書海放浪記
書物迷宮
平田憲彦
金子・ミーツ・ランボオ
金子光晴さんがランボオの詩を訳していたとは、知らなかった。
ランボオの日本語訳詩集は、粟津則雄バージョンを持っている。他にも小林秀雄さん、堀口大学さんなど、いつくかのバージョンの翻訳がある。しかし、金子光晴バージョンがあるとは。
あまり書店では見かけないようだが、ネットショップを利用すれば入手することはそれほど難しいことではない。私は角川書店版の古本を手に入れた。
届いた詩集を開き、パラパラめくりつつ、これは、自分にとって最もフィットする訳文だと思った。
翻訳というものは、当たり前だが、訳す人によって大きく変化する。
訳された書物は、それがひとつの作品と言っていいくらい、原著から独立した存在になることがある。
たいていの作品は、訳された書物は一種である。それは、『著作権』というものが生きている場合、訳されることも原作者の権利のひとつなので、翻訳が複数あることは希だからである。
しかし、著作権が消滅した作家の場合、それは一気に自由化され、無数の翻訳が並列的に存在することになる。
昨年だったか、『星の王子さま』の日本語訳が一度に数多くの版元から出版されたことは、記憶に新しい。
ランボオは1891年に死去しているので、著作権という意味ではとっくにパブリックドメインと化しており、今では多くの翻訳が手に入る。
だから、金子光晴さんが訳していてもなんら不思議ではないが、しかし、考えようによっては、金子さんこそ、ランボオを訳す文学者として最もふさわしい存在なのではないかと、彼の人生を思い返すとそう思わざるを得ない。
※
今手元に、その2冊のランボオ詩集がある。
一冊は粟津則雄訳(思潮社)、もう一冊は金子光晴訳(角川書店)。
どのような違いがあるかを、端的に記してみる。
あまりにも有名な『永遠』という詩。
この訳の冒頭を引用して比較してみよう。
粟津則雄さんは、こう訳している。
見つかったぞ。
何がだ!ーーー永遠。
太陽と手をとりあって
行った海。
夜も昼も眠らぬ魂よ、
一緒にそっと打ち明けよう、
あの空しい夜のことを、
火を燃えあがる昼のことを。
人間どもの同意とか、
心をあわせた逆上から、
さあ今おまえは手を切って
心まかせに飛んでゆく。
これを、金子光晴さんは、このように訳している。
とうとう見つかったよ。
なにがさ? 永遠というもの。
没陽といっしょに、
去ってしまった海のことだ。
みつめている魂よ。
炎のなかの昼と
一物ももたぬ夜との
告白をしようではないか。
人間らしい祈願や、
ありふれた衝動で、
たちまち、われを忘れて
君は、どこかへ飛び去る……。
粟津訳は、語彙を駆使し、言語をより抽象化して表現しようとしているのに対し、金子訳は日常の会話で使われるような言語で表現しようとしていることがわかる。
どちらが良いか、ということではない。
私は原文のフランス語は知らないし、知ったとしても読めない。
どちらも、訳としては正しいのだろうと思う。
要は、どんな言葉が、読む自分自身に届いてくるか、ということだ。
それは勿論人によって異なってくるだろう。
私は、もう、どうしようもないくらいに金子訳に惹かれる。それは、単に粟津訳よりも分かり易いから、ということではない。
この詩の場合、主題が抽象的なだけに、言語は平易な方が作者の観念がより一層伝わりやすくなっていると思うからだ。
金子訳で、私はようやくランボオの詩に触れた気がした。
今まで、いろいろランボオの詩を日本語訳で読んできたが、実はあまりよくわからなかった。
感覚的に理解出来るのだが、深く入ってこなかった。
それが、金子光晴さんの訳を読んで、ランボオの詩が、とても自分の気持ちと深い部分で共鳴したことを実感したのである。
訳は、無数に存在することが出来る、だからこそ、数種類の訳を読むことで、本来の作品に近づくことが出来る。
今回のように金子訳のランボオに出会わなかったら、私にとってランボオはずっと遠い存在のままだっただろう。
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