書海放浪記
書物迷宮
平田憲彦
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Typography
Emil Ruder
Niggli/Hatje(1967年)
スイスと聞けばタイポグラフィと連想することが、スキーや時計と並ぶくらいポピュラーになる日が来ることを願わずにはいられない。いや、実際スイスと聞けばタイポグラフィと連想する人が少なからずいるのは事実で、スイスが誇るべき文化であることもまた、事実なのである。
タイポグラフィの起源はたしかに人間の起源と一致するが、そこには意志を文字、あるいは記号で伝達するという、音声言語による意思伝達とは異なる、文字言語による意思伝達の思想が大きく込められている。
従来、言語表現による芸術は音声言語にこそその真価があると認められており、その究極が演劇であることは言うまでもない。それを大きく覆したのが、19世紀に登場した小説というジャンルに代表される文字言語による芸術、文学である。ちなみに、これはヨーロッパでの話だ。日本など、ヨーロッパ以外の地域ではまた事情が異なる。
では、それまで文字言語はどのように位置づけられていたのか。
ヨーロッパに於ける文字言語による表現の起源は、意思伝達の手段としての古代文字をのぞけば、聖書に行き着くことになる。口伝による不正確さは、文字によって正確さを格段に保証され、それが複製されることで布教にも役立つに至った。その極めつけが、グーテンベルグによる聖書の印刷である。独自の書体を開発し活字を使って聖書を大量生産したグーテンベルグを近代印刷術の始祖と呼ぶ声が多いのはもっともであるが、それにもまして、文字言語にポピュラリティを持ち込んだ、タイポグラフィの始祖と言ってもいいだろう。
42行聖書として知られる歴史上初めて印刷されたその聖書は、テキストとしての真価を大きく逸脱するほどの文字表現に於ける美的完成度がすさまじく、完璧にジャスティファイされた組み版、文字と絵柄とを巧みに組み合わせたページ構成、そして、部分的に描かれた図版と着色された色彩の魔術。
ちなみに、この42行聖書の入手は不可能に近いぐらい困難であるが、見ることは比較的容易だ。最も簡単な方法は、ロンドンにある大英図書館に行けばいい。ここでは、なんと常設展示している。日本のモリサワ社や丸善社も保有しているが、いつでも見ることが出来るわけではない。是非、ロンドンに飛んでいただきたい。42行聖書は言うに及ばず、さまざまな傑作書物を心ゆくまで体験できる。めくるめく書物の宇宙に立ち会い、至福と言うほかない時間を過ごせること、うけあいである。
ともかく、意思を伝達するという目的は聖書においても存分に意識され、文字言語を具現化する際、その効果を最大限に発揮できるよう、文字とそれが配置される領域において視覚的、美的なあらゆる知と見識、技術が導入された。それこそがタイポグラフィに他ならないのである。
その後何世紀かを経て、ヨーロッパ各地で様々なタイポグラフィに関する試みが実践されてきた。誕生以来500年以上もその影響力を発揮し続けている繊細で強い美しさに満ちた書体を作り上げたボドニーや、イギリスのウィリアム・モリスやヤン・チヒョルト、ドイツのハーバート・バイヤー、アメリカでは、アレクセイ・ブロドビッチ、ハーブ・ルバリンといった現在のタイポグラフィになくてはならない知的バックボーンを作ってきた天才たちとともに、スイスではエミール・ルーダーがいる。
この書物『Typograhy』は、エミール・ルーダーが自ら執筆、編集、デザインしたスイス・タイポグラフィの聖典と言っても良いくらいの、美しく、かつ実用的な書物だ。
ユニバースを多用し、大文字だけの組み版を排し徹底して可読性を追求しながらも組み版の美しさにおいて妥協を許さないデザインは、禁欲的とも言われ、ただならぬ緊張感をあたりにまき散らせている。
字間や行間をとことんまで追求した組み版や、空間に於ける文字のあり方を考え抜いたさまざまな試行が、縦横無尽に張り巡らされているのである。
この殺気だったかのようなタイポグラフィこそ、スイス・タイポグラフィの伝統でもある。
こういった研ぎ澄まされたタイポグラフィは、冷たいだの、寂しいだの、いわれのない批判を浴びることがよくあるが、雨の日にその音や陰を慈しむ感性が欠如したりしていなければ、また、一枚の畳に美しさを感じる魂が抜け落ちたりしていなければ、エミール・ルーダーに代表されるスイス・タイポグラフィに詩情を感じ、また、そこに配置された確かな情報群を享受できるはずである。
スイス・タイポグラフィ。それは、静寂のリズムが豊饒さをまとい、有と無の空間が響き合う文字の祭典に他ならない。
エミール・ルーダーの魂がこもったこの1冊で、どうぞ文字の宇宙へと散歩をしてもらいたい。
※余録※
そもそも、大学時代に付属の図書館で何気なく見つけたのがはじまりだった。ここに紹介しているバージョンは改訂5版のソフトカバーだが、はじめて見た『Typography』はハードカバーで当然ずっしりと重く、図書館の暗い廊下で驚きとともに頁をめくったことが忘れられない。
ともかく欲しくてたまらなかったが、どこの洋書屋に行ってもおいているはずもなく、しょうがないので図書館から借りだしてコピーしまくった。“借りる”といっても、館外への持ち出しは許されなかったので、閲覧室に持ち込んでコピーしたのである。それをスクラップブックに貼って自分だけの『Typography』をつくった。
その後、古書店、洋書店に行くたびに探していたが見つからず、さりとて、海外へメールオーダーするという知恵も持ち合わせていなかったので、コピー版『Typography』のみを見続ける日々が続いた。そうこうする内に大学も卒業してしまい、オリジナルの書物を手に取れない状態になってしまったが、ひょんなことから東京六本木の青山ブックセンターにて発見したのである。カバーが薄くなった廉価版として再販されていた。
オリジナルのハードカバーは表紙の配色がブラックだったように記憶しているが、この再販はオレンジに変わっていた。しかし、そんなことは言っていられない。なんと、1冊しか目の前にないではないか。そう思う間もなく抱え込むようにレジに急いだのである。価格は後から知った。この日、私は幸福をかみしめることになったのである。
その後、新宿の青山ブックセンターにて、とうとう念願のハードカバーを発見、抱き抱えるように手に取り、息をのんでレジに向かった。それは、7版の新品だったが、記憶の通りずっしりと重く、感激の対面となった。価格は11,800円。版型が正方形に近く、いまようやく、ソフトカバーがかなりアレンジされていたものだったことがわかる。ページ数も多く、充実の1冊。初版発行から35年、いまも刊行し続けるスイスNiggli社には、ただただ敬服するのみである。
いつもこの『Typography』は私のそばにある。お守りのようなものである。
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