書海放浪記
書物迷宮
平田憲彦
『ボヴァリー夫人』を読む
蓮実重彦さんの「『ボヴァリー夫人』論」がついに上梓され、僕はようやく『ボヴァリー夫人』を読んだ。
作品論を読んでから本作を読むのは本末転倒であると思ったし、そのうち読んでみたい作品のひとつでもあったので、今が読む時だろうと思えたからだ。
どんな小説にも当てはまるが、それを読む年齢という重要かつ奇跡的偶然というものがある。
良いと言われている小説は、何歳で読んでも大丈夫かというと、そうではないと僕は思っている。
それに加えて、自分の『体験や経験』が、その小説を深く理解できるかどうかにも作用する。太宰治はその典型だと思う。逆に、宮沢賢治は読む年齢に応じた感動を与えてくれるので、読む年齢を選ばない作品といえる。
しかし、多くの小説は、それを初めて読む年齢、再読する年齢、というものによって、受ける印象が大きく異なってくると僕は考えている。
この『ボヴァリー夫人』は、まさしく読む年齢が重要になってくる作品の典型だ。
この小説を読む年齢として、作者フローベールが作品を完成させた36歳が、ひとつの区切りになるのではないか。つまり、36歳を越えてから読む。
それをお勧めしたい。10〜20歳代で読んでも、多くの人はおそらく理解出来ないのではないだろうか。結婚していたり、子供ができていたり、親が亡くなっていたり、ということを20歳代で経験している人なら、あるいは『ボヴァリー夫人』を理解出来るかもしれないが。
今回初めて読んだ僕は49歳である。実感として、ちょうど良い年齢で読んだ、と思う。
登場人物の存在感は妙にリアルで納得も出来、腑に落ちる数々の行動も、手に取るように怖いくらいの現実味があった。
1857年に書かれた小説? とてもそうは思えない。2014年の今日であっても、『ボヴァリー夫人』の世界観はそっくりそのまま生きている。
とても面白く読めたし、よく出来た小説だと思う。
※
『ボヴァリー夫人』によって近代小説が始まったと言われているのは、その徹底した『リアリズム』ゆえんだという事も、読む前から前知識として知ってはいたが、実際に読むと、なるほど、と舌を巻く上手さ。何度も推敲したらしいその文章の構築は練りに錬られている。物語の構造も考え尽くされ、会話の妙、視点の動き、背景描写など、徹底的に突き詰められていることがよくわかる。
同じくリアリズムで定評のあるヘミングウェイを好きな僕には、読み応えがあった。
『リアリズム』と書くと抽象的だが、簡単に言えば『登場人物の主観を排して、出来るだけ客観的な表現で文章を仕上げる』ということである。
例えば、『男は暑さに閉口した』と書くのではなく、『男の額には玉のような汗がまとわりついていた』と表現する、というような事だ。
『暑い』というのは登場人物の主観であるが、そう書くと表現に広がりがなく、どのように暑いと感じているのかがわかりにくくなってしまう。読み手との間に距離が生まれてしまうわけだ。
そこで『実際にある汗』を客観的に描写することで、登場人物が感じている『暑さ』を読み手に想像させて、登場人物の『暑い』という感情を共有させるわけである。
こういったリアリズムは、書き手に筆力が必要なのは言うまでもないが、読み手にも『読みこなす力』が求められる。
※
人は36歳にもなると、それなりに色恋沙汰も経験し、場合によっては結婚し、子供もいる、という可能性も少なくない。仕事の面においても、下っ端の役割は終わり、部分的にでも経済的な責任を担う立場にいることだろう。
そして、自分の日常生活と、経済力を手に入れる仕事環境と、そして、家族生活という様々な環境を重層的に、多角的に共存しながら、共同体の一員として生きている、ということが、ごく当たり前の事として捉えられるはずだ。
1837年のフランスにおいても、2014年の現在と変わらず、その日常・仕事・家族という『3つの共同体を生きる』ということは同じであったことが、この小説を読むとよくわかる。
そして、共同体の一員である個人と、個人が当たり前に持つ『自我』が、距離を取りつつ、歩み寄りながら、時には揺れながらも、かろうじて崩壊をまぬがれて、生き続けることを志向している宿命を、その本質的な人間の根源を、この小説は露わにしてくれている。
蓮實重彦さんがどのような批評を展開しているか、読むのをとても楽しみにしているが、蓮実さんのテキストを読む前に、読後すぐの忘備録として、僕なりに批評めいたことを書いてみようと思う。
