書海放浪記
書物迷宮
平田憲彦
ついに出版された『ボヴァリー夫人』論
いま目の前にある蓮實重彦さんの「『ボヴァリー夫人』論」。もしかしたら読むことは叶わないかもしれないと思っていた書物をいざ手にすると、800頁を越えるその重みは、単に紙の重さだけではないことを思い知らされる。
※
僕が初めて蓮實重彦さんの名前を知ったのは、大学を卒業して最初に入った会社だった。
そこで僕の上司となったアートディレクターの一人が蓮實さんに相当入れ込んでいて、さらに、僕の入社後に中途で入ってきたコピーライターが、これまた蓮實さんの熱心な読者だった。
そんなこともあって、僕は蓮實重彦という名前を知り、そして、その著作を読みはじめた。
1988年、89年、そんな頃だ。時代は昭和から平成へ。そんな時に僕は蓮實重彦さんの書物と出会った。
※
その独特な語り口、そう、まさに『文体』としか呼べないその生き物のような言葉回しに始めは驚いたが、やがてそれが快感になっていき、クセになるように夢中になってしまった。
僕が今でも書くある種のテキストには、確実に蓮實重彦さんの影響がある。
映画の論評がおそらく蓮實さんを広く知らしめた仕事だろうし、一般の人にとっては、ある時に東京大学の総長になったことで、その名前を知ったということもあるだろうが、やっぱり僕にとっては、蓮實重彦さんは日本を代表する類稀な批評家にして映画狂人であり、そして、批評がはっきりと作品足り得ることを身を持って証明し続けた偉大な文学者である。
多くの蓮實ファンにとって、その代表作は異なる選ばれかたをするだろうが、僕は次の書物が素晴らしい仕事の成果だと思っている。
『監督 小津安二郎』
『凡庸な芸術家の肖像 ーマクシム・デュ・カン論』
この二冊はほんとうに衝撃的な書物だった。
そして、延々と語られ続け、書き続けられてきたらしい未刊の大作として、「『ボヴァリー夫人』論」があった。
そもそも『凡庸な芸術家の肖像 ーマクシム・デュ・カン論』は、書き始められていた『ボヴァリー夫人論』からの逸脱、とそのあとがきに記されているが、逸脱にしてはその800頁を超える分量に驚いてしまう。
『凡庸な芸術家の肖像 ーマクシム・デュ・カン論』は内容もすごかったが、これを逸脱というのなら、いったいその本筋である『ボヴァリー夫人論』とはいかなる書物になるのか、と思わずにはいられなかった。
※
僕の所有する『凡庸な芸術家の肖像 ーマクシム・デュ・カン論』は初版本で、1988年発行だ。その26年後、2014年6月に発行された「『ボヴァリー夫人』論」も800頁を超える。
この気の遠くなるような年月。「『ボヴァリー夫人』論」のあとがきによれば、30年という歳月に渡って書き進められてきたという。
そんな書物が今時あるだろうか。
それを待ち続け、支援し続けた版元の筑摩書房さんもすごいが、やはり執筆と調査とを繰り返しながら、ひとつの書物を30年書き続けた蓮實重彦さんは、形容しようのないくらいの至高の物書きであると言える。
※
『凡庸な芸術家の肖像 ーマクシム・デュ・カン論』を読了した時、僕は長編映画を見終わった時に似た感慨と徒労とため息、そして、たとえようもない充足感を味わった。
この蓮實重彦ライフワークともいえる「『ボヴァリー夫人』論」を読み終えるその時、僕は何を思うのだろう。
Copyright © 2003- Banshodo, Hirata Graphics Ltd. All Rights Reserved.