音楽書庫
音楽コラム
平田憲彦
最高で最低の、ライ・クーダー『エレクション・スペシャル』
ライ・クーダーの新譜が出た。タイトルは『Election Special(エレクション・スペシャル)』、まあ『選挙特集』といったところか。Specialというコトバをどう訳すかによるだろうが、ジャケットデザインを見ると選挙ポスターやアジビラ、そんな感じに見えるので『選挙特集』というあっさりしたニュアンスよりは『選挙大特集!』のような泥くさい感じが近いのかもしれない。
最近のライはアルバムをリリースするペースが非常に早く、毎年のように出ているのではないだろうか。もちろん僕はその都度買うわけで、そういう意味では幸せである。かつては映画のサントラばかりリリースしていた時期も長かったので、自身のリードボーカル・アルバムがこう何年も立て続けにでることになるとは、うれしい誤算である。
そもそもの発端は2005年にリリースされた『チャベス・ラヴィーン』である。カリフォルニア三部作と言われているアルバムが続けて出た。その後2007年に『マイ・ネーム・イズ・バディ』、2008年に『アイ・フラットヘッド』である。アルバム全体が一つのトーンとストーリーで統一されたコンセプトアルバム的な作品だ。
そして2011年には『プル・アップ・サム・ダスト・アンド・シット・ダウン』がリリース。
音楽的にはどれも素晴らしい仕上がりで、デビュー以来一貫しているアメリカンルーツミュージックに根ざしたサウンドと、時折入り込む南米テイストが絶妙にブレンドされて心地よい。
『チャベス・ラヴィーン』以降にリリースされた作品で感じる顕著なことが3つある。
まずそのボーカルである。デビュー以来リードボーカルをとり続けているが、サントラ活動にどっぷり入る前までの作品、つまり『ゲット・リズム』までのボーカルは、お世辞にも上手いと言えるものではなかった。そもそもライはボーカルではなくギターにおいてずば抜けた腕前があり、それをリスナーも求めていたので、少々ボーカルがいまいちでも特に問題視されることはなかった。
本人は、歌うことが好きであるとインタビューで語っているので、しょうがなく歌っているわけではなかったのだろうが、やはり歌はいまいちであった。まあ、『味がある』というような擁護は可能だし、僕もずっとそう思っているが、歌に表現力が不足していることは確かであった。
しかし『チャベス・ラヴィーン』以降のライは歌に磨きが掛かっていて、もうこれは素晴らしいとしか言いようのない表現の域にいっている。中でも、『語り』が入ったナンバーは、まるで一人芝居を聴いているようなおもしろさがある。
声のざらつき具合も絶妙なトーンで、優しい語り口や激しいシャウトなどの多彩な表現は、リスナーの心を揺さぶり、また癒してくれる味わいと強さに満ちている。年の功、と言えるのかもしれない。
『チャベス・ラヴィーン』以降のライに特徴的な二つ目のこと、それは『ゲット・リズム』までずっと鳴り響いていたスライドギターが控えめになったことである。もちろん弾いていることは弾いているのだが、『さあ、いまからスライドソロですよ』というようなスポットライト的スライドソロはほとんどない。
僕はそういう『晴れ舞台的スライドプレイ』が好きだったこともあって、少しもの足らない気がした。実はいまでもそうで、やっぱりライのスライドプレイを思う存分聴きたい。しかし『チャベス・ラヴィーン』以来『エレクション・スペシャル』に至るまで、そういうソロは少ない。というか、ほとんどない。
来日コンサートであれほどギンギンにスライドを弾いてくれたのに、アルバムじゃ弾いてくれないのか、と思わずにいられない。
ただ、だからといってアルバムのサウンドがもの足らないかというと、そういうことはない。ほんとに素晴らしいし、唯一の難点であったボーカルが個性も技術も併せ持った表現にまで達したことで、もはやライは無敵であるとさえ言える。
おまけに、サウンドの要であるリズムパートに息子ヨアキムを配したことで、ますますライの音楽世界は確固たるものとなっているように感じる。
その究極的成果を、この2012年新作『エレクション・スペシャル』で聴くことができる。
アルバムは9曲収録で、そのすべてがライのオリジナルである。1曲のみアーノルド・マッカラーがコーラスで参加している以外は、すべてライと息子ヨアキムの2人だけでレコーディングされている。多重録音を駆使したサウンドは、ミニマルにしてリッチ。
アコースティックとエレクトリックギターをブレンドさせ、マンドリンとベースもライの演奏だ。隠し味的に鳴り響くスライドギターも絶妙な味わいを醸し出している。
9曲すべてが最高に気持ちのいいアメリカンルーツミュージックであり、歌もギターもリズムも最高の傑作アルバムといえる。
多重録音にありがちな『堅さ』は確かに感じるが、そこは超ベテランのライ、リアリティのある奥深さで豊穣なアメリカンミュージックを聴かせてくれる。
アメリカンルーツミュージックが好きな人は、間違いなく気に入ると思う。
さて、『チャベス・ラヴィーン』以降のライに特徴的な三つ目のこと。それは歌詞である。具体的には、非常に政治性が濃い歌詞が増えたことだ。
ライは自他共に認める左翼思想の持ち主で、それはデビューアルバムから一貫している。当初はアルバム丸ごとカバーが占めていたので、取り上げられている歌はライの思想でもあり、オリジナルの作者の思想でもありと、ライ自身の生のコトバからは少し遊離した歌詞であった。つまりライは、他人の共感するコトバが込められた歌を自身の表現手段としても使っていたのである。