まず、版元が発表している『内容紹介』について。
※
僕が読んだのは河出文庫版である。
蓮実さんが底本としたのがこの版であり、蓮実さんの解説(みたいなエッセイ)も収録されている。
河出文庫版では、このように『内容紹介』が書かれている。
ーー引用ーー
河出文庫版
内容紹介
田舎町の医師と結婚した美しき女性エンマ。平凡な生活に失望し、美しい恋を夢見て愛人をつくった彼女が、やがて破産して死を選ぶまでを描く。世界文学に燦然と輝く不滅の名作。
内容(「BOOK」データベースより)
冴えない田舎医師ボヴァリーと結婚した美しき女性エンマは、小説のような恋に憧れ、平凡な暮らしから逃れるために不倫を重ねる。甘美な欲望の充足と幻滅、木曜日ごとの出会い。本気の遊びはやがて莫大な借金となってエンマを苦しめていく。テンポの良い名訳で贈る不朽の傑作。
※筆者註:上記は文庫本のバックカバーにも印刷されている。
ーー引用以上ーー
次に、河出版以前からあった新潮文庫版の『説明』である。
ーー引用ーー
新潮文庫版
説明
田舎医者ボヴァリーの妻エマが、単調な日常に退屈し、生来の空想癖から虚栄と不倫に身を滅ぼす悲劇を描くリアリズム文学の傑作。
ーー引用以上ーー
ということだ。
確かに、ここで書かれている『内容紹介』も『説明』も、嘘ではない。が、小説本文で書かれている『作品としての本質』とは程遠い。
この『内容紹介』や『説明』文章を読んだ未読の読者は、ボヴァリー夫人が自発的に男を誘惑し、何人もの男と不倫を繰り返した、と解釈するだろう。しかし、小説に描かれている事実は、まったくそうではない。
ボヴァリー夫人は、浮気をしたかったわけではないし、ましてや、自分から男を誘い、誘惑し、愛人に引きずり込んだわけではない。
時代を問わず、誰もが持つ『自我』と、その実現への希求と敗北、という、ありふれてはいるが、哀しい現実を表現した作品が『ボヴァリー夫人』という小説なのである。
不倫や借金は、たんなるモチーフである。要は、人間の根源的な自我肯定と自我実現への執着、そして、そういった『魂から発する欲望への意志』を表層化させた小説なのだ。
<利己的な自我追求は、本人を破綻させる。>
それが『ボヴァリー夫人』のコンセプトであると僕には思える。そういう意味では、逆説的モラル啓蒙小説であるといえるだろう。
フローベールは、そのコンセプトを、エンマという女性と、脇役の薬剤師オメーを使って『自我』という主題を表層化させた。
エンマの自我には、『物欲』。オメーの自我には『名誉欲』。
エンマには、理性と分別を無視した感情的行動に徹底させて、最後は自殺させた。その自殺は保身からなので、エンマは結局最後まで自我の追求を諦めなかったということになる。
オメーについては、計算的行動で最後は功名といういう自我達成を実現させることで、エンマの敗北(自我実現の未達)を際立たせた。
その他の登場人物は、それを引き立たせるための仕掛けとしてあえて一面的で地味な存在に位置付け、エンマの敗北に強烈なコントラストを付けた、ということである。
エンマの夫であるシャルルを凡庸な田舎医者と位置づける『作品説明』が巷には多いが、実はそうではない。シャルルは彼なりに自発的であり、夫としての責任や行動への指針について常に意識的であろうとしているし、実際、彼は自分の家族や妻のエンマが幸福であるような支援を続けている。
仕事面でも、彼なりに向上心をもって努力し、実践している。決して凡庸ではない。しかし、作者フローベールはシャルルの位置づけを『エンマを引き立たせる仕掛け』としているので、シャルルの自我を掘り下げて描いていないのである。むしろ、シャルルがエンマを思って取る行動をすべて裏目に出るように設定し、エンマが自我を追求するための導火線、あるいはピエロとしてシャルルを演出している。
この物語は、地方都市の凡庸な医者の夫人が不倫と借金を理由に自殺するという物語ではない。
理性が欠如した自我実現への希求は敗北する、という警句。それが『ボヴァリー夫人』という小説の重要な断面である。
だから、上記のような『説明』が堂々と版元公認で書かれてしまうのは、読者に誤解や先入観を与えるという意味で、罪深いといえる。
未読の読者にとっては、なおさら。
ぜひ、上記の『説明』には惑わされず、読んでもらいたい。
※
●テキストを読むということ
