書海放浪記
書物迷宮
平田憲彦
読み終わるのが惜しい本
生まれて初めて読み終わるのが惜しいと思った本は、佐藤さとるさんの『だれも知らない小さな国』だった。コロボックルという小人が出てくるファンタジーで、小学校の時だった。読み進めるほどに楽しくてうれしいのだが、それは終わりが近づくということでもあり、結末への好奇心とは裏腹に、楽しみが減っていくような気がした。
同じく小学校の時、堀江謙一さんの『太平洋ひとりぼっち』、シルベスタ・スタローンの『ロッキー』、この2冊は小学校の図書館で借りて読んだ。読むのが惜しい。そんな本は、小学校時代のこの3冊。
実は、私は『ロッキー』を映画より先に本で体験してしまった。巻末の壮絶な死闘のシーン、目を腫らしながら読んだことを良く覚えている。
次は、中学校。大げさではなく、3年間『あしたのジョー』だけで過ごしたと言ってもいいと思う。今でもむろん好きだが、『あしたのジョー』はバイブルという言葉すら通り越してしまうほど、心に深く突き刺さった本である。なけなしの小遣いをはたいて、全20巻買いそろえ、何度も読んだ。金竜飛との死闘は、泪なくしては読めない。(涙ではなく、泪である。)
高校時代は谷川俊太郎さんのベスト版的詩集。安野光雅さんが装丁して浅井慎平さんの写真が掲載された、小さくてすてきな詩集だった。今でも時々開く。本文の紙質もすばらしい。紙っていいな、と思った最初の体験じゃなかったかなと思う。
そして大学生時代はファーブルの『植物記』である。昆虫記ではない。この本も異常なくらいにおもしろくて、ページをめくるのがもったいなかった。
卒業後、つまり今に至る時代だが、アーヴィング・ペンの『フラワーズ』。これは写真集だが、もう、ため息が出るほど美しい写真集で、ページをめくることがもったいなかった。いつまでも眺めていたい本である。今でも宝物だ。
蓮実重彦さんの『監督 小津安二郎』。これも読むのが惜しかった。柄谷行人さんの『日本近代文学の起源』も、最後まで読んでしまうのがもったいない本。坂口安吾さんの『堕落論』もそう。梶井基次郎さんの『檸檬』が入っている新潮文庫も。きりがないが、やはり二十歳を超えてから急速にその手の“読むのが惜しい”本が増えた。でも、読んでしまって何度も読み返してしまう。
高村薫さんの『マークスの山』を図書館で借りて読んだ。そのころ住んでいた松戸の図書館で借りて、これも信じられないくらいにおもしろくて、新幹線の3時間、トイレにも行かず飲み食いもせず、ぶっ通しで読みふけった唯一の本だ。
結局、私が作りたい本というのは、こういう本なんだろうと思う。
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