロンの革新性やエレガンスは、なにも今までにない全く新しいことをしたというわけではなく、むしろその逆で、今まであったものに美しさを見いだしただけのことなのである。それを、誰も気がつかなかっただけのことだ。そして、そこに可読性や視認性といった現実的感覚を決して忘れなかったところがバロンの天才たるゆえんである。バロンは、パンクやアヴァンギャルドではないのである。
アメリカンデザインの遊び心、スイスデザインの秩序、ヨーロピアンデザインのエレガンス、そして、ジャーナリスティックな姿勢。これらが渾然一体となってファビアン・バロンのグラフィックデザインは生み出されていったのである。
バロンの手から離れた『Harper's BAZAAR』は魔法が解かれ、まるで映画館から出たときのような落差を持って急速に俗的ファション誌として一般化していったが、エディトリアルデザインとグラフィックデザインに残した革新性は、今後も決して色あせることはない。
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