書海放浪記
書物迷宮
平田憲彦
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MORIYAMA Daido 1970-1979
森山大道
蒼穹舍(1989年)
東京の渋谷に宮益坂という比較的大きな坂がある。あまり意識することはないが、渋谷という街は案外坂が多い。それも、大きめな坂が。その宮益坂を少し上ったところに宮益坂マンションという古いマンションがあった。今もあるのかもしれないが、よくわからない。
そこは小さな部屋がいっぱい集積した割と大きなマンションで、かなり古く、良く言えば渋い、まあ、普通に言えばきたない建物であり、そのマンションの中に、一時期、森山大道さんのオフィスがあった。学生の頃から森山大道さんはわたしの敬愛する写真家であり、その本人に会えるとなってかなり興奮していた。森山大道さんと知り合いだった学芸員がおり、たまたま彼女は僕の大学時代の後輩であったため、ひょんな事から連れていってくれるということになったのである。
『ブレボケ』といわれる森山さんの写真は70年代にはカリスマ性を帯びるほどに熱い支持を受け、森山的ともいえる写真はいまもひとつの表現領域となるほどに定着したかに見えるが、じつは森山的な写真などどこにもなく、あくまでも森山大道さんは誰にも似ず、誰に似られることもなく今もただならぬ緊張感をもって写真であり続けている。森山さんと同じ視線を、誰も持つことは出来ない。森山さんの光と影を、誰も共有することなど出来ない。ただ、森山さんを体験するという、きわめてまれな写真体験があるのみである。
本来ひとは、みな見ているもの、感じていることが違うはずであるのに、写真は時としてすでに見たことのあるようなものを提示してしまう。それはもやは写真体験ではなく単なる既視にすぎず、映像でも何でもない幻に過ぎない。森山さんの写真は、網膜上に焼き付いて離れない悪性の残像のように、我々を忘れることの出来ない動揺と焦燥へと導いてしまう、目をつむっても消すことの出来ない風景であり、森山さんが見たものがそのまま写真体験として何度も再生する、終わることのない時間に他ならないのである。
オフィスは8階にあり、狭くてしかし天井の高い廊下の突き当たり付近右側にあった。ドアを開けると小さなギャラリーがあって、森山さんの最新作が20点ばかり陳列されていた。その部屋のすぐ右にオフィスがあった。オフィスといっても、いわゆる4畳半くらいの部屋である。小さな机のまわりには、いっぱいピンで留めてあるメモや写真、ポストカードで囲まれていた。そこに通されたのである。僕は名刺を差し出し、自己紹介した。残念ながら森山さんは名刺を持っていなかった。森山大道さんの名刺をもらえると踏んでいた僕はがっかりしたが、名刺など持っていないことに少し安心したとも言える。
その狭いオフィスは、森山さんと学芸員の後輩と僕、この3人だけでも窮屈なのだが、もう一人いることでさらに狭くなっていた。中平卓馬さん。まさか中平卓馬さんにも会えるとは思いもよらなかったので、僕の興奮は一気に異次元に飛躍してしまった。座は写真談義になっており、僕は観客に過ぎなかったが大変興味深い森山さんのコメントを聞くことが出来た。
ウォーカー・エバンスが好きなんだよ、という、懐かしい思い出を語るかのような緩やかな声に、僕は軽い驚きを覚えたのである。
ウィリアム・クラインというのなら、わかる。しかし、エバンスという一見森山さんの写真とはずいぶんと距離があるような写真家の名前が出るとは思っていなかったのであるが、それは僕に思慮が足りなかっただけの話だ。
『MORIYAMA Daido 1970-1979』と無骨に名付けられたこの写真集は、熱狂を生み出した森山さんの70年代、その中心的作品を集めたアンソロジーであり、傑作作品ばかりが次々と現れる、遠慮というものを知らないとんでもない写真集である。暑苦しいくらいにこびりついた意志の連発にため息が出る。アンソロジーといえども、森山さんの一貫した視線は不気味なくらいの統一した世界で貫かれており、写真とは写されたものではなく、あくまでも性を切り出したグロテスクな肉体であり、見るものではなく対話するものにほかならず、凝縮された時間が強い意志で語りかけてくる視覚体験でもあるのだ。
※余録※
森山大道さんをすごいと思ったのは、犬の目線までカメラを提げてファインダいっぱいに切り取って見せた、あの写真を見たときである。ハイコントラストで透き通るような野良犬の目線は、撮影者である森山大道さんのカメラをまっすぐ突き抜けて、ものすごいスピードで自分に届いてきた。釘付けになる、というのはこのことであった。森山さんはおそらく、地面に寝そべって撮ったのではないだろうか。
印画紙に焼き付ける作業に独自の表現を見いだしたのは、細江英公さんの助手をしていた経験によるところも大きいのだろう。なんでも、あの有名な写真集『薔薇刑』は森山さんがひとりで紙焼きをしたという逸話が残されている。
しかし、『ブレボケ』だけが森山大道さんではない。ブレてもいなくて、ボケてもいない写真の方が実は多いのである。
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