『ボヴァリー夫人』という小説は、いわゆる近代小説の始まりと位置付けられている。僕はそういった小説史のことはよくわからないが、今読んでも古さを全く感じさせないという意味では、確かに現代小説と同じテイストがあることは間違いない。
『ボヴァリー夫人』が現代の小説の起源であると仮定すると、この小説を如何に読むかという問いが、そのまま小説を読む手法へとつながるのではないかと思う。
つまり小説は、絵画や映画や音楽、芝居と同様に、『ひとつの芸術表現の形式』である。
そこには、『作成方法』があるのと同様に、『鑑賞方法』も存在する。
絵画には、見方がある。映画にも見方があり、芝居もそうだ。音楽には聴き方がある。
たとえば映画を例に取ればわかりやすいが、映画を見る時、その『話の筋』だけを追う方法がある。ストーリーや登場人物の人間性などを重視するという『映画の見方』である。
しかし、映画をそのようにだけ見ていては、本当の楽しみを遠ざけてしまうだろう。たとえばアングル、動き、ライティング、ストーリーに深く関わる仕掛けの映像、つまり『演出』である。映画は、ストーリーを知る楽しみ以上に『演出』を楽しむという見方がある。
もちろん、『演出には興味はない』、『ストーリーさえ楽しめればそれでいい』、という人もいるだろうから、それはそれでいいが、ストーリーだけを捉えてその映画の良し悪しを判断することは、映画の鑑賞としてはいびつである。
同様に、小説もそうである。
小説について、ストーリーだけを捉えて良し悪しを判断するすることは、小説の読み方からすると、いびつである。偏っている、ともいえる。
小説とは、一言でいうなら『ストーリー(物語)を背景にもった文章芸術』である。
ストーリーとはあくまでも文章表現の土台であり、それがすべてではない。むしろ、文章そのものの魅力を味わうことこそ、小説という芸術の本質である。
なので、極端にいえば、ストーリーはどうでもよく、そのストーリーを具体化するために駆使された文章表現こそが重要である、ともいえる。
たとえば、川端康成の『雪国』。あの小説は、ストーリーはとても凡庸で、数行で終わらせてしまえるくらい簡素な話だ。しかし、文章表現があまりにも素晴らしい。筋そのものには関係のないような、たとえば乗っている電車の窓を開ける描写や、セリフに選ばれている単語、そのリズムなど、実に魅力的に表現されている。言葉だけを使ってここまで情景や心理を表現できるものかと驚嘆するくらいの文章表現が、縦横無尽に展開されている。
『雪国』は優れた小説の見本のような作品だ。
『ボヴァリー夫人』もまったくそれに当てはまる。
先にも書いたが、後世に『リアリズムを確立した』と言われるほどの優れた客観的描写。人物を描く部分と、それを補足する風景描写。セリフのバランスとリズム、それを際立たせる情景描写で人物の心理を想像させる文章テクニック。
『ボヴァリー夫人』は、ストーリーよりもそういった文章表現を楽しむべき作品であるといえる。
もちろん、ストーリーを追うのが悪いというわけではない。エンマという女性に対して論評するのも自由だし、登場人物について、好き嫌いでコメントするのもかまわないと思うが、当たり前のことながら、小説は作り話だ。人物は作為的に設定され、セリフもすべて作者が考えた架空の対話である。エンディングに向かって緻密に構成された創作だ。現実に我々の身の回りで起こっている諸般の物語の方が、よほどドラマティックで、刺激的だろう。
小説のストーリーは、現実の物語には及ばない。だからこそ、作者の思考や意図を考えて、ストーリーをいかにして文章表現にまとめようとしたか、という点を楽しむ。
それが、小説の小説たる所以である。
そして、優れた文章表現がほどこされたストーリーを読むことは、我々が実際には知ることが出来ない『自分ではない他人』の事を深く理解する手助けとなる。
文章表現が未熟な小説は、単にストーリーを追っているだけの『あらすじの拡大』のような味気なさがあり、『自分ではない他人』を理解するところまで及ばない。
登場人物に『悲しい』と言わせずに登場人物の悲しみを読者に感じさせ、共感させるには、高度な文章テクニックが必要だ。それができて初めて、読者は『他者の悲しみ』を共有し理解する。これが小説の醍醐味と言える。
『ボヴァリー夫人』が優れた小説であるのは、そういった見事な文章表現の作品だからだ。
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