ウディ・ガスリーのカバーを歌うライは、ウディをリスペクトするミュージシャンとしてだけでなく、その歌詞に共感する自己をも表現していた。
『チャベス・ラヴィーン』ではまだカバー曲が含まれていたが、ついに次作『バディ』において全曲自作というアルバムになったのである。
戯作的な歌詞にカントリーフレイバーあふれる気持ちのいいアルバムだったが、ようやくすべての歌詞を自分で書いたライの思想が濃厚に現れ始めた。その思想とは、『哲学思想』というよりは『政治思想』であった。
その傾向は次の『フラットヘッド』にもつながり、もちろんその次の『プル・アップ』にも継続される。
自分のコトバで自分の音楽を表現し、自分で歌い、ギターを弾き、息子のリズムをバックにしたライは、もう自由自在である。
『プル・アップ』では、ジョン・リー・フッカーを大統領に、という歌を作り、サウンドはまんまジョン・リーのパロディでそっくりに演奏。かつ政治色濃厚なブルース。
このような戯作的かつパロディ的批評精神の歌は、『ゲットリズム』以前には無かった。
それは最新作『エレクション・スペシャル』で行き着いた感がある。
このアルバムは全曲政治の歌である。まさに『選挙大特集』。『コールド・コールド・フィーリング』はエルモア・ジェームスそのままのドブルース。もちろんスライドプレイ炸裂である。歌詞は(オバマ)大統領のモノローグという設定だ。
ほとんどの日本人は、もちろん僕もそうだが、一般的に英語の歌については、一聴して歌の意味がわからない。歌詞カードを読んで、ようやく理解できるので、まずサウンドから入ってくる。
今回のライの新譜については、これはとてもラッキーなことだと思うのだ。逆説的だが。
歌はもちろん、その意味がわかってこそなので、理解できることで歌を体験したことになると思うが、ここまで政治色が強いと、サウンドに霧がかかってしまうリスナーも出てくるだろうことは想像に難くない。
米国では、このアルバムを嫌悪する人々も大勢いるようだ。そりゃそうだろう、ライは政治思想の片方を支持するのみならず、対立するもう片方を排斥する意志をこのアルバムで明確に表明しているのだから。9曲目に収録されているナンバーには、もはや比喩などなく直接的で攻撃的な歌詞で埋め尽くされている。
そういう意味では、この素晴らしいアルバムは、ライの音楽世界を好きな人には『最高』で、歌われている歌詞に反発する人には『最低』という、『最高で最低』のアルバムとなっている。
歌詞があることで、音楽は歌になる。しかし、歌詞のおかげて音楽を聴いてもらえないことも起こり得る。
『エレクション・スペシャル』は、米国では踏み絵のようなアルバムになっているというわけだ。
日本人は政治への関心がとりわけ希薄だとよく耳にする。それは、政治の話題が日常的ではないので、海外に行っても政治の話題についていけない人が多いからだ。
日本では『政治、宗教の日常話はタブー』との暗黙の了解が根強い。しかし、欧米ではタブーではない。むしろ、あたりまえな話題だ。
年に数回英国の人とビジネスで接する機会があるが、食事の席で彼らは必ず政治の話をするし、こちらにも質問してくる。そのときは『わかりません』とは言えないし、言ってはいけない。自分の考えを、普通に、自然に、話ができなければならない。
今回のライのアルバムを聴いて、『表現における政治的主張』ということを改めて考えさせられた。
ライはアルバム一枚をまるまる使って、自分の政治思想信条をはっきりと表明し、意見し、反対意見の陣営に対して攻撃する。
ペンは剣より強し。
レコードは剣より強し。
のように見える。
正直に書くと、僕はこのアルバムについて、サウンドは大絶賛だが、歌詞においてここまでライの政治思想が音楽に一体化してしまうのは、ちょっとしんどい。
それはライの政治思想云々ということではない。
米国の政治について、民主党と共和党のどちらが政権を取ろうが、米国は米国の利益追求のマネージメントをすることは今後も変わらないし、我々日本人も、ビジネスと政治と日常生活において、米国の政権がどうなろうと、前進させねばならないこともまた変わらないからだ。
どちらかの政党に寄り添うようなビジネスをしている人々にとっては一大事だろうが、それでも生きていかねばならないことは人間としての問題であり、政治ではない。
僕は、音楽や文学、美術などの芸術は、人間を表現する媒体だと思っている。生きていくことの喜びと哀しみが表現されるものだと思っている。
僕が今回のライのアルバムを聴いてしんどいのは、そういう『人間の喜びや哀しみ』を感じられないからだ。ライの政治思想の云々ではなく、ライのメッセージから敵意や自己中心的な排他性を感じてしまうからである。
いままで、歴史的にみても、政治的な切り口で歌になった曲はたくさんある。たとえばボブ・マーリー、たとえばジョン・レノン。今回のライの歌詞は、そう考えるといかにも陳腐でお粗末な歌詞だと言える。残念ながら。
右や左の問題ではないのだ。
自分や、自分が支持する政治思想の正当性を一方的に表明し、反対意見の人々を攻撃して排斥し、揶揄するような歌が、果たして人々の心を豊かにするのだろうか。
正しいのは自分で、相手は間違っていると断じるような歌が、争いごとを減らす作用をもつのだろうか。
争いや対立、分裂を増長させることには役立つだろうが、ライは自分の故国である米国をそんな状態にしたいのだろうか。
どうせ思想を歌うなら、政治的思想よりも哲学的思想のほうが良かったなあ、と思ってしまう僕は、やはり欧米人から見たらへなちょこに見えるのかもしれない。